日が落ちると夜が来て、空が白むと朝を迎える。
「……そこはどこでも一緒なんだ……」
こんなわけの判らないところでなんて眠れないと思ったのに、気が付けば眠っていて、目を覚ますと知らない天井が最初に映って、障子越しに太陽の光を感じる。
天井は知らない部屋のものだし、ベッドじゃないし、床もフローリングじゃなくて畳で、着ている服もパジャマじゃなくて借りた浴衣だった。
どこもかしこもに馴染みのないものばかりで、目が覚めると自分の部屋とか、せめて病院のベッドの上とか、夢だったと安心できることを望んでいたのに、そこには知らない世界が広がっていた。
は溜息をつきながら目を閉じて、布団の中に潜り込む。
あんなにも夢だったらと願っていたのに、現実は無情だ。



君の為に出来ること(2)



布団の中で、もう一度眠って起きれば今度こそ自分の部屋じゃないだろうかと、ぐずぐずと転がっているうちに、外はどんどん明るくなってくる。
それでも枕にしがみついていると、障子に人影が映った。
さん、起きていて?朝ごはんを持ってきましたよ」
優しい声を掛けられても、ささくれ立った気持ちは落ち着かない。布団の中に潜り込んで返事もしなかった。
なのに、口の代わりに腹がぐぅと鳴る。
布団の中でが赤面していると、障子の向こうから一拍置いてくすくすと笑い声が聞こえた。
「次の間にお膳を置いておくわね」
そうして、寝たふりを咎めることもなく障子の影は隣の部屋へ移動する。
しばらく布団を被ったまま息を潜めているうちに、足音は廊下を遠ざかって行った。
「……広い家……」
ぽつりと呟いた声が消えると、ますますその静かさが耳に痛かった。
道順がに貸してくれた部屋は離れにある。
離れには道順の書斎と客間とその次の間の三つの部屋がある。ここは客間で、この布団は彼がこちらに寝泊りするときに使うものらしい。
そして広い庭を進めば、もちろん本邸がある。これがまた広い。
「日本人の棲家はウサギ小屋であるべきだー」
もう一度布団を頭から被って呟いた。
『お前は動物か』
枕元で声が聞こえて、布団を跳ね飛ばして起き上がる。だが周りを見回しても誰もいない。
ゆらりと、隣の空気が揺れた。
「また出たーっ!」
布団を抱き締めて後ろに後退りすると、次の間に続く襖に背中がぶつかった。破れなかったのが幸いなくらいの勢いだ。
『……矢張りお前には聞こえるのか。どうなってるんだろうな、お前は』
「な、な、何が!?わたし霊感なんかないからね!化けて出てこられても成仏させてあげられないし!」
『勝手に人を死人にするな!』
「だって人じゃないし!」
布団を抱き締めて叫ぶと、部屋が静かになった。いなくなったのかと目だけで部屋を見回すと、すぐ目の前の空気がゆらりと揺れる。
『確かに、人じゃないな』
「ギャーっ!!まだいるーっ」
『煩い!』


「やあ、楽しそうだ」
少女が現れた植え込みの前で話し込んでいた道順は、離れから聞こえる悲鳴ににこにこと微笑んでそんな呑気な感想を零して、友人に溜息をつかせることに成功した。
「帰る道の話はともかく、海市に彼女の様子を見に行かせたのは間違いではないか?」
「そうか?随分と元気になったようだが」
あれは元気になったのではなくて、未知の存在に怯えているだけなのでは。
志筑は僅かに少女に同情した。
「それで、海市はなんと?」
「うむ」
にこにこと笑っていた道順は、眉を寄せて表情を曇らせると着物の袖に手を入れて植え込みに視線を戻す。
「それが、あまり芳しくないようだ。本人は専門外だと怒っている」
「では……」
しばしの沈黙が降りる。
二人の視線はが降ってきたせいで穴が開くように乱れた植え込みに注がれる。志筑が空を見上げると、そこには何も変わらない日常の青空が広がるばかりだった。
「もしかすると、あの子は天生と同じだろうか」
「天生と?」
植え込みを見ながら考え込んでいた道順が漏らした呟きに、志筑が尋ね返すとゆっくりと頷いた。
「私は天生を引き取るとき、それがどうしても必要なのだという気がしていた」
「では、あの娘にもそれを感じると?」
「それが良く判らない」
肯定で返って来るかと思った疑問に疑問が返って来て、志筑は再び額を押さえた。長年の友人ではあるが、この男の独特の思考にはいまだにときどき悩まされる。
「なんにしろ天生のときとは違い、彼女はうちの庭先に現れた。おまけに異界から来たなどと、通常の場所へ出て説明したところで誰も信じてはくれまい。放り出すのはいささか心が痛む」
少しずれてはいるが、気のやさしい友人の言葉に志筑が腕を組んで嘆息する。
己は危険な役目を負い、その役目はいずれ息子の水生に受け継がれる。それは過酷とさえ言える運命で、他人のことで心を痛めている場合などではないだろうに。
「……守役を担わせてみるか?」
妖刀霧矢射を封じる役目を負う咲宮家に、いつまでも赤の他人を置いておくというわけにはいかない。かといって放り出せないのだというのなら、いっそ深くまで巻き込んでしまえばどうだろうと志筑が提案すると、道順は軽く首を傾げる。
「悪くはないが、本人の意思を確認する必要があるだろうな。守役は破霞を守るためなら命を掛けなければならん。気構えだけの問題ではなく、力量のこともある」
「無論、それらを先に確認した上での話だ。だが守役にもなれんようなら、やはりこの家に置いておくわけにはいかんぞ、道順」
「ふむ………」
友人の忠告に、道順は考えるように軽く頬を撫でた。


『俺は死人ではなく、神仙だ』
「シンセン?……え、つまり、活きの良い幽霊!?」
『そりゃ新鮮だろう!愚か者!』
「幽霊に突っ込まれた……」
が味噌汁の椀を手にうな垂れると、上から幽霊じゃない神仙だという訂正の声が聞こえる。
知らない場所の目覚めに落ち込んでも、未知の存在に怯えても、生きていれば腹が減る。
が隣の部屋に移動すると、昨日一生懸命に慰めてくれた優しそうな女性の言った通り、温かそうな湯気を立てる膳が置いてあった。
せっかくの料理を冷やすことはない、とそこは前向きに朝食に向かったは、姿の見えない声に色々と訂正しながら教えられている真っ最中だ。
『神仙とは、人に在らざる、だが人に近いものだ。特に日精霊は肉体も持っているから、人と変わらん。死にもする。だが俺は元より肉体を持たない月精霊だ。死は存在しない』
「……やっぱり幽霊なんじゃ……」
『違う!』
何度言っても同じ結論に戻るに、この阿呆が!と罵る声が続いた。
は味噌汁を啜り、漬物を箸で摘んで軽快な音を立ててかじる。
「えー……ヒウルは身体があって、ツキナミにはない……それでもどっちも同じものなの?」
『ようやく一歩前進か……。そうだ。俺たちは一括りで八神仙などというが、日精霊は生と誕生を司り、肉体を持つ。歳は取らんが斬ると死ぬ』
「不老不死だ!わー、ファンタジーみたい」
『不死じゃないと言っただろう!この阿呆!』
途端に怒鳴り飛ばされて、は唇を尖らせながら秋刀魚の塩焼きを箸でほぐす。
「不老なだけで充分ファンタジーなのにー」
『なんだ、そのふぁんたじーって。いいか、先に言っておくが日精霊は道順と争っている相手だ。俺と同じ人から外れたものだからといって、そちらに頼れると思うなよ』
「ヒウルは頼れないー……と。って、どこにいるのか、どんな人かも判らないのにどうやって頼ればいいのやら」
『それでいいんだ』
は軽く肩をすくめて汁椀から茶碗に持ち換える。
最初、姿なき声に怯えていたが、言葉を交わしているとこの「海市」は特に怖くないものだということが判ってきた。口は悪いが、の疑問や質問に律儀に答えたり訂正したりする。
「いい人だわ……」
『何か言ったか?』
こうして小声で呟いたことにまで返答して。
「いいえ、何でも。で、海市はツキナミなんだっけ?」
『そうだ。月精霊は安息と静寂を司る。元より肉体はないから、俺が死ぬことはない』
「成仏しないってこと?」
『だから俺は幽霊なんぞではないと言っているだろう!』
「また怒鳴る。海市はカルシウム不足だと思うね……って、身体がないから物も食べないんだっけ。……でも安息と静寂を司るってなに?んと……イメージ的には夜?」
『近いが違う。俺が司るものを端的に言えば、「死」だ』
は白米を口に運んだ箸を咥えたまま、しばし動きを停止した。
海市が司るものは、し。
四、師、誌、視、詩……死。
静寂と、安息を。
「判った!海市は詩人だ!」
『違う!』
空気が揺れた辺りを箸で指して叫ぶと、言い切る前に否定された。
「だって他に「し」で静寂と安息だなんて言ったら……っ」
恐ろしい答えが出そうな気がして言いよどんでいると、離れの玄関が開く軽妙な音が聞こえてきた。







海市が真面目すぎていい人……志筑さんと二人で苦労属性かも。


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