壮年の男は陽炎のような気配に導かれて庭を歩いていた。髪の大半に白が目立つようにはなっているが、その足取りは闊達として揺るぎない。
先の植え込みの上でゆらゆらと陽炎が立つ。
「……そこか、海市?」
「一体何が来るというのだ」
連れ立って歩いてきたもう一人の男は幾分歳も若いのかまだ髪も黒々としている。
二人で揃って陽炎の真上に奇妙な感覚をおぼえて見上げた空が、割れた。



君の為に出来ること(1)



昔からお転婆だとはよく言われていたし、運動は得意だった。木登りをしては猿のようだと言われ、泳げば河童のようだとも言われた。
女の子に対する誉め言葉ではないけれど、に限っていえば誉め言葉だ。
さすがに中学校に上がる頃には木登りは控えるようになっていたものの、この日は風に飛ばされた麦わら帽子を取りに上がっていたのだ。遊びだったわけじゃない。
久しぶりの木登りだったが問題なく軽々と登り、枝の先に引っ掛かっていた麦わら帽子に手を伸ばしたとき、幹を掴んでいた手が滑った。
「ひゃっ!」
落ちる、と目を瞑りながらそれでも背中から落ちるようにと身体を捻る。受身さえ失敗しなければ、この高さなら骨折はしても死にはしないと衝撃に備えたとき、ぐにゃりと何かの膜を突き抜けるようなおかしな感覚が襲ってきた。
「え!?」
思わず開いた視界に飛び込んできたのは、硝子のように割れた雲ひとつなかったはずの青い色の空。
「なん……!?」
何の幻かと思う間もなく、枝を折る激しい音とともに背中に突き上げるような衝撃が来る。
「う………」
背中を強打した痛みで息が詰まったが、間にクッションになる枝があったお陰か、どこかを骨折したという様子はなかった。
「い…た……」
だがが落ちた枝より下に、こんな立派なクッションになる枝など無かったはずだ。
しかし木の下は土の地面だったはずなのに、何かが下にあるように身体がブリッジの形に反り返っているのだから、身体を捻ったときに別の枝を巻き込んだだけかもしれない。
ぶつけた背中と、枝であちこちを切った痛みに顔をしかめながら目を開けたの視界に、知らない男が二人、逆さまに立っていた。
呆気に取られている二人が逆さまなのは、もちろん二人が逆立ちをしているからではない。
がブリッジ型に反り返っているためにそう見えるだけだ。
「……驚いた、人が降ってきた」
「それだけか、道順!?」
「いやしかし兵衛、他に言い様が無い」
この歳になってスカートで木登りして、見ず知らずの人を呆れさせてしまった。
しかしこれは帽子を取りに行った不可抗力だ。
そう言い訳するか、そ知らぬ振りでさっさとこの枝から降りて逃げ出すべきかと考えながら硬直して動かなかったのは、さっきまでは木の下にいなかったはずの人物が二人も立っていたことに、の方も驚いていたからだ。
「お嬢さん、脚が見えているよ」
今時珍しく、二人揃って和装の男の年嵩そうな方がめくりあがっていたのスカートを引き上げてくれる。
「道順……何故そうも落ち着いているのだ。これは一体どういうことだ」
黒髪の男がの上の空中を睨みつけてなにやら言い立てたので、つい視線で追ってゆらりと揺れた影に驚いて飛び起きた。
「なんかいるー!?」
「ほう、海市が見えるのか」
白髪の男は感心したように顎を撫でて頷く。
「感心していないで道順も……」
『異界の者だ』
「異界!?」
「それは珍しい」
「なにか聞こえた、いまどっかから聞こえた!」
一人落ち着いている白髪の男の側で辺りを見回したは、違和感を覚えて握っていた麦わら帽子で顔を半ば隠しながら、もう一度周りを見回した。
「木は……?」
「なにかな、お嬢さん」
「わたしが落ちた木はどこ!?ここはどこ!?さっきは公園だったのに、どっかの庭みたい!おじさんたち誰!?こんな植え込みさっきなかった!」
木の枝だと思ったクッション代わりになったものは、枝ではなく立派な植え込みだった。
辺りを見回すと、間違いなくどこかの庭だ。こんな日本庭園風な公園は近所にはない。
「どうやら純粋に事故のようだな。いいかねお嬢さん、ここは私の家の庭だ。植え込みはずっとここにあるし、君が落ちたという木はこの庭のどこにも存在しない。そして私は咲宮道順、こちらは志筑兵衛だ」
「おい、道順」
苦い顔をする志筑という男に笑うだけで、道順と名乗った男はを植え込みから抱き上げて降ろしてくれた。
「そして君がさっき声を聞いたのは、海市だ」
道順が指を差す先がゆらりと揺れて、は再び悲鳴を上げた。


水生は戸惑っていた。
先ほど父が離れから連れてきた少女はひたすら泣きじゃくるだけで、水生の呼びかけにはちっとも応えてくれない。
いつの間に志筑以外の来客があったのだろうとか、どうして自分と同じ歳くらいの女の子が父の客なんだろうとか、どうしてこの子は泣き止んでくれないのだろうとか、それ以前になぜこの子は小さな傷だけど、切り傷だらけなのだろうかとか、とにかく困ることが多すぎる。
しばらく相手をしてあげなさいと言いつけた父は、隣の部屋で母と友人の志筑と話し合っていて、泣いている女の子を水生に押し付けたきりなのだ。
女の子の相手なら母の方がずっと適任なのにと、困惑しながら畳に手をついて下から少女を見上げた。
「ねえ、どうして泣いているの?」
「………りたい……」
「え……?」
「おうち……かえりたい……」
しゃくりあげならそれだけ言うと、またしくしくと泣く少女に水生は呆気に取られる。
中学生にもなって、迷子になったくらいでこんなに泣くなんて。
ひょっとしたら小学生かもしれないが、それでも高学年にもなれば住所も電話番号もわかるだろう。ちょっと知らないところで迷子になったからといって、そんな身も世もなく泣き崩れるなんて、泣き虫にしても度が過ぎる。
少女を扱いかねてその正面に正座していると、隣の部屋に続く襖が開いた。
「あらあら水生、ちゃんと慰めてあげないと駄目じゃないの」
「慰めてって……だってこの子、泣いてばかりで。家に帰りたいって言ってるけど……」
母は美しい顔に憂いを乗せて、少女の横に膝をつくと肩をそっと抱いた。
「大丈夫よ、きっと海市さんが帰り道を見つけてくれますからね」
「おと……さ………おかあさ………おにいちゃ……あ、会いたいよぉ……」
泣き続ける少女の肩を抱いたまま母は水生に頷いて隣の部屋に行くように促す。
部屋を移って襖を閉めても、一枚隔てただけでは聞こえてくる泣き声を遮ることはできない。
反対に、あちらは大泣きしているのでこちらの声は聞こえないだろうけれど。
父とその友人の志筑が並んで座る正面に正座をすると、父はおもむろに切り出した。
「水生、あの子はしばらくうちで預かることにした」
「で、でも帰りたいと泣いているけれど……」
「帰せるものなら帰してやりたいが、帰り道がわからんのだ」
「え!?」
そんな馬鹿な。小さな子供ならまだしも、十三歳の水生と同じくらいの年頃に見えるのに、どうして自分の家の住所や電話番号までわからないのか。
そう訊ねたかったが父と志筑の表情は深刻で、ひょっとしたら帰り道がわからないというのは何かの比喩かもしれないと思う。
父の知り合いか志筑の知り合いの娘で、何か家庭で揉め事があって帰すと彼女のためにならないとか、その辺りが水生の想像の限界だった。
「あの子が落ち着くまでのしばらくはうちで預かる。それでもまだ帰れそうにないときは、時が来るまで兵衛が預かることになった。お前は同じ歳頃だから、仲良くしてあげなさい」
仲良くと言われても。
まだ泣いているだけの少女とどう接したらいいのかも、まったく見当がつかない。
かといって父の言葉を拒否するのも一人泣いている少女を思うと後味が悪く、兄が学校から帰ってきたら手助けしてもらおうと考えながら頷いた。


まったくわけがわからない。
風で帽子が飛ばされて、久々に木に登ったら失敗して枝から落ちた。
怪我くらいは覚悟したが、家に帰れないというのは予想だにしない事態だった。
最初は何の悪い冗談だと怒ったものの、木から落ちただけなのに知らない場所にいるし、変な声は聞こえるし、家の外に出て住所を見ても家からありえないほど離れている場所のものだった。
枝から落ちたときに気を失った覚えはない。
だがもしも、しばらくの間気を失っていたのなら、誰かに運ばれてきた可能性だってある。
そう思って電話を借りて家に連絡を取ろうとしても、その番号は現在使われておりませんのアナウンスが流れるだけだし、新聞を見ると年号が少し違っていた。
外に飛び出して見つけた本屋で家への帰り方を探そうと、片っ端から列車の時刻表や日本地図や情報雑誌などを見て回って、重大なことに気付いた。
年と干支が合っていない。所々の地名が違う。
あの家一軒の中の物だけなら壮大な素人ドッキリかと思えたが、がどこに行くかもわからないのに、街中の本屋の本にまで仕掛けができるはずもない。
本屋の片隅で途方に暮れていたを、わざわざ道順と志筑が捜し当てて咲宮家まで連れ帰ってくれる間、ひたすら呆然としていた。
そうして、あの不思議な声が教えてくれたのだ。
家には帰れないと。
「ど、どうして!?」
『地続きにお前の家などないからだ。当然だろう』
「海市、言葉を選びなさい」
道順が腕を組んで溜息を吐く間にも、みるみるうちにの目に涙が溜まる。
昔から泣いたことなど滅多にない。だけどもう二度と家に帰れないと言われては気丈に振舞うにも限度がある。
ずれた干支、違う年号、違う地名、繋がらない電話。
「……お父さん……お母さん……お兄ちゃん……」
しゃくりあげ始めたに道順は斜め後ろを顧みた。
「海市、この子の帰り道を探してはもらえまいか」
『何故俺が!』
「空気の歪みが読めるのだろう?この子が現れることもわかったではないか」
『それとこれとは話が違う!第一俺は、お前の役目を手助けするつもりであって、便利屋になるつもりはないぞ』
「お嬢さん、今からこの海市が君の帰り道を探してくれる。だがどれほど時間が掛かるかわからないから、その間はこの家で過ごしなさい」
『聞けーっ!』
「しかし道順、この家には霧矢射がある。あまり部外者を入れることは賛同できんぞ」
「そうだな……では、とにかく藤香も交えて話し合ってみるか。この子をうちで預かるのなら、実際に面倒をみるのは彼女だしな」
そうして離れから本宅へ連れて行かれたは、この家の息子という少年と同じ部屋に入れられて、これからのことを思うと膨らむ不安と、会いたい人たちが次々と思い浮かぶ辛さに泣き続けた。


すっと音もなく廊下に続く障子が開いて、少女を宥めていた藤香が顔を上げると高校生の息子が帰って来ていた。
「あら天生、お帰りなさい」
「……只今戻りました。お母さん、その子は」
「うちで預かることになった子よ。名前は……まだ聞けていないのだけど」
泣きじゃくる少女に困惑した母親の様子を見て、学ランの襟を外しながら部屋に入ってきた青年は、少女の頭に手を置いて乱暴に髪をかき混ぜた。
「天生」
驚いたのは母だけではなく、泣いていた少女もびっくりして泣くことを一瞬忘れたように目を瞬いて顔を上げる。
顔を上げた少女の前に膝をつくと、手を置いていた頭をそのまま自分の肩口に抱き寄せた。
反対側の手で、軽く背中を叩いてやる。
しばらく沈黙していた少女は再びしくしくと泣き始めたが、今度は何もかも否定して遮断するような泣き方ではなくて、抱き寄せてくれた青年に縋り付いて涙を零した。
「藤香、その子のことだが……」
隣の部屋の襖が開いて、部屋に入ってきた道順は驚いて足を止める。
「天生、帰って来ていたのか」
「はい、只今戻りました」
「あ、兄さん……おかりなさい……」
兄の帰宅よりも、先ほどまでは激しく泣きじゃくっていた少女が静かに兄に縋って泣いているのを見て戸惑う弟に、天生は苦笑を浮かべて少女の背中を叩く。
「ただいま、水生。少し懐かしいよ」
「え……?」
「よく水生もこうやって泣いた」
少女を宥めることができたのは経験上だといわれて、水生は顔を赤く染める。
「ぼ、僕はもうそんな風に泣いたりしないよ」
「そう、だから懐かしいんだよ」
子供たちの様子に、大人は顔を見合わせてとりあえずほっと息を吐いた。







水生のほんわかしているのにときどき強気に強引なのは、お父さん譲りだといいなあと
思ったので、道順さん天然で強引な人に(^^;)
守役の人たちとも早く会いたいと思います。



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