漬物をポリポリと咀嚼していると、障子の向こうに人影が映った。着物を着たシルエットで、それが誰だかはすぐに判る。
くん、少しいいかな」
「はい、どうぞー」
自分の家なのに律儀な人だと思いながらが気軽な返答をすると、滑るように静かに障子が開いた。
道順は食事中のを見て、目尻にしわを寄せて柔らかく微笑むと部屋に入っての正面に座った。笑顔の優しい人だと思う。
「だいぶ海市に慣れたようだね」
「慣れたというか……」
『おい道順!俺はもうこのガキの面倒を見るのは御免だぞ!?』
「ふむ、仲良くなってよかった」
『聞けーっ!』
斜め後ろから聞こえる悲鳴のような怒声に、自分が元の原因とはいえは少し海市に同情した。
お茶を飲んで最後の一口を完全に流し込むとは両手を合わせてご馳走様でしたと一礼をする。
道順は笑顔のままで頷いて、外を指差した。
「では、食後の腹ごなしに軽い運動でもどうかね。気晴らしになるかもしれないと思うのだが」
いい人だ!
いきなり現れたを家に泊めてくれただけでなくこんな気遣いまでしてくれる。
父親ほど歳の離れた相手との散歩は少々会話に困りそうだとも思ったが、海市との会話のお陰で夜が明けて目が覚めたばかりのときの憂鬱さが少しは収まっていたこともあって、は素直に頷いてその好意を受けることにした。



君の為に出来ること(3)



「………で……どこが軽い運動……?」
動き易い服がいいと言われて首を傾げながらも自分の服ではなく、借りた服に着替えて一緒に離れを出た。
そして今、道場の板の間に寝転がって、は小さく弱々しい声で呟く。
全身汗びっしょりで、竹刀を握っていた手はすっかり痺れて指が上手く曲がらない。
確かに道順は「軽い運動」と言った。「散歩」とは言ってない。
だからってド素人に竹刀を持たせて打ち込みをかけてくるのはどうかと思う。
「いやいや、中々に筋は悪くない」
人が汗まみれでぐったりと倒れているというのに、道順は僅かに汗が滲んだかどうかの程度で飄々として頷くだけだ。
「す……筋って」
「一度も身体に竹刀を届かせなかった」
「防具無しで届いたら大変なことになってますよ!大惨事!」
冗談じゃないと悲鳴を上げて起き上がったに、道場の端で座って打ち込みの様子を見ていた志筑が立ち上がりながら首を振る。
「いや、本当に身体に届くような打ち込みでも、道順ならばそれを寸止めで抑えられる。そうではなくて、寸止めをさせなかったと誉めているのだ」
それは必死だったからだ。
は年長者二人の呑気な言葉に、力尽きたように仰向けに倒れ込んだ。
手加減というか、相手が本気ではなかったというのも判っている。力を抜いての打ち込みだったのだろう。当然だ。
誉められても嬉しくない……はずなのに、やはりそれでも誉め言葉を聞くと少し嬉しい。
打ち込みされるなんていうとんでもない経験をさせられたのに、疲労や腹立ちが少し収まるのを感じた。それに、くたくたになるまで身体を動かしていた間は、家に帰れない焦燥を覚える暇もなかった。
道場の高い天井の梁をぼんやりを眺めていると、視界に道順の笑顔が入ってきた。
「どうかね、身体を動かすと少しはすっとしただろう」
道順の笑みは、にこりと朗らかで人好きのするものだ。
ずぶの素人にいきなり竹刀を握らせて打ち込んでくるような、無茶をしておいて。
だが道順の言葉は正しい。
「それは……そうなんですけど………疲れました」
正直に返したに、道順は声を立てて笑い、視界の端で志筑が苦笑している様子が見えた。
ふと道順が顔を上げ、床に張り付いていたの耳にも床を歩く足音が聞こえてくる。
「失礼します」
本邸へ続く廊下から現れた天生は、道場の光景に僅かに眉を動かした。
床から逆さにそのほとんど表情の動かない天生を見上げていると、静かに道場に入ってきた天生はの肩の下に手を入れて抱え起こしてくる。
「鍛錬が終わったなら礼を取るのが筋だ」
「へ?え、ええっと」
しゃんと座れと咎められてが困惑すると、当の道順が竹刀を床に突いたまま片手を振って笑う。
「いや、天生。鍛錬だったわけではないのだ。その子はまだ門弟ではないよ」
『まだ』ってなんだろう。
言葉に端に微妙な引っ掛かりを覚えつつ、抱き起こされたは天生に言われた通りに床に正座で座り直した。
門弟ではないし、鍛錬でもなかったけれど、道順がを道場に連れてきたのは落ち込んでいることを見取っての気晴らしのためだ。
方法に多少の理不尽を覚えはしても礼を言うのが筋だろうと、まるでゴムでも引っ掛けて引っ張られているような筋肉を無理やり動かして床に手をついて頭を下げる。
「ありがとうございました」
「手の位置をこちらに」
指を揃えて床についた手の位置を天生に少し修正された。
身体がぎしぎしと軋むように動かしにくい。きっと明日は筋肉痛だとそれを思うと少々泣きたくなったものの、礼を取って顔を上げたに道順は微笑んで頷く。
「疲れただろう、風呂で汗を流しておいで。ゆっくりと浸かって疲れた筋を解すのを忘れないようにしておくといい。天生、くんを案内して、それから着替えを用意してあげなさい」
「はい」
天生はと同じように床に膝をつくと一礼を取ってから顔を上げる。
「それと、お父さん。お母さんが探していました」
「そうか」
道順が頷くのを確認して立ち上がった天生に視線で促されて、も慌てて立ち上がると天生について道場を後にする。
廊下に出ると天生が振り返ってまた道順に一礼をしたので、もそれに倣って頭を下げた。見送る道順は最後まで優しい笑顔のままだった。


無言で廊下を歩く天生に、は小走りでその背中についていく。
それにしても、昨日彼に宥められて落ち着いてから道順に聞いた話では、彼はこの家の長男だということだった。親子なのにあんな礼を取ったりして、この家は家構えだけでなく体質そのものが非常に古めかしい。
それなのに、家の広さや異世界だということに圧倒されたり怯えたりはしたものの、雰囲気は怖くない。それは笑顔の優しい道順の人柄のせいだろうか。
打ち込みを掛けて来たときの表情は、まるで一遍して厳しいものだったけれど、あのときはそれ以上に竹刀を防ぐことに必死だった。
「あ、あの……あの人……お、お父様は大変厳しい人……なんですか?」
天生が無言なので何か話題をと探して言ってみたものの、自分でもそれはどうかと思う。
は客だということもあるだろうけれど、それだって招かれざる客なのに家に置いて優しい笑顔で厄介事といった様子も見せない。
けれど天生の折り目正しい姿勢は、本来のの周囲では想像もつかないようなものだ。躾は厳しいのだろうかと質問してみると、天生は肩越しに僅かにを返り見た。
「……そう見えたか?」
「え、えーと………全然……」
自分で質問しておきながら、自分で否定すると、天生の目尻が僅かに下がった。
優しい笑顔だ。
昨日はつい縋り付いて泣いてしまったけれど、怖いというのとはまた別に無表情に近い天生は少し近寄り難かった。
だけど笑うとその笑顔は道順の雰囲気に似ている。
は少しほっとして胸を撫で下ろす。
そんなの内心に気づいているのかいないのか、天生は僅かな微笑を浮かべたままで頷いた。
「そういうことだ」
「え、そ、それはどういうことでしょうか……」
結局厳しいのか厳しくないのかどちらだ。
「厳しくあり、優しくもある人……ということだ」
天生はそれだけ言うと、また前を見て歩き出す。
厳しくあり、優しくもある人。
本当にそのままで説明になってもいないのに、なぜか説得力がある言葉だ。
安心させるような笑顔と、竹刀を握ったときの厳しい表情。
息子は堅苦しいくらいの態度なのに、そこに余所余所しさや冷たい空気のようなものはない。
道順を見ていると、なにか安定感のようなものを感じてほっとする。
は天生の背中を追いながら、ようやくひとつ納得の行く言葉が思い浮かんだ。
「そうか……きっとああいうのを包容力っていうんだ」
納得して呟きながら頷く。
前を行く天生は振り返ってはいなかったけれど、何故かその背中を見ていると微笑んでいるような気がした。








天生はきっと家族が大好きだったはずという妄想。
弟は可愛くて、両親は尊敬していたと思うんです。


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