それから有利の日課には、ロードワークとキャッチボールに加えて、異界の少女の演奏を聞くことが加えられた。
彼女は有利が側に居さえすれば、その他に何人いようと気には留めなかったので、大体は有利の他に護衛のコンラッドと、まだふたりの仲を疑っているヴォルフラムが同席した。
手が空けばギュンターやグウェンダルも立ち寄ることもあったのだが、とにかくギュンターは一曲ごとに涙しながら過剰に褒め称えるので、有利に命じられたコンラッドにたびたび放り出されている。
楽譜はこちらの世界でもそう大きくは変わらないようで、少し勉強すれば読めるようになったらしい。今、が楽譜を元に弾いているのは眞魔国の古典曲だ。
最近ではヴォルフラムも彼女の演奏が気に入ったらしく、コンラッドが説明した通りに有利は楽士としての腕前を楽しんでいるということを信じ始めているようだった。
現に、一曲弾き終えたが一礼をすると、この演奏も気に入ったらしく軽く手を叩いた。



アンダンテ(9)



「うん、さすがにユーリが見込んだ楽士だ。なかなかの腕前だ」
「いや、すげぇ上手いことはそのとおりだけど、おれ別に演奏家として贔屓してるというより友達なんだけどね……」
「陛下、納得させておいた方がややこしくないと思いますよ」
「あ、やっぱり?」
「何をこそこそと話している?」
「な、何でもないです」
愛想笑いで誤魔化すと、次のリクエストを待っているに向き直る。
「それにしてもさ、こっちの曲は楽譜があるからいいとして、地球の曲も何曲も弾いてるだろ?全部暗記してんの?どれもこれも結構長い曲だよね」
「暗譜している曲はごく僅かです。子供の頃からずっと弾いている曲ばかりで」
「覚えるほど弾くんだね。じゃあ今まで聞いたのがの好きな曲か」
「いいえ、あれらは両親やハインツがわたしの演奏を気に入ってくれたものばかりで」
「……ハインツ?」
そう言えば、の事情は何も聞いていない。
日本人の両親がいて、だけど国籍はオーストリア。フルネームが
それだけだ。
両親と別に呼んだということは、父親ということでもないだろう。
初めての人名に反応した有利に、はそっと寂しそうに微笑んだ。
「はい。わたしの一番大切な人です……」
がつんと後頭部を殴られたような衝撃が走る。
一体何に衝撃を受けたのかさっぱりわからない。その寂しそうな微笑みにか、それとも男の名前にか。
……なんだ、友達はいないって、彼氏はいるんじゃないか。
拗ねたような愚痴が思い浮かんで、すぐに驚いた。
どうして恋人がいるからと拗ねる必要があるんだ。彼女とはただの友達なのに。
でも恋人のことを話題に出して寂しそうなんてことがあるだろうか。
上手くいっていないとか?
窓の外で羽ばたきが聞こえて、はっと気がついた有利は自分の興味を恥じて頬を染める。
友達の恋人との仲を勘繰るなんて、下世話な興味だ。
まさか考えが見透かされているはずはないだろうと思いながらを伺うと、彼女は窓の外を見ていた。
つられて窓に視線を移す。
「うわぁ!?コ、コッヒー!?」
とっくに慣れていると思っていたが、不意打ちには驚いた。窓の外に羽ばたいていた二体の骨飛族に思わず仰け反って、椅子から転がり落ちかけたところをすかさずコンラッドが支えてくれる。
「なんだユーリ、落ち着きのない。だがそれにしても骨飛族が一体何の用だろう」
有利を椅子に戻すとコンラッドは弟と同じ疑問を持って窓を開け放った。
「別に何か報せということでもないみたいだな……」
「ひょっとして、の演奏が聞きたいんじゃないの?」
有利がぽんと手を叩くと、骨飛族はそれに呼応するようにカタカタと顎を鳴らす。
「う……うわ……い、いつ見てもなんつーか、あの喜び方って……」
「へえ、骨飛族が音楽を聴きたがるなんてね」
コンラッドが感心したように呟いた。
「あ、あのさあ、コッヒーも一緒にいいかな……?」
彼らも立派な魔族で、とを窺った有利は途中で言葉を詰まらせた。
彼女はじっと骨飛族を見つめていて、その瞳に先ほど恋人の名前を呼んだときのような寂しさが浮かんでいたからだ。
そうか、彼女が恋人の話題で寂しそうだったのは、恋人を思い出していたからか。
骨飛族の存在はここが地球ではないことをはっきりと自覚させる。
彼女はもうここで二週間近くも過ごしているのだ。元いた場所に帰れるという保証もまだない。会いたい人に会えなくて、つらいのは当然だろう。
だが有利に話しかけられると、は穏やかに微笑んで骨飛族の鑑賞を受け入れた。
「……最初も思ったんだけど、コッヒーが怖くないんだね?」
女の子ってこういうものは怖いんじゃないだろうか。
は首を傾げて弓を持った拳を頬に当てる。
「ですが、彼らには何の危害も加えられていませんから」
それは正しい判断だとは思うけれど、見た目は十分怖いと思うのに。
「……魔族の方たちは亡くなられると、みな彼らのような姿になるのですか?」
窓の外の骨飛族に視線を戻してが持った疑問に、有利は乾いた笑いを漏らす。
「あー……なるほど……おれも最初はそう思ったんだけどさあ、そうじゃなくて、あいつらは生まれたときからああいう種族なんだって」
骨飛族の生態はまだ謎だらけだという話だが、一体どうやって増えているのだろうか。
不思議だ。細胞分裂か?
説明しながら有利自身も疑問に首を捻っていると、は寂しそうな視線を骨飛族に向けて、ぽつりと小さく呟いた。
「そうですか……彼らは死者ではないのですね……」


には故郷に恋人がいるらしいという有利の話を聞いてヴォルフラムは俄然、楽しげに笑った。
「なんだユーリ、それは残念だったな!」
「う、うるさいなー。別に残念じゃねーよ。友達に恋人がいて嫌なことがあるとすれば、一人身の僻みくらいだろ」
「じゃあ僻む必要はないな。お前にはぼくという誇らしい婚約者がいるのだから!」
「いや、だからお前さあ……」
溜め息をついて肩を落とした有利に、コンラッドが苦笑しながら紅茶を淹れたカップをテーブルに置いた。
「ですがユーリ、どこか落ち込んで見えますよ?」
「そりゃは可愛いから……じゃなくて!帰りたいんだろうなーって思ったんだよ」
「え……?」
「え?じゃないよ。当たり前だろ。恋人がいるなら会いたいに決まってるよ。いや、恋人じゃなくても、ご両親とかさ………」
両親に会いたいのは自分だろう?
のことを考えていたはずなのに、いつの間にか自分の家族を思い出していて有利は慌てて首を振った。
ここ最近、のことばかり気にしていて、せっかく忘れていたのに。
家族を思い出して落ち込んだ有利は気付いていないが、コンラッドはどこか納得し難い面持ちで首を捻った。
有利は考えもしないようだが、彼女は決して地球への帰還を望んではいない。
この世界にやってきたときのような無気力さはもうないとはいえ、いや、もうない分だけ彼女は有利の側にあることを望んでいるように見える。
それは他人事ではないからこそ、コンラッドには確信にも似た観測である。
「……そのハインツ氏ですが、本当に恋人だと彼女が言ったんですか?」
「え、なに?ああ、ハインツさんね。だって一番大事な人ってさあ、両親じゃないみたいだったし、兄弟や友達をそんな表現したりしないだろ?」
「ええ、まあ……」
どうやら恋人ではなく、『一番大切な人』と言ったらしい。だがどちらにしてもコンラッドには納得がいかない。そんな人物が待っているのに、帰らなくてもいい、あるいは帰りたくないなどと思うものだろうか。
考えたのは有利と同じく恋人との仲がこじれているのだろうかということと、もうひとつ。
かつての己の姿と重なったのは、同じ状況だったからではないだろうかと思ったのだ。
彼女の大切な人は、もしかするともう二度と手の届かないところへ行ってしまったのではないだろうか。
その可能性を有利に告げておくべきかどうか迷う。
もし大切な人を亡くしたばかりだとすれば、あまりその話題を口にしない方がいいという気がするし、勘繰りすぎで本当にただ仲がこじれているだけなら、素直な有利に彼女への気遣いで心労をかけるだけになるだろう。
どうすべきなのか、その場では答えが出なかった。


隣から個性的な鼾が聞えてきて、有利は眠れずに諦めてベッドから降りた。
「なんだろうなー、毎日こんなに忙しく働いているのになんで目が覚めるんだか……」
不眠症というほどではないが、最近眠りが浅い気がして首を捻りながら窓に近付く。
いつかの夜のように窓を開けて夜空を見上げると、まるであのときの再現のように遠くからバイオリンの音色が聞こえた。
「……またひとりで弾いてんのかな」
途切れがちの音ではよくわからないが、夜の闇のせいか昼間よりも音が重く感じる。
練習しているのなら邪魔するべきではないけど。
そう考えながら窓を閉めると、寝室を後にする。
つい眠っているヴォルフラムを後ろめたく確認してしまったが、友人に会いに行くだけで何が後ろめたいのかもよくわからない。
滑るように廊下に出ると、きっとこの間と同じ場所で弾いているに違いないとまっすぐに中庭に向かう。
外へ通じる扉を押し開けると、やはり音がはっきりと聞こえてきた。
曲まであの時と同じだ。
「……そういえば、この曲はまだ弾いてもらったことなかったっけ?」
思い返してみると確信が持てる。たくさんの曲を弾いてもらったが、大半は楽譜が手元にないために地球ではなく眞魔国の曲だ。それでも、覚えている限りの曲は一通り弾いたと言っていたのに。
「特別な人に聞かせたい特別な曲とかー……」
自分で思いついた可能性に、東屋へ向かっていた有利の足がぴたりと止まった。
もしそうなら、勝手に有利が聞いていいはずがない。
あのときも、そしてやっぱり今もどこか寂しい音に聞こえる。
戻るべきか、進んでもいいものか、困惑してぼんやりと植え込みの向こうの東屋の屋根を見上げた。
思わず止まっていた足が後ろの下がる。
「コッヒー!?」
屋根の上にいた骨飛族に驚いて上げてしまった声に、慌てて口を塞いだが遅かった。
聞こえていたバイオリンの音色が途切れる。
どう考えても邪魔をしてしまった。気まずくて逃げ出したい衝動に駆られたが、どうにか踏みとどまってそろりと植え込みの角を曲がった。練習をか、それとも別の何かをか、邪魔してしまったことは一言謝るべきだ。
「あの〜……」
東屋でバイオリンを片手に佇んでいるのはもちろんだった。
「ユーリ様?」
周囲には誰もおらず、練習だったのか、地球を思い出しての演奏だったのかは不明だが、髪に手を突っ込んで誤魔化すように笑った。
「ご、ごめん……邪魔するつもりじゃ……」
「いいえ、わたしの方こそ。またユーリ様のお休みの邪魔をしてしまったんですね」
「え、ち、違うよ!寝れなかったのは全然別のことで。ヴォルフラムの変な鼾……のせいでもないけど、ここからおれの部屋までってそんな響かないって。窓を開けたら、遠くにちょっとだけ音が聞こえてさ……」
落ち着きなく東屋を見回すが、前回と同じく明かりは持ってきていないようだ。だが考えてみればそれは有利も同じで、彼女も楽譜を見ないのならば月明かりで十分なのだろう。
「えっと、とにかく、おれもう退散する……!?」
最後にもう一度謝っておこうとすぐ目の前まで近付いて月明かりでの顔を見ると、拭ってはいたようだが確かに泣いた跡が残っていた。
「なんだよ、なんでひとりで泣くのさ」
「あ……」
有利に気付かれたと知って、は弓を持っていた手の甲で再び目を擦る。
「我慢すんなって!」
手首を掴んで引っ張り上げると、涙の残るの黒い瞳を覗き込む。
「ひとりで泣いたら寂しいだろ?なんのためにおれがいるんだよ。つらかったらおれのとこに来てよ。寂しかったらおれの前で泣いたらいいんだ。我慢しなくていい。おれがきっと、地球に帰る方法を見つけてみせるから、それまでおれを頼ってよ」
「かえ…る……」
「うん、絶対に、帰る方法を見つけるから……」
有利の約束に、の瞳には安堵や苦笑のような色は浮かばない。
逆にどこか寂しげに、悲しげに曇って目を伏せてしまう。
「そう……ですね……帰らなくちゃ……」
?」
帰る方法を見つけたというわけではないから喜ぶはずはないけれど、それでもこの反応はまったく予想しなかった。
「いつまでもご迷惑をお掛けするわけには、いきません」
「いや、そういう意味じゃないよ!だっておれはずっとが居てくれた方が嬉し……」
慌てて口を閉ざしたが、は敏感に反応して顔を上げる。
「本当ですか?」
「え、その……ほ、本心だけど……あ、で、でもちゃんと帰る方法を……」
涙の残る大きな黒い瞳でまっすぐに見つめられて、場違いにも鼓動が大きくなってくる。
変な期待が胸に湧き上がってきたような気がして、ごくりと音を立てて唾を飲み込んだ。
「本当に、ここに居ていいと……?」
この流れだと、だって次にくる言葉は決まっているんじゃないか?
いや、だけど彼女には待っている人がいるのに、そんな。
ひとり心の中で葛藤しながら、それでも理性に反して首ががくんと前に折れるように頷いてしまうと、有利のあらぬ妄想を肯定するようには震える声で小さく囁く。
「では……どうか、わたしをユーリ様のお側に……置いてください……」
小さな声は、静かな夜では十分すぎる音量で有利の耳に届いた。








予想しなかった申し出に戸惑うばかりですが。


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