「ユーリ!」
「ぐえっ」
後ろからジャージの襟首を掴まれて喉が詰まる。
だが乱暴な真似をした名付け親に怒る前に、すぐ目の前に柱を見つけて黙り込んだ。
どうやら自分から柱に向かって走っていたらしい。
「どうしたんですか、まだ寝惚けているんですか?」
「い、いやちょっと」
ある意味寝惚けているのかもしれない。夢見心地で現実感がない。
だってあんな美少女に、お側に置いてくださいだなんて……。
ランニングを再開したと思ったら、今度は噴水の方へと斜めに走っていく主にコンラッドは慌ててその腕を掴んで引き戻した。



アンダンテ(10)



朝食は大抵有利ととコンラッドの三人で取る。ほんの二日前までは、との仲を疑っていたヴォルフラムも頑張って起き出していたのだが、どうやらようやく杞憂だと判断したらしく昨日から三人の食事に戻っていた。
その席で、コンラッドは僅かに困惑した。
どうにも居心地が悪い。
今までは有利が何かとに話しかけているのが常だったのに、今日はぼんやりとスープをかき混ぜながら彼女を眺めているし、特に変わった様子がないように見えていたも、有利の視線に気付くと、にっこりと微笑む。
すると有利が慌てたように視線を外して、落ち着きなくパンに手を伸ばす。
一体なんだろうと首を捻りながらふたりを見比べていると、有利は彼女を眺めながらテーブルクロスにジャムを塗りつけていた。
「……ユーリ」
「え!?あ、な、なにコンラッド?」
「そんなもの食べる気ですか?」
「へ……?あ!わ、ど、どうしよ……うわっ!?」
あまりにも慌てた有利はナイフを放り出しながら立ち上がり、引き損ねた椅子の足に引っ掛かって椅子ごとひっくり返った。
「ユーリ!」
「ユーリ様!」
コンラッドが慌てて抱き起こしていると、もテーブルを迂回してきて有利のすぐ側に膝をつく。
「お怪我はありませんか?」
「だ、だだだ大丈夫!全っ然平気ダヨ!?」
ギクシャクと怪しい片言と角ばった動きで手を振ると、目の前のテーブルクロスを掴んで立ち上がろうとして、コンラッドが止めるよりも早く思い切り引っ張ってしまった。


「悪いコンラッド」
「いえ、ユーリに怪我なければ俺はそれでいいんですが」
魔王専用風呂に並んで浸かりながら、有利は深く溜め息をついた。
有利が引っ張ったテーブルクロスは、残念ながら新春隠し芸大会のように上の食器だけテーブルに残すということが出来ずに、有利と側についていたコンラッドとの上に食材ごと振ってきた。
結果、朝から風呂に入る羽目に。も今頃部屋の風呂で汚れた髪や身体を洗っていることだろう。
あの綺麗で繊細な指が、汚れた髪や身体を。
落ち込んでいたはずなのに、が入浴していることを考えると途端に身体中の血液が沸騰したように熱くなる。
「い、いや、だって十六歳の野球小僧には刺激が強すぎるっていうか!」
「落ち着いてくださいユーリ。一体どうしたんですか、さっきから」
突然に頭を抱えて叫び出した有利に、コンラッドは宥めるように肩を叩いた。もう十分に奇行を見てきたので、面食らうほどではない。
肩を叩かれて正気に戻ると、有利は再び膝を抱えて落ち込み始めた。
も怒ってるだろうなー」
「笑ってたじゃないですか」
頭からスープを被った彼女は驚いたように目を瞬いて、それから何がおかしかったのか、恐らく一連の有利の怪しい動きの、その極めつけというところが効いたのだろうけれども、声を立てて笑ったのだ。
こちらに来たときは無表情で、次に穏やかに有利には微笑むようになり、そうしてとうとう声を上げて笑った。
格段の進歩を有利の手で成し遂げたことを誇ってもいいはずだ。
「でもきっと呆れてるよー」
「だから笑ってたじゃないですか」
あんなに楽しそうに笑って呆れているということもないと思う。
「それにしても一体どうしたっていうんですか。彼女と何があったんです?」
「な!?ななな何が!?」
「何がって……あんなに彼女を眺めてぼんやりしていたら、原因が彼女だってことくらいはわかりますよ」
「べ、別にのせいじゃ!」
「ですが、彼女と何かあったんでしょう?」
重ねて訊ねると、有利は湯あたりしたように真っ赤になって、湯船の中に潜ってしまう。
慌てて湯の中から引き上げながら、どう見ても有利が浮かれる方向に発展があったのだという風にしか見えない。
せっかくヴォルフラムの疑いが解けた途端に有利の様子がこれでは元の木阿弥だ。
「愛の告白でも受けましたか?」
「あ、愛ー!?」
有利は大袈裟に叫んで仰け反りながら両手を振って否定する。
「そんなんじゃないよ!そ、そいうんじゃないと思うな!だってにはハインツさんっていう恋人がー……」
真っ赤になって言い訳をしていた有利は、それから急に青褪め始める。
「そ、そうだよ。恋人がいるんだよな?」
「ユーリ?」
「……どういうことだろう……おれの勘違い?で、でも……」
ぶつぶつと考え込み始めた有利は、隣にコンラッドがいることすら忘れているように腕を組んで思考の底に沈んでしまう。
「あのユーリ、考え事なら風呂から上がってからの方が……」
「ユーリ!」
このまま湯あたりするまでひとりで煩悶しそうな様子に注意を促したところで、脱衣所の扉が勢いよく開いてヴォルフラムが飛び込んできた。
「な、なんでウェラー卿と入浴しているんだ!ぼくが眠っている間に、よからぬことをするつもりだったんだな!?」
おそらく寝起きすぐに侍女にでも話を聞いたのだろうけれど、ネグリジェのままで浴場まで怒鳴り込んできた弟にコンラッドは額を押さえる。
「落ち着けヴォルフ。陛下はご自分がひっくり返した朝食に俺を巻き込んだと恐縮されて、一緒に誘ってくださっただけだ。やましいことなんて欠片もないから」
「それならなんでそんなにくっついているんだ!下手な言い訳なんてして!ユーリ、この浮気者!」
「浮気!やっぱりこれって浮気なのかな!?」
「なにぃー!と、と、とうとう認めたな!?ゆ、許さないからな!」
「や、やっぱり浮気は良くないよな!?」
「当たり前だろう!恥知らずにもほどがあるぞ!」
話がまるで噛み合っていないのに、会話として成立して聞こえるところが恐ろしい。
有利はヴォルフラムの怒りのセリフの端々だけを拾っているし、ヴォルフラムは有利が罪の告白をしたのだと怒り心頭だ。
「ユーリ、ヴォルフが勘違いしているから少しこちらに戻ってきてください」
肩を揺さぶって意識を向けさせようと伸ばした手は、ヴォルフラムに打ち払われる。
「ユーリに触れるな!」
「いや、だから誤解が……」
「なにが誤解だ!今ここではっきりさせてやる!」
「そうだよ!おれの誤解かもしれないし、はっきりさせないと!」
有利は湯船から飛び出すと、タオルを掴んで脱衣所に駆て行く。
「ユーリ!逃げるなっ」
「ユーリ、待って!」
「お、お前まで逃げる気か!?そうはさせないからなっ」
コンラッドが弟につかまっている間に、有利は急いで身なりを整えるとの部屋までひとりで駆けて行ってしまった。


有利の部屋と魔王専用の湯殿はそこまで遠いわけではない。有利の部屋との部屋はごく近いので、出遅れたコンラッドに追いつかれる前に目的地にたどり着く。
勢いのままでノックすると、中からの返答を聞くと同時にドアを開いた。
「あのさ、!」
ドアを開けてノブを握り締めたまま、有利は思わず硬直してしまった。
別に彼女が着替えている最中だったわけではない。
それでも、湯上りで石鹸の香りが一面に漂う部屋で洗い髪を拭いている姿は、先ほどの想像と重なって有利の中の一部を刺激してしまう。
「ご、ごめん!」
許可を得てドアを開けたのだから謝るようなことは何もないはずなのに、謝りながら閉めてそのまま背中を預ける。
黒い髪を拭く白いタオルと繊細な指。あの指が一体どこを洗っていたのかというと。
「うわわわっ!な、何考えてんだ、おれ!?」
叫んだところで背中を押し付けていたドアが僅かに動いた。
ノブが回って、有利の体重で動かないと気付いたらしく、内側からノックが聞こえる。
「……あの……ユーリ様?」
「あ、ご、ごめん!」
慌てて飛びのいて扉を開けようとして、ノブを握ったまま考えた。
このまま顔が見えない方が、話がしやすいかもしれない。
もしも浮気だというのなら、説教とまではいなかくてもたしなめるくらいはした方がいい気がするし。人を好きになったことはあっても、恋愛という状態の経験がないから一般論というか理想論になるかもしれないけれど。
「先ほどのことならもう……」
「違うんだ!いや、それも悪かったんだけど!そうじゃなくて、昨日の約束の方で、話があるんだ」
短い沈黙の後、小さな声が返ってきた。
「やはり……お邪魔、ですか?」
「そうじゃなくてさ!おれは嬉しいよ?嬉しいけど、の帰りを待ってる人だっているんじゃないの?家族がいるんだろ?ハインツさんだって……」
恋人なんだろう人の名前を口にすると、浮かれたり迷ったりしていた気持ちが落ち着くのがわかった。
家族が、恋人が待っているんだろう?
このままここに居ていいはずがない。
そう思って言ったのに、返事は返ってこない。
長い長い沈黙に、有利は不安になってそっと扉を開けてみた。
薄く開いた扉の向こうにの姿はない。ドアのすぐ向こうにいたはずなのにと勢いよく開くと部屋に飛び込みかけて、足元でうずくまるを危うく蹴飛ばしてしまうところだった。
?なんでこんなところでしゃがみこんで……あ、腹痛いの?」
一緒にしゃがみ込んだ有利がそっとその背中に手を当てると、僅かに震えた声が小さく答える。
「誰も……」
「え?」
「誰も……待ってなんか、いません……」
そんなことないだろ?
言いかけて、ふと友人がいないと彼女が言ったときに考えたことを思い出す。
特殊な家庭環境とか?
でも彼女は両親やハインツ氏が気に入ってるという曲を覚え込むほど弾いている。虐待ということもないと思うけれど。
困惑しながらも背中を撫でるが、小さな身体は震えながら首を振るだけだ。
「え、えーと……と、とにかくこんなところで……立てる?」
部屋の入り口で膝を抱える手を掴んで上に引き上げようとすると、彼女はその有利の手にすがり付いて首を振る。
「お側に置いてください」
「……ハインツさんと顔をあわせづらい喧嘩とかした?でもさ、頑張って仲直りしようよ。眞魔国にいたら会えないよ。謝れないよ。あっちが悪いっていうなら、謝ってもらうことだってできな……」
「戻ったって会えないっ」
振り仰いだの黒い大きなアーモンド型の瞳から、溢れ出るように透明の雫が零れ落ち、頬を伝って絨毯に染み込んで行った。
「戻っても会えない……誰もいない……」
震える声が、戦慄く唇が、有利に訴えかけるように搾り出すように掠れた声で囁いた。
「みんな死んでしまったもの……っ」
何の言葉も出なかった。







戻れなくてもいいではなく、戻りたくないとの訴えに。


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