「君は私と同じ人種だ。音を捨てて生きることなどできはしない。寂しさに惑わされてはいけない。つらいのならば、自然に自ら弓を取れるようになるまで私の前で弾きなさい。私はいつでも君の音が聞きたいのだから」



アンダンテ(8)



たったひとりの聴衆のために奏でられた音は、一度も途切れることなく緩やかに、時に軽やかに流れた。
弦楽器など学校の授業で聞いたレコードでくらいしか接したこともないが、の技量が目を見張るほど優れていることはわかる。
興味のないはずの有利が、音から意識を逸らすことができないのだ。の姿ではなく音から。
そうと気付いたのは演奏が終わってからなのだから、どれほど集中していたのかと有利自身が驚いた。
弓を下ろしたが一礼をして、呆けていた有利は慌てて拍手をする。
「すごいよ!おれ、素人だけどの音がすごいのはわかるよ!それに、本当に左手は大丈夫なんだな。よかった……」
ほっと息をついたものの、いつまでたっても礼をしたままが顔を上げないので段々と不安になってくる。
……?ひょっとして手、痛い?」
「……いいえ」
短く答えた声が微かに震えているようで、驚いて椅子から立ち上がる。
「やっぱり痛いんじゃないのか!?ど、どうしようおれ……っ」
やはり弾かせてはいけなかったんだ。
そう有利が自己嫌悪に陥りそうになりながらも側に寄ると、ゆっくりと顔を上げた少女の頬を伝う雫に息を飲んだ。
「な、泣くほど痛い……?」
は緩く首を振って、バイオリンと弓を片手に持って空いた手で涙を拭う。
「いいえ陛下。ユーリ様。痛くはありません」
「じゃ、じゃあなんで……」
「弾けたから」
少女は両方の頬を拭って、まだ涙の残る瞳でまっすぐに有利を見据えた。
「最後まで、弾けたから」
「………そっか……それなら、いいんだ」
有利が納得したように呟くと、は深々ともう一度頭を下げた。
「ありがとうございます」
「おれ何もしてないよ!顔上げてよ!すごい演奏聞かせてもらったのはおれの方だし!」
「でも……わたしの音を好きだと言ってくださいました。わたしの音を聞いてくださると」
はゆっくりと顔を上げる。
「ユーリ様のおかげです」
綿毛のようなふわりとした柔らかい笑みに有利はしばし言葉を失った。
ヴォルフラムが言っていたように、まるで人形のように大きく表情を動かすことのなかったの初めての笑顔。
彼女が現れてまだたったの三日しか経っていないけれど、それでも三日もあって彼女とは拒絶か無反応という寂しい関係しかなかった。
今、ようやく彼女の心に触れられたのだと思うと誇らしささえ感じる。
「……左手、ホントに痛くないよね?」
「最初から痛くはありません」
「じゃあ、もう一曲何か弾いてって言ってもいいかな」
「わかる曲でしたら」
「いや、この曲ってリクエストがあるわけじゃなくて、の好きな曲。おれはクラシックとか知らないから」
とにかくの笑顔が嬉しくて、その音色が聴きたくてそう言ったのに、俯いた表情に一瞬愁いが浮かんだように見えてぎくりと震える。
なにかまずいことを言っただろうかと考えるよりも早く、はまた微笑を浮かべて有利に視線を戻した。
「クラシックにこだわることはないんですよ。そうですね、例えば」
そう言って少し考え、再び楽器を構えた。
紡ぎ出された音は最初こそ原曲とは楽器が違ってわからなかったが、有利は目を輝かせて椅子から身を乗り出す。
「ゴットファーザーのテーマ曲だ!」
はわずかに頷いて主旋律だけを短く奏でた。
聞き知った映画音楽を聴いて、バイオリンに対しての構えた考えが薄らぐ。
「それ、ひょっとして誰かをイメージしたんじゃない?」
「フォンヴォルテール卿を」
思ったとおりの答えが返ってきて有利は小さく吹き出す。
「やっぱり?おれもそう思ったんだ。グウェンダルにテーマ曲をつけるとしたら、やっぱりゴッドファーザー愛のテーマだよな」
嬉しくなって頷きながら、リクエストする曲を考える。きっとさっき一瞬見えた表情は気のせいだったんだろう。目の前で穏やかに微笑んでいるにもう先ほどのような沈んだ様子はない。
クラシックでなくともいいとはいえ、オーストリア在住のは日本のポップスなんて知らないだろうし、昨夜弾いてもらった日本の昔ながらの歌謡曲となると今度は有利があまり知らない。
「ええっと……そうだな……」
ふと、のバイオリンで聞きたい曲が思い浮かんだが、彼女は絶対に知らない。
却下だな、と考えたのにしばらくして恐る恐ると訊ねてみた。
「あ、あのさ、伊東勤マーチなんて無理だよね……?」
案の定は困惑した表情をする。
「楽譜を見るか、一度その曲を聞けたら弾けると思いますけれど……」
「楽譜、楽譜か。吹けるんだからおれ多分書けるよ」
「吹ける?では一度お聞きしてもよろしいですか?できれば原曲を聞いたほうが」
「あ、じゃあ……」
笛を持ってくるよ、と言いかけて有利の持っている笛が魔笛だということを思い出す。
一曲で効果を現すかは不明だが、もしも雨雲を呼んだら他の人に申し訳ない。
「口笛でもいい?」
「はい、もちろん」
有利が下手な口笛で伊東勤マーチを演奏すると、はその外した音まで正確に再現してしまい、慌てて訂正する。
楽譜も書いてみたが、今度は細かな音の長短が有利にわからず、身振り手振りで修正しながら一曲完成させて、この日はレパートリーに有利専用の曲をひとつ増やした。


日が暮れる頃、また夕食の時間でと約束して部屋を出た有利は、部屋の前で待っていたコンラッドに驚いた。
「あれ、なんで部屋の外に?あ!それに医者は!?」
コンラッドは呆れたように有利を見て、それから医者と聞いて表情を曇らせたを安心させるように笑う。
「止めないとと言った本人が弾かせていたんじゃないですか。見事な演奏で、ギーゼラはこれなら自分は必要ないだろうと帰りましたよ。それで俺がここにいたのはユーリの護衛だからです」
「あーいや、悪い。だって怪我じゃないって言うし、だったらリハビリした方がいいかなって思ってさ。じゃあ、後でね」
有利が手を振ると、は有利とコンラッドに頭を下げて部屋へ戻る有利を見送った。
「でもさー、別に部屋の外にいなくてもよかったじゃん」
「楽しそうでしたからね。邪魔すると悪いかと思って」
「邪魔って……」
有利が目を瞬いてコンラッドを振り仰ぐと、どこか意味ありげな笑みで答える。
「ヴォルフが怒り出しそうな事態ですね」
「ご、誤解だよ!おれとは友達で……その前にヴォルフとおれは男同士じゃん!?」
「友達、ですか」
赤くなった有利が少し先の自分の部屋に慌てて駆け込むと、コンラッドは顎を撫でて苦笑する。
「彼女はそうでもないかもしれませんよ?」
有利は気づいていなかったが、は有利が見えなくなるまで部屋から見送っていた。
振り返っても既に彼女の部屋は角の向こうで見えないが、有利に向けられていた視線に気付かないコンラッドではない。ああもあからさまに有利を見ていれば、常に浮気を心配しているヴォルフラムはすぐに気付くだろう。
「ちょっと困った事態かもしれないな」
できるだけ主と彼女と弟が一緒の部屋にいることがないようにした方がいい。
コンラッドはゆっくりと有利を追って部屋に入ると、どこに行っていたのだと有利を締め上げる弟を眺めながらひとり考えた。
どうせしばらくの間の話だ。
彼女が、地球へ帰るまでの短い間。


夕食の時間に再び顔を合わせると、仲良くなれたことが嬉しくて早口でいろいろとまくし立てる有利に、正面に座ったは夕方別れたときのように穏やかな微笑を浮かべて頷く。
その変化は当然同席しているヴォルフラムやグウェンダルにも顕著にわかっただろう。
グウェンダルはわずかに眉を動かしただけだったがヴォルフラムの反応は大きかった。
「おい女!」
指を突きつけられたは目を瞬くばかりだが、いつもの癇癪だと有利は慌てて隣のヴォルフラムの肩を掴む。
「止せよヴォルフ!おれの友達なんだから!」
「何が友達だ!ぼくという者がありながら、こんなどこの馬の骨ともわからない女とこそこそ密会なんてしていたんだな!?」
「み、密会なんてしてねえよ!一緒に遊んでただけだって!な、コンラッド!」
急に話を振られてコンラッドは溜め息をついた。弟の目が知っていたのかと責め立てているからだ。
「確かにユーリは今日の執務が終わってから彼女と一緒にいたが、ただ彼女の楽士としての腕前を楽しまれていただけだ。信じて差し上げろ」
ここまできっぱりと目の前で有利からの恋愛感情を否定するなど、彼女には酷だったかもしれないとコンラッドがわずかに窺うと、はきょとんとして有利とヴォルフラムの会話を聞いているだけだった。
そうだった、彼女はこちらの言葉が半分ほどしかわからないのだ。
それがにとって幸いなのかどうかはコンラッドにはわからない。どうせ彼女は地球へ帰る。
有利がいずれ日本に帰ったとしても、日本とオーストリアという距離なら会うこともないだろう。
記憶に残る地球の世界地図を思い浮かべ、コンラッドは気の毒そうに少女を見やった。
どうせ叶わない恋ならば、早くそうだと知るほうがいいのかもしれない。
どうにかヴォルフラムを宥めると、有利は申し訳無さそうにに謝った。
「ええっとさ、ご、ごめんな。ヴォルフラムの言うことはあんまり気にしないでよ」
有利が日本語で話しかけたので、途端にヴォルフラムの険しい視線が有利に注がれる。
「ユーリ!」
に対してのフォローだから日本で話すのは有利にとって当然だが、浮気を疑っている婚約者の前で、その疑われている相手としかわかならい言語で話すということが、どれほどヴォルフラムの神経を逆撫でするかまでは気が回らなかったらしい。
締め上げられる主君を見て、コンラッドは溜め息をついた。
「He is Yuri's fiance.Fickleness is doubted.」
(彼は有利の婚約者だ。浮気を疑っている)
可哀想かもしれないが、はっきり言っておいた方が彼女のためにもなるとヴォルフラムの怒りの原因を伝えると、コンラッドの予想に反しては驚いたように目を瞬いた。
「Please tell him that His Majesty is my benefactor.」
(陛下はわたしの恩人だと、彼に伝えてください)
そうして、当然のことのようにヴォルフラムの疑いを杞憂だと言い切った。特に傷ついた様子も、虚勢を張っているようにも見えない。
予想が外れたのだろうかといぶかしみながら、弟を宥めるべくそのまま伝えることにする。
「落ち着けヴォルフ。彼女は陛下が自分の恩人で、それだけの関係だと言っているから」
「……本当だろうな?」
その言葉が通じたのか、それとも確認するように言ったことだからそうだろうと感じたのか、ヴォルフラムにはっきりと頷いた。
こうなると落ち込むのは有利の方だ。
「ちょっと待ってよコンラッド、今のに通訳しちゃったの!?」
「ええ、彼女の口から話してもらった方が手っ取り早いかと思いまして」
「男と婚約してる変人だと思われたらどうするんだよ!」
「なんだと!ぼくの婚約者でいてなにが不満だ!」
再び揉め始めた有利とヴォルフラムにが困ったようにコンラッドを窺ったので、今度はのせいではないと言っておいた。







果たしてコンラッドの観察予想は外れていたのでしょうか?


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