その日、有利は驚異的な集中力で仕事をこなした。
「さすがでございます陛下!なんと的確なご判断でしょう!」
ギュンターは感涙しながらサインし終わった書類の束を抱き締めている。
「普段からそのくらい仕事をこなしていれば、私が呼び出されることはないのだがな」
不機嫌そうな声が横から聞えてきたが、有利はものの見事に聞き流した。
「今日の分、それで全部?」
「はい。本日裁可を頂くものはすべて終了いたしました。もし陛下が明日のご予定を繰り上げられると仰せであれば……」
「ああ、いい!いいです!やっぱり一日の区切りって大事だろ!?」
「仰る通りではありますが」
「んじゃ、おれちょっと行くとこあるんで」
縋りつくギュンターと睨みつけるグウェンダルをかわして、有利はさっさと部屋から逃げ出した。



アンダンテ(7)



「行くところって、どこへおいでなんですか?」
当たり前のようについてくる護衛に有利は笑って振り返る。
さ……のとこだよ。昨日約束したんだ。一緒に遊ぼうって」
「彼女をキャッチボールに誘うんですか?」
コンラッドが心底驚いたように目を瞬いたので、思わず苦笑しながら首を振る。
「いや、あのさ、女の子はあんまりキャッチボールしないんじゃないかなあと思うわけよ。おまけには音楽家なんだから、突き指の可能性があるのは嫌がると思うし。コンラッド、なんかいい遊び思いつかない?」
「残念ながら」
「えー、コンラッドはモテるだろ?なんか女の子が喜びそうなこともそつなく自然にこなしそうだしさ」
「どうも誤解がある気がするんですが。俺は別にもてませんよ」
「うっそだぁ!そんなことで謙遜すんなよ。なんか余計に僻むぞ」
「心外ですね。陛下に嘘なんて吐きません」
コンラッドのもてない発言を笑って聞き流し、有利は腕を組みながら首を捻る。
「どうしよっかなあ」
「彼女の希望を聞いてみればどうですか?」
「そしたら、別になんでもって返ってくると思うんだよ。嫌われてないことだけはわかったからさ、もう強引に巻き込もうと思って。友達になりたければ、おれから距離を詰めるのがいいと思うんだ」
「友達に?なりたいんですか?」
「うん。なりたい」
ここが地球だったら、はまずはお近づきにならないタイプだと思う。
なにをもっても積極的に動く有利としては、の消極的な態度は苛立ちを覚えるはずだし、最初から歩み寄ろうという努力を放棄している時点で、有利も友好的な付き合いを諦めるだろう。
友人のみならず、人付き合い全般がお互いの歩み寄りだと思うから。
だけどここは眞魔国で、だから地球人のを保護しなくてはという思いがある。
それに。
「寂しい音だったんだ」
呟いた声は後ろからついてくるコンラッドには聞えなかったようで、返事がなかった。
それで幸いだった。
昨日聞いたあの音を、言葉で説明することはできない。
寂しい、というのは例えだ。
もし他の表現をするとしたら。
まるで、悲鳴のようだった。


「おや」
コンラッドが小さく呟いた。
廊下の向こうから緩やかな音が聞えてくる。
「練習中みたいですね。なるほど、かなりの腕前みたいだ」
「うん。おれも昨日聞いて驚い……って!駄目じゃん!やめさせないと!」
昨夜のが東屋で左腕を押さえてうずくまった姿を思い出して、慌てて走り出した。
「やめさせるってユーリ」
「昨日さ、痛そうに腕を押さえてたんだ。練習できなくて焦るのはわかるけど、怪我したときは完治させるのが先決だろ?」
ユーリが先に走り出したのに、コンラッドは数歩で追いついて廊下を併走する。
「怪我ですか?」
「そう。昨日もこうやってバイオリンを弾いてたみたいなんだけど、突然左腕を押さえてうずくまってさ」
「それは確かに、やめさせたほうがよさそうですね。……ところで陛下、さっきから気になっていたんですが」
「陛下って言うな名付け親」
「すみません。それでユーリ、遊ぶ約束をしたりバイオリンを弾いているところを見たりしたのは、いつの話なんですか?」
「夜だよ!」
詳しい説明をしている暇はなかった。の部屋に到着したからだ。
ノックをしようとした瞬間、音が急に跳ね飛んだ。
!」
慌てたせいでノックもせずに部屋に飛び込むと、やはり左腕を押さえていたが弾かれたように顔を上げる。
「ああもう!昨日言っただろ!?怪我を治すのが先だってさ!」
駆けつけた勢いのまま、の左腕を掴んで引き寄せた。
「やめてっ!」
悲鳴のような強い否定に、思わずの左手を離す。
はバイオリンを掴んだままの震える左手を身体の後ろに隠した。
部屋にいる、誰も口を開かない。
「えっと……」
最初にそれに耐えられなくなったのは有利だ。
数少ない強く示されるの意思が、いつも有利を拒絶する言葉というのは少なからずショックだった。
「その……ごめん、急に入ってきて。で、でもさ!左手を痛めてるのに無理しちゃだめだよ!」
「………痛めているわけではありません」
「昨日もそんなこと言ってさ!痛くなくても、震えてるのには変わりないだろ!」
有利が少し語気を強めて言うと、は俯きながら半歩退いた。
「これは……別に……怪我でも病気でも、ないので」
「そう言うなら、一旦医務室へ行こう。なんともないって診断が下ったらおれも止めないからさ」
「いいえ!無意味です!」
の顔色が一層悪くなったように見える。
「無意味かどうか、行ってみなくちゃわかんないだろ!?」
「落ち着いて、ふたりとも。興奮するとますます身体に障りますよ」
コンラッドがレフェリーのようにふたりの間に腕を入れて言い争いを取り上げた。
止められて有利はさっと顔を赤らめる。
怪我人か病人か、ともかく具合の良くなさそうな女の子を相手に声を荒げてしまった。
「とにかく、おふたりとも座って」
コンラッドが椅子を引きふたりに座るように促すと、有利は恥じ入って俯きながら、はバイオリンをケースに仕舞ってから無言で椅子に座った。
「じゃあ俺は医者を呼んできます」
「Keine Notwendigkeit!……There’s no necessity……必要ありません」
咄嗟に叫んだのだろう。は硬い声でそれぞれ別の言語で言い直しながら三回も否定した。
そんなにも医者にかかるが嫌なんだろうか。眉をひそめる有利の横で、コンラッドは緩やかに首を振る。
「あなたを心配しての、陛下のご判断です。従ってもらいます」
「従うってコンラッド!そんな言い方……」
有利が憤って振り返ると、コンラッドは目配せをしてくる。
の自主性に任せていたら、いつまでたっても話は進展しない。有利だって、こちらが多少強引に引っ張らないといけないと、昨日考えたばかりだ。
「では、すぐに戻ります」
コンラッドが部屋を出て行くのを見送って、視線をに戻すとじっと俯いてテーブルを見つめている。
余計なことを言ってくれたと怒っているのかもしれない。
「ええっとぉ………な、なんでそんなに医者が嫌いなの?」
沈黙に耐えられず恐る恐ると訊ねると、ただテーブルを見つめたまま、はぽつりと答える。
「……血が嫌いだから……です」
「血?いや、そりゃ好きな人はいないと思うよ?怪我したら痛いし、なんて言うかほら、人の怪我でも傷口や血を見たら、なんか同じところがむず痒いような気がしたりさ……って、は怪我じゃないんだろ?」
「染み付いた血の匂いがいや」
「え?で、でも医者の人みんなに血の匂いが染み付いているとは限んねーんじゃないかな」
むしろ、診察でも手術でも徹底して消毒しているから染み付いているのはエタノールの匂いではないだろうか。
有利があまり縁のない病院を思い出そうとしていると、テーブルの上に乗っていたの左手が、大丈夫だと言っていたのに再び震え出す。
「……嫌い……大嫌いっ」
「ちょ、お、落ち着いて……」
「白いシーツも……赤い包帯も………」
「赤い包帯?」
一瞬オーストリアにはそんなものあるのだろうかと考えて、すぐに違うことに気がついた。
血が嫌いだと言った。染み付いた血の匂いが嫌だと。
血が滲んで、赤くなった包帯のことか。
怪我ではないと言っていたけど。
有利は震える左手をじっと見つめる。
服の下に隠れているだけで、傷があるのだろうか。例えば、もう完治しているけれど、精神的に怖くて指が動かないとか。
それなら、怪我ではないと言い張ることもわかる。怪我は治っているのだから、確かに手の震える原因は怪我ではないだろう。
どうしようかと迷いつつ、震える左手にそっと手を重ねてみた。
少女は怯えたように左手を引こうとした。だがそれは有利が握り締めたために動かすことができない。
痛々しく見えるその震えについ手が出ただけだった有利も自分の行動に酷く戸惑う。
「だ、大丈夫だよ」
何が、とは有利自身も考えたものの、口は混乱する主を置いて勝手に動いている。
「大丈夫だよ。少しずつ慣れればいいんだと思う。おれ、の音が好きだよ」
握り締めた細い繊細な指から少しずつ震えが収まってきているようだ。力を得た思いでとにかく言葉を綴る。
「優しい音で好きだよ。だからひとりで、そんなに寂しそうに弾くなよ。おれの前で弾いて。聞くから……聞きたいから、おれの前で弾いて」
ゆっくりと一言一言を受け取ってもらえるように言い募ると、手の中の震えが止まった。
ほっと息をつくと、今度は自分で自分の言葉を反芻して恥ずかしくなってくる。
今、何を言ったのだろう。
怪我をしているなら弾くなと言ったことと矛盾するのはいい。怪我で痛めているのではなくて、もしも精神的なものだというのなら、リハビリは大事だと思う。
……おれの前で弾いてだって?
じわりと顔に熱が昇ったような気がする。
音楽家に向かって、まるでナンパみたいだと有利がひとり心の中で悶えていると、静かな声がぽつりと呟かれた。
「痛い……」
「え……?あ、ご、ごめんっ!」
もう震えは止まったというのに、いつまでもの左手を強く握り締めていたことに気がついて、慌てて手を離す。
はゆっくりと震えの止まった左手を胸元に引き寄せて、それを右手でさする。
「ご、ごめん。女の子の…音楽家の大事な指を……だ、大丈夫?」
はテーブルの上のどこかをぼんやりと眺めていた目を伏せた。
「………痛みを、感じるんですね」
「え!い、痛めたの!?お、おれのせい?っておれのせいだよね!!」
有利が蒼白になって腰を浮かすと、はゆっくりと首を振って椅子を引いた。
「……もう…なくてもいいと、思ったのに」
そうして、はバイオリンのケースの側まで行ってしまう。
「あ、ちょっと、痛めたなら……っ」
「少し痺れただけです。平気」
「平気って………」
戸惑う有利におかまいなしに、はケースから再びバイオリンを取り出した。弦に掛けた弓を引いて音を整える様をどうしたらいいのかわからずに見守っていた有利は、ふとどうして彼女に練習を止めさせようとしていたのかを思い出す。
「待ってくれよ、一応まだ診察が………」
有利の戸惑いに、振り返ったは小さく首をかしげる。
「聞いて、くださるのでしょう?」
「え、い、いやそうだけど……だ……大丈夫なんだよな?本当に痛いわけじゃないんだな?」
「ええ、怪我ではないですから………わたしの手を、代わりにできたらいいのに、と。ただ、それだけで」
「え?」
代わりにって何の。
そう訊ねる前にがバイオリンを構えたので、有利は口を閉ざして静かに始まった演奏に耳を傾けた。







少し進展……したのでしょうか?


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