有利自身は悲しくもなかったのに涙が零れかけて、慌てて瞬きをして滲みかけていたものを散らした。
同時に、流れていた音が飛んで途切れた。
がバイオリンを掲げていた左手を、弓を持ったままの右手で押さえてうずくまる。
有利は慌てて東屋に駆け寄った。
さん!」



アンダンテ(6)



突然聞えた闖入者の声にが驚いたように顔を上げ、有利はすぐ側で片膝をついてうずくまるを覗き込んだ。
「大丈夫?左手が痛いの?医務室行こうか?」
肩に手を置くと、じっとりと湿った感触がする。
夏に入ったところとはいえ、夜になればだいぶ涼しいのにこれほど汗をかくなんて、体調不良の心配も出てくる。
紙のような白い顔色で、はただ首を振る。
「なんでもありません」
「なんでもないって!」
「平気です。なんでもありません」
は両手でバイオリンを抱え込んで何事もなかったように立ち上がった。
「で、でもさ……」
なんでもないのに、急に手を押さえてうずくまるなんておかしいじゃないか。
そう言い掛けて、東屋のベンチに置いていたケースにバイオリンを仕舞っていたの左手が酷く震えていることに気がついた。
「なんでもなくないじゃん!手が震えてるよ!」
有利がそう言いながら左手に触れようとした瞬間、乾いた音と共に手を振り払われた。
叩かれた右手に少しだけ痺れるような痛みを覚えて、思わず呆然との顔を見るとも驚いているようだった。
こんな風にするつもりではなかったのだろう。
「………どうぞ、わたしのことは構わないでください」
後悔するように唇を噛み締めて、それだけを言うと震える左手でケースの取っ手を握り、右手でケースを抱え込む。
「お、おれが運ぼうか?」
大事な楽器が入っているのなら、落したりしたら大変だと思った提案だったのだが、硬質な無表情で拒否された。
「触らないでください……」
ケースを抱えたまま、後退りまでされてはどうにも手が出せない。
「あ、あのさ……」
「陛下の安眠の妨害をしてしまったのなら、申し訳ありません。もう二度とこのようなことはないようにいたします」
「だから!さんまでおれのこと陛下なんて呼ばなくていいんだよ!」
は深く頭を下げたまま、顔を上げようともしない。
長い髪がさらりと肩から滑り落ちて、その黒い小さな流れが無性に悲しくなった。
さんは地球の人だろ!?眞魔国の魔族じゃないんだからさ!そんな風に言うなよ!そ……そ、そんな、ま、まるで………」
声が詰まって、それがしゃくり上げているせいだとわかると有利は恥ずかしくて両手で口を押さえた。
激しく怒鳴り散らしていたときはぴくりともしなかったが顔を上げて、涙をこらえようとして息を詰まらせながら肩を揺らす有利に、困惑したように半歩足を踏み出す。
「ご……ごめ……お、おれ……泣くつもり、じゃ……」
「陛下……?」
その呼び掛けが酷くつらい。
陛下って、だれ?
魔王陛下。
眞魔国第二十七代魔王、シブヤユーリ。
地球の日本、埼玉のただの高校生、渋谷有利は陛下なんて呼ばれない。
なのに地球の人のはずのにまでそんな風に言われたら、まるで地球に帰れないのだと、そう突きつけられているようで。
陛下なんでしょう?
魔王なんでしょう?
日本と眞魔国で二重生活なんて言ってないで、この国に腰を据えるべきではないの?
そう、言われているようで。
「け…け、ど………お……おれ……日本に……」
懸命に涙だけはどうにか堪えたが、声が震えることは止められない。
「日本に……帰りたいんだ………」
この国が嫌いなんじゃない。
逃げ出したいわけじゃない。
だけど日本を、家族を、友達を。
忘れることまではできない。
俯いて拳を握り締めながら、つらいだけでなく情けなくて泣きたくなった。
有利は理由を持ってこの世界にいるというのに、帰りたい帰れないと嘆いて。
同じ年頃の初めてこの世界に理由もわからずやってきたは、落ちついて静かに時を過ごしている。
守らなくては思っていた相手を前に、なんて情けない。
唇を噛み切りそうなほど強く噛み締めて拳を震わせて俯く有利の耳に、懐かしいメロディーが流れ込んできた。
虚を突かれて思わず顔を上げると、がバイオリンをもう一度取り出して静かに弾いている。
その曲は。
「……荒城の月……?」
驚いて涙も引っ込んだ。
短い曲が終わると、今度は「さくら」を奏でる。
ただぼんやりとその姿を眺めていると、三曲目の「花」を弾き終えたはそっと弓を降ろした。
「わたしには……これくらいしか……これしか、ないので」
小さく呟かれた言葉をぼんやりと頭の中で繰り返して、それが彼女の慰めだったのだと気付くと有利はひどく恥ずかしくなって口元を手で覆う。
慰めに来たはずの有利の方が慰められている。
「ごめん……おれ、邪魔するつもりじゃ……ああ!さん左手は!?痛かったんじゃ!」
「申し訳ありません。お聞き苦しいだろうとは思いましたが」
「痛いのに無理しちゃだめだろ!?音楽家なんだったら、手は大事にしないと!」
慌てての左手に手を伸ばすと、やはり後ろに逃げられた。
バイオリンを持ったまま、は左手を引き寄せる。
「大丈夫です。痛いわけではないので」
「え、でも」
俯いた横顔に、拒絶を感じて有利の言葉は宙に浮いた。
踏み込むべきか少し迷う。
自分を落ち着けるように一度、息を吸い込んだ。
「……痛くないならいいんだ。だけど、震えていたろ?どっちにしても、手は、身体は大事にしなきゃ。指先に力が入らなけりゃボールも投げられないし、バットだって握れないんだから」
驚いて目を瞬いたに微笑みかける。
「医務室が嫌なら、とりあえず部屋に戻ろうよ。結構汗もかいてるみたいだし、夜風に当たり続けるのは身体によくないと思うからさ」
笑顔で優しく言いながら、有利がまったく立ち去る気がないことを察したのだろう。
は溜息をつくとバイオリンを今度こそ片付けてケースを持ち上げた。ちらりと見た限りでは、もう左手は震えていない。
並んで東屋から出ながら、沈黙が落ち着かなくて話題を探してに話し掛ける。
「綺麗な音だよね。プロ目指してるの?」
「………以前は」
「以前は?今はもう目指してないの?」
俯いたの視線が左手に向かう。
震えていた左手を思い出して、ひょっとして不味いことを聞いたのかもしれないと内心で焦る有利に、ぽつりと小さな呟きが返ってきた。
「………もう、意味がないので」
不思議な言葉だ。
諦めたとか、左手になにかあって無理だというのならわかるけれど、意味がない?
「あの、陛下」
「だから!陛下なんて言わなくていいんだってば!」
有利が何度目かのチャレンジでそう叫ぶと、は戸惑いながらも今度は反論しなかった。
「では、どのようにお呼びすれば……」
「おれの名前は渋谷有利!」
「……ユーリ様?」
「様はいらないって」
「ですが」
「あーもう!おれはさ、さんと友達になりたいんだって。友達は気軽に呼び捨て。せめて「くん」とか「さん」とか「ちゃん」とかだろ?」
「ともだち?」
不思議そうな顔をされて、思わず腰が引ける。
「え?友達付き合いもダメ?おれ、そんなにダメでしょうか……?」
「いえ……ですが、わたしはなにも返せるものがありません」
「は?」
「なにひとつ、持っていないので……」
「返せるって……あ、あのさあ友達って損得で決めるもんじゃないだろ?趣味が合うとか、一緒にいて楽しいとか、そういうので十分でしょ!?あ、もしかしておれが嫌いとかなら仕方ないんだけどさ……」
言っているうちに自信がなくなって、最後の方が小さくなった有利の声には首を傾げる。
「陛下を……ユーリ様を嫌う理由はありませんが……」
有利が恨めしそうな顔をすると、ちゃんと呼び方は変えてくれた。ただし、様つき。
「だったらいいじゃん!嫌ってないなら友達から始めてみようよ!おれもさ……って呼ぶしさ。有利でいいってば」
どうしてこんなにも懸命に呼び名にこだわるのか、有利自身もよくわかっていないけれど、とにかくこのままは受け入れ難かった。
敬称じゃなくて名前で呼んでくれるだけでも進歩なのに、その先を一気に望む理由はなんだろう?
「……命令、ですか?」
「じゃなくてお願い。命令する友達付き合いはなんてないだろ?は友達にそんな風に堅苦しく話したりする?しないだろ?」
「……友人はいません」
「は?」
「ですから、ユーリ様のおっしゃることもよくわかりません」
友達がいないって。
有利が絶句している間に、の部屋の前についてしまった。
部屋に入ってしまう前にと慌ててなにかを言おうとしたが、は礼儀正しく有利の言葉を待っている。
「ええっと…と、とにかくさ!それならおれが友達第一号に名乗りを上げるから!嫌いじゃないなら、明日はキャッチボールして遊ぼう!あ、いや女の子はあんまりキャッチボールはしないか。えーと、とにかく考えとくから、明日一緒に遊ぼう。な、約束!」
に任せていたら、また否定で返ってきそうで、有利は多少…かなり強引にの右手をとって小指を絡めた。
「指きりげんまん!」
「あの……」
「じゃ、おやすみ。早く着替えないと風邪ひくよ?」
強引な約束を取り付けて、を部屋へ押し込めると、自分の部屋に向かって歩き出そうとして。
「……あ……焦ったぁ……」
足から力が抜けて壁に縋りついた。
「地雷踏んだかなぁ……友達がいないって」
特殊な家庭環境なのか、ひょっとしてイジメとか!?
有利は壁から身体を起こしながら、断固とした決意を固めて拳を突き上げる。
「友達と遊ぶ楽しさを、おれが教えてあげなくちゃ!」
ありがた迷惑という単語がちらりと脳裡を掠めたが、あえて無視することに決めた。
有利が嫌いだとか生理的に苦手というのなら諦めるけれど、は嫌ってはいないと言った。
だったら、にそのつもりがない以上、有利が踏み出すしかない。
「おーし、明日はちゃっちゃと仕事を片付けるぞ!」
それができれば、いつも苦労はしない。







前向きでいるほうがきっと有利らしいと思います。


BACK 短編TOP NEXT