午前の執務を終えて昼食という段になって、ちょうどコンラッドがを連れて執務室に現れた。 「あ、コンラッド。さんの案内はどうなった?」 大きく伸びをして疲れを少しでも発散させようと有利が腰を浮かして訊ねると、コンラッドはにっこりと微笑んだ。 「彼女は英語もわかるようなので、滞りなく終わりましたよ」 「そ……そっか」 が血盟城で暮らすには、城内を把握する事は必須でもある。 案内できたというのならいいことのはずなのに、有利は落胆した自分を不可解に思いながらも頷いた。 アンダンテ(5) 有利の希望で昼食を一緒に取ると、はさっさと与えられた部屋に戻ってしまった。 ギュンターは有利の執務に差し支えないようにだろうと感心していたし、ヴォルフラムは有利の側をうろつかないならなんでもいいと尊大に頷いた。 だけどどうにも、有利には納得できなかった。 やっぱり異世界なんて場所に戸惑いがあるのか、それとも魔族や魔王なんて怖いのか、あまり有利に関わろうとしていないように見える。 唯一の地球という同郷出身者だというのに。 一日の仕事を終えて、やっぱり会話の弾まなかった夕食も終えてコンラッドとヴォルフラムと一緒に私室へと戻ると、有利は溜息混じりにそう零した。 そんな有利の戸惑いに、コンラッドは軽くに肩をすくめる。 「まあいいじゃないですか。落ち込んでいるように見えたわけじゃないんでしょう?」 「そうだけどさ……」 「きっとあまり物事に動じるタイプじゃないんでしょう」 「あんたみたいに?」 「少なくとも泣き暮らしているよりはいいと思いますよ」 「そりゃね……」 泣き顔が見たいわけじゃない。 だけど、無反応というのも、なにかよろしくないことのように思える。 「あんな無愛想な娘、どうでもいいだろう」 「だからさあ、なんでヴォルフはそう刺々しいわけ?ひとり異国に飛ばされた女の子を気遣うって気持ちはないのかよ」 思わず眉を寄せて薄情を責め立てると、ヴォルフラムは柳眉を逆立てて怒りを露にした。 「お前が尻軽だからだろう!?ぼくというものがありながら、あんな女のことばかり気にかけて!」 「だからおれたち男同士だろ!?それに、彼女はおれと同じ地球人なんだよ。彼女にとっては、おれが唯一の同郷なの!おれが気にかけてあげるのが筋だろう!?」 「別にあの娘がそれを望んでいるわけじゃないだろう。ユーリに助けを求めるならまだしも、人形みたいにただ座っているだけの娘なんて、放っておけばいいんだ。そのうち巫女がチキュウとやらに帰すだろう」 「人形みたいにって……」 有利は絶句した。 ショックだったのは、反論する言葉が咄嗟に見つからなかったからだ。 そうだ、確かに彼女のあの黒い瞳はガラス玉のように、目の前の風景をただ映しているだけだ。 例えるなら、ヴォルフラムの言った人形という表現は至極的確だった。 「まあまあ、痴話喧嘩はそれくらいにして。風呂にでも入って一日の疲れを癒したらどうですか?」 コンラッドが仲裁に入ってくれたが、その表現がどうにも気になる。 「痴話喧嘩って……コンラッド、あんたまで……」 とほほと溜息をついても、だれも有利の心情に同意してくれなかった。 いつものようにヴォルフラムの特有のいびきをバックミュージックに、窓辺で夜の空を見上げる。 寝室居候を起こす可能性はほぼないとは思うけれど、明かりは点けずに暗闇のまま。 おかげで空に輝く月と星がよく見える。 「おれより、あの子の方がずっと堂々としているっていうのもどうなんだよ……」 堂々としているという言葉で正しいのか、口にして違和感を覚える。 やはり、しっくりとくるのはヴォルフラムの言った人形のよう。 まるで、なにも感じていないかのように。 なにも感じないはずなどないのに。 家に帰れないことをどう思っているのだろう。 家族は心配しないだろうかとか、友達に会いたいだとか、もう少し焦ってもおかしくない。 それとも、やっぱり夢だと思い込んでいるのだろうか。 長くてよくできた、リアルな夢だと。 有利ですら、ときどきそう思う。 思いたいのかもしれない。 日本に帰れないなんて夢で、ひょっとしたらこの眞魔国自体が夢で、長くてリアルな夢を自宅のベッドで見ているのではないだろうか、と。 日本に帰るたびに、ここが夢ではなくて渋谷有利のもうひとつの現実だと知らしめるのは胸にかかった青い魔石の存在だった。 服の上から魔石を握り締めて、満天の星空に窓を開けてみる。 夏といっても日本のように湿度の高くない眞魔国では熱帯夜というほどではないが、さすがに閉め切っていると少々寝苦しい。 防犯上、夜は窓を閉めておいてくださいと言われているが、まだ起きているからいいだろう。 椅子を運んできて窓枠に頬杖をつきながら夜空を眺めていると、微かな音が聞えた。 昨日に続いてまた空耳か、と思ったが今夜は違うらしい。 空気を震わせるような微かな音色が、風に乗って途切れがちに聞える。 テレビやCDでほんの少し聞いたことがあるくらいだが、それがバイオリンの音色であることはわかった。 「さんかな……?」 だがどこで弾いているのか、音はかき消えるように時々聞えなくなる。 「って、部屋は近いはずなのに?」 どう考えても、外で弾いている。わざわざ夜中に部屋から出て練習するくらいなら、昼間に練習すればいいのに。 「……眠れないとか?」 理由をひとつ考えてみて、閃いた答えに手を叩く。 「そっか、やっぱ不安なんだ。今朝は起きてもやっぱり眞魔国にいたから、きっと眠るのが怖くなったんだ。明日も目覚めたら眞魔国、っていうのが心配なんだ」 そう考えるとわざわざの夜中の練習にも納得できる。 でも睡眠は大事だ。気分が落ち込んでいるときに寝不足なると、ますます憂鬱になる。 雑談でもすれば気晴らしになるんじゃないだろうか、と有利は持ち前の面倒見の良さを発揮してを探してみることにした。 部屋を出ると、まずはすぐ近くのの部屋を訪ねてみた。 まだ深夜という時間ではないし、バイオリンの音の主が彼女ではなくて眠っているなら小さなノックの音くらいでは起きないだろう。 ドアを控え目にノックしたが、やはり返事はない。 眠っているのか、部屋にいないのか。 少し考えて、散歩がてらに音源を捜してみることにした。 長い廊下を灯す明かりは等間隔で壁にある燭台のロウソクのみで、夜中にひとりで歩くのは、それだけで結構肝試しだ。 はよくひとりで出歩いている。と感心したときに、ふとひとりじゃないかもしれないと思い浮かんだ。 ひょっとして、だれかと一緒だとか。 例えばコンラッド。 昼間、執務室の窓から見えた光景を思い出す。 花の咲き誇る中庭を、コンラッドが先導してふたりで歩いていた。 彼女はコンラッドが苦手かと思ったけれど、悪くない雰囲気に見えた。 花の庭で一緒に歩いて、絵になる男女。 「……そうだよな、落ち着いて話せばコンラッドは爽やかだしカッコ良いし頼りになるし」 薄暗い廊下を歩く怖さを誤魔化すつもりで独り言を呟いていたら、ますます落ち込んできた。 自慢の名付け親のことで、なぜ落ち込む。 ふと、耳に微かな音色が聞えて足を止める。 「……どっちだろう?」 そのまままっすぐに伸びる廊下と、一階に下りる階段の前でじっと耳を澄ませて階下を選択した。 外で弾いているのなら、一階のはずだ。 夜は人気のない中庭に向かって歩く。 ひょっとしたらお邪魔虫かもしれないから、遠目で確認してもしそうなりそうだったら、部屋に帰ろう。 そう決めて外に通じる扉を開くと、有利の耳は確かだったようだ。部屋や廊下では微かにしか感じなかった音が、はっきりと聞えた。 「ああ、やっぱり。外で練習してるんだ」 ここなら確かに、兵士たちの宿舎からも有利たちの部屋からも遠いから、夜中の練習には向いているに違いない。 ……それに、もしもだれかと逢引なら夜の花園というのは悪くない。 「わざわざこんなところで練習するかな……?」 逢引の可能性が高くなったような気がして、有利の足が踏み出すことを躊躇する。 綺麗な音だ。 だけど。 有利は階段を下りて、足早に音源を探るように中庭をぐるりと見回した。 だけど、どこか寂しい。 逢引なんかじゃない。きっと、彼女はひとりきりでいる。 確信にも似た気持ちで植え込みの間をすり抜けて歩く。 やっぱり見知らぬ土地にいることが不安なんだろうか。 だけどそれなら、こんな静かな曲じゃなくて、もっと明るいアップテンポの曲でも弾いて気分だけでも盛り上げたらいいのに。 そうは思うが、それは有利の考えだ。人によって考え方は違うだろう。 音を頼りにの姿を探していると、先に東屋が見えた。 明かりもなにも見えないけれど、と思いつつも近付いて、やはりひとりきりだった人影を見つけたとき、有利は声を失った。 明かりひとつ点けずに、月光の差す東屋で弓を引き音を奏でる少女の姿に息が詰まる。 緩やかな曲はその美しい光景に相応しい。 けれど有利の胸を刺したのは、その幻想的とすら思える光景ではなくて、音色の方だった。 流れる旋律は耳に心地よく、静かな曲調は決して暗いものではないのに。 どうして、こんなにも悲しく聞えるのだろうか。 |
ただでさえ積極的な有利がますます積極的。 心配しなくても、次男は陛下しか見えておりませんが…。 |