「ここは異世界なんだ」
有利の説明に、少女は小さく首を傾げただけで驚きも笑いも怒りもしなかった。
信じていないことは確実であったが、今すぐ帰れないのなら夢だと誤魔化すよりも本当のことを話しておこうと、とにかくここが常識からなにから地球とは違う世界だと説明しても、やはりは大きな反応を示さない。
「夢?」
「夢じゃないよ。おれも最初はそんなこと言ってたけどね」
「そう………」
少女は萎れたように俯いて、小さく呟いた。
「夢ならよかったのに……」
夢ならよかった。
まったくもって同感だ、と頷きかけて慌ててやめた。



アンダンテ(3)



ぐぐぴぐぐぴと、とても個性的な鼾を背後に聞きながら、有利は窓の外の月を眺めた。
眞魔国に不満はない。
眞魔国から日本に帰れないことが夢ならいいのに、と思ったのだ。
だけど、どちらにしてもコンラッドたちの前でそれを肯定することはできなかった。
冷静になって考えてみると、あのときの会話は日本語で交わしていたから、コンラッドたちにはわかったはずもない。
それでも、そのまま頷くことはなにかが違う気がした。
言葉が通じないのは厄介だと主張した有利の私室に近い部屋を、の客室とした。
地球人だと確信すると、コンラッドも有利の身の危険はほとんどないと判断したらしく、それに反対することもなかった。
彼女は、初め有利が気後れしたような広い部屋にも、大きなベッドにもまったく驚いた様子もなく、淡々と有利やギュンターに礼を言っていた。
リアクションが薄いと、有利としても対処に困る。
あまりに動揺して話を聞いてくれないというのも困るけれど、まったくうろたえずに受け入れられても、どうしていいかわからない。
ここはどこ、とは聞いてきた。
あなたはだれ、とも聞いてきた。
だけど、今すぐ帰れないと言うと「そう」と頷くだけだった。
別に有利や他のだれかが呼び立てたわけではないから、「元の場所に帰せ」と泣き叫んで詰め寄られてもどうしようもないのだが、ああも簡単に流すのもどうだろう。
「夢だと思ってんだろうなあ」
としか思えない。
きっと本人は、よくできた夢を見ていると思っているだろう。今日は落ちついて眠りについただろうけれど、明日には自分の家で目覚めるつもりでベッドに入ったなら、朝は酷く落ち込むに違いない。
同じ地球人として、同じく帰れない身として、自分が彼女を守ってあげないと。
有利は使命感を新たにして、明日に備えて眠ることにした。
「明日落ち込んでたら、どう慰めよっかな」
眠れる天使を起こさないようにベッドに上がると、微かになにかの音が聞えた。
思わず息も詰めて耳をそばだてるが、なにも聞えない。
「気のせい?」
一瞬、のバイオリンを思い出したが、か細く今にも切れてしまいそうな一本の糸を思わせる音は、音色とまでは言えなかった。
「やっぱ気のせいだよな」
言いながら、ベッドに潜り込み眠りに落ちるまでの間、ずっと耳を澄ましていたけれど、結局なにもそれらしい音が再び聞えてくることはなかった。


「Guten Morgen……おはようございます」
朝食の席に現れた有利の顔を見て、先に来ていたは淡々と朝の挨拶をした。
特に驚いた様子も、取り乱した様子も無い。
もちろん、落ち込んでもいなかった。
「あーと……う、うん、おはよう」
むしろ有利の方がうろたえてしまった。
奇妙な感覚を覚えながら、食事を始める。
「えーと、今日はどうしよう。この城の中を案内しようか」
「ご予定はないのですか?」
とても冷静に返されて、寝惚けているわけでもないことがわかった。
「だ、大丈夫。……たぶん。そ、それにほら、おれしか言葉が通じないし」
「それはわたしの都合ですから。ユーリ陛下のご予定の方が大事かと」
「へ、陛下なんて言わなくていいって。きみは地球の人なんだしさ!おれは地球じゃただの野球小僧だから」
「ですが、ここは地球ではないそうなので」
「でも!きみもおれも地球人なんだよ!?」
は、先割れスプーンを置いて凪いだ瞳で有利を正面から見た。
驚いた様子も、困惑した様子も、なにも見えない深淵のような黒い瞳からは、感情そのものがまるで窺えなかった。
「王であることに、誇りをお持ちではないのですか?」


「どうした、ユーリ」
「別に……」
城巡りには後で迎えに行くと言って、とはとりあえず一旦別れた有利がよろよろと部屋へ戻ると、ようやくお目覚めだったらしいヴォルフラムが出迎えてくれた。
後ろでコンラッドが扉を閉めている音を聞きながら、ソファに崩れるように座り込むと、天井を見上げて目の上を手のひらで覆う。
「……なーんかさ、世界が違う感じがする……」
同じ地球からきたはずなのに、とは感覚がかなりずれているように思える。
それは「異世界の人だから」と有利自身を納得させることができるギュンターやヴォルフラムとの感覚の差よりも、酷く堪えた。
異世界であることを簡単に受け入れて、帰れないことにも取り乱しもしない。
おまけに、有利が魔王だと聞かされても淡々と受け入れるだけでなく、王であることの自覚を逆に指摘されてしまった。
「王であること……」
自信がないのか、と聞かれれば「まだルーキーなもので」と言えたかもしれない。
だが、誇りと聞かれればどうだ?
ない、と言うのは眞魔国のすべての民に失礼だし、無責任だろう。
ある、と答えるには自分に対して自信がない。
誇れるほどの王なのか。
自分が治めるべき国を置いて、日本に帰りたいと切望しているような王なのに。
「ところでユーリ、今日はぼくと……」
「あ、わりぃ。今日はさんに城の中を案内するつもりでさ」
「なんだと!?なぜお前がそんなことをするんだ。そんなもの、侍女か兵士に任せればいいだろう!」
「だっておれじゃないと言葉が半分くらいしか通じねえじゃん。案内の意味ないだろ」
「言葉などそれなりに通じさえすれば、なんとでもなるだろう」
「いや、お前人事だと思って。おれはこっちにいることにも慣れたけど、あの子には見たことも聞いたこともない場所なんだぜ?せめて自分の住むところくらいわかってないと、きっと不安だろうしさあ」
「彼女はわりと落ち着いていると思いますよ?」
側に控えていたコンラッドがそっと有利の感想に訂正を入れた。
「取り乱したのはせいぜい楽器のことくらいじゃないですか?俺が地球に行ったときより、ずっと淡白な反応だと思います」
「そりゃきっと、現実味がないんじゃないかな。コンラッドはあれだろ、ちゃんと異世界にきたってわかってたわけだから、その違いに驚いたんだろ?」
「それを否定はしませんけど……でも」
コンラッドが少し眉を寄せて、難しい表情をした。
「彼女のあれは」
「陛下ー!本日のご予定ですがぁー!」
ちょうどコンラッドの声に被せるようにして、ギュンターの奇声とノックが同時に聞えた。
なぜそんなに興奮しているんだ。
絶好調のギュンターの声色に有利が首を傾げるも、コンラッドは気にした様子もなく入口に方に歩み寄って扉を開ける。
滑るような足取りで部屋に入ってきたギュンターは、有利の前にすでに緩みきった顔で進み出てきた。
「おはようございます、陛下。本日もご機嫌麗しく」
「お、おれよりあんたの方がウルワシイみたいだけど……」
「それはもう!……ああ!ですが私の忠誠と愛はすべて陛下のものでして、そのことは誤解がないように申し上げておきますけれども!」
「な、なんの誤解?」
「もちろん私の愛と忠誠の話でございます!」
朝からハイテンションのギュンターについていけずに有利がコンラッドに助けを求める視線を向けた。
「それで、ギュンター。本日の陛下のご予定を告げにきたんじゃなかったのか?」
名付け親は過たず、話を進めようと助け舟を出してくれる。
「そうでしたね、では陛下」
「あ、それなんだけどさ。おれ今日はさんに城内の案内を……」
「そのことでしたら、様から辞退されました」
「はあ!?」
有利が驚いてあんぐりと大口を開けていようと、コンラッドが目を細めて顎をひと撫でしていようと、ギュンターは気にした様子もなく大きく頷く。
「先ほど廊下で様にお会いしまして、陛下がお心優しくも様をご自身でご案内なさるとお約束されたとお聞きしました。そして既に陛下の本日のご予定が決まっているのなら、城内の案内はまた後日、時間があるときに改めてでもいいと仰せに。さすが陛下と同じ高貴な黒を宿す方です。お心遣い細やかですね」
「なにが細やかな心遣いだ。本当に心遣いするなら、魔王自身の案内など畏れ多いとそれ自体を断るべきだろう」
ヴォルフラムは軽い朝食を取りながら悪態をついた。
「そんな言い方するなよ。だから、おれじゃないと言葉が通じないんだから」
「たぶん、どうでもいいんじゃないでしょうか」
静かな呟きが聞えて、有利はコンラッドを振り返る。
「え?」
眉を寄せて難しい顔をしていたコンラッドは、だが次の瞬間にはいつもの人好きのする微笑を乗せてごく気軽に提案した。
「なんなら、俺が案内してきましょう。陛下の護衛はギュンターとヴォルフラムがいることですし」
「それはいい考えですね」
「たまには良いことを言うじゃないか、ウェラー卿」
の利便性を考え、なおかつ自分は有利と共にあれるということで異論のないギュンターと、有利が鼻の下を伸ばして美少女と城内散策をしなくていいと乗り気のヴォルフラムが肯定してしまい、有利としては反論の言葉も力を無くす。
「だけど言葉が……」
「半分くらいは通じますし、ひょっとしたら彼女、英語は話せるかもしれません」
「う……そ、それはそうかも……」
有利は微妙にたじろいだ。
なぜこんなにも焦燥するのかと思いつつ、それでももう少し反論してみる。
「だ、だけどさ、昨日の様子を見る限り、コンラッドが近付くのは怖がるんじゃないのかな……あんたが蹴ったりしたから」
自分が蹴られたわけでもないのに、我ながらしつこいと思う。むしろ、自分のことではないからこそ、しつこいのかもしれないが。
「さっき朝食の席に俺も控えていましたが、特に反応ありませんでしたよ」
「そうだっけ……?」
確かに、淡々と有利の言葉に返事を返していただけだ。
怯えた様子は微塵も見えなかった。
「英語が通じなければ、やっぱり半分くらいしか彼女には理解できないでしょうから、そのときは後日改めて陛下が案内して差し上げてください」
「う……わ、わかった……」
これ以上反対するのもおかしなものかと、有利は渋々と頷いた。







有利の気合いに反して、冷静そのものです。
有利夢なのに、なぜかコンラッドが城内案内をすることに(汗)


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