それからの日々は穏やかに過ぎた。
ヴォルフラムは何か感じるところがあったらしく、あからさまにではないが警戒を復活させていて、なかなかとふたりきりになるチャンスがなかった。
夜となるとヴォルフラムは早くに眠ってしまうし、その眠りは深い。
夜に部屋を抜け出して、と中庭の東屋で会うことが新たな日課に加えられたものの、今度は夜に部屋を抜け出していることをコンラッドに悟られてしまって、遠巻きにではあるが護衛がついてしまい、やっぱり健全な演奏会を重ねるだけだった。



アンダンテ(13)



「別に俺のことは気になさらずに、夜の逢瀬を楽しめばいいじゃないですか」
の部屋までの短い距離の合間で有利が不満を零すと、コンラッドはあっさりとそんな風に返してくる。
「逢瀬って……!だ、だって人目があるのに何をどう楽しめって言うんだよ!」
「人目って、ただの護衛ですよ、俺は。そんなに心配なさらずとも一瞬たりとも見逃さないように見張っているわけじゃありません。むしろ大体は周囲の警戒で陛下たちの方を見てませんから、どうぞ不健全なことをなさってください」
「そんな勧められ方して『それじゃあ遠慮なく』ってできるわけないだろー!」
有利が苦悩して両手で頭を抱えて叫ぶ姿を、コンラッドは苦笑して見守るだけだ。
「じゃあ演奏は昼間楽しむことにして、夜は彼女の部屋で過ごせばいいじゃないですか」
部屋の外だから人目があるのだ。部屋の中なら、コンラッドは部屋の外で待機するから彼女とふたりきりになれるだろうに。
コンラッドとしては弟の心情を考えると複雑なものがあるのだが、有利の気持ちが彼女にあるのにそれを殊更邪魔するつもりはない。
ところがそれはそれで有利は複雑そうに難しい表情をした。
「だってそれだと、会いに行く口実がないし」
「口実がいるんですか?」
「おれはあんたみたいに、女の人の部屋に用事もないのにさらっと行けるような甲斐性はないんだよ!悪かったね!」
そういう意味ではなくて。
交際している相手を訪ねるのに理由がいるのだろうか。
どうやらこの様子では、友達以上恋人未満から進展がないらしい。
不器用というか気の毒というか。
有利のアプローチも弱いには違いないが、彼女も有利に対して憎からず思っているはずなのに、どうしてそこで足踏み状態になるのかが不思議だ。
コンラッドが言ってしまったヴォルフラムのことを気にしているのかと考えるが、あの婚約は事故で無効だという有利の主張を信じているようだから、関係ないだろう。
が眞魔国に流れ着いて一ヶ月経つ。それはそのまま有利が日本に帰れなくなってから二ヶ月が経ったことになる。
コンラッドにとっての存在が幸いなのは、有利が日本を恋しがって落ち込む回数が格段に減ったことだった。
最初の頃こその状態に一喜一憂していた有利だが、彼女が大泣きして立ち直り始めてからは、焦る事も落ち込む事もなく穏やかに有利の側で時を過ごす彼女に感化されたのか、それとも上手く行きそうな恋が楽しいのか、ずいぶんと落ち着いている。
このまま彼女が有利の隣で安定し続けてくれれば、有利もこちらの生活を平穏に過ごせるかもしれない。
コンラッドがそんな期待を抱いているとは露とも知らず、部屋から出てきたと有利は微笑み合って並んで中庭に向かって歩き出した。
コンラッドは預かり知らないところであろうが、このの不満の欠片も見えない態度がまた有利の勇気ある第一歩を妨げるのだ。
有利はこんなにもコンラッドの護衛に不満を覚えるのに、は一度も護衛がついていることに嫌な顔をしない。
ひょっとして、別にそういった進展を望んでいるわけではなくて、有利を人間的に好いている……つまりは友人付き合いがしたいだけなんではという疑惑が膨らむのだ。
だとすれば、告白したって彼女を困らせるだけだろう。
恋心ではなくても、彼女は有利の側にいたいと思っている。
だが有利が思いを打ち明ければ、もしもそのつもりがなかったときに断りにくいのではないかという疑問が尽きない。
あの日のように、手を握ることから始めてみようかと何度も考えているのだが、何しろ後ろからコンラッドがついてきている。その目の前で彼女と手を繋ぐなんて出来ない。
かと言って。
「今日はなんの曲がよいでしょうか?」
東屋に着くとコンラッドとは距離が開くのだが、代わりにが演奏するので手を繋ぐことなんてできない。
彼女の音楽は好きだし、一緒に過ごせるだけでも楽しい。だけどそれだけでは物足りないのは青春真っ盛りのお年頃である以上は仕様がないと思うのだが、その相手であるはこんな付き合いにまったく不満がないようなのだ。
やっぱり春がきたなんて、早とちりだったかなあと僅かに落ち込んでいると、すぐ目の前にが膝をついて下から覗きこんできていた。
「ユーリ様?」
「へ?って、わっ!」
急に至近距離から覗き込まれて、慌てて仰け反るとベンチから転がり落ちかける。
「ユーリ様!」
慌てたに手を掴まれて、なんとか体勢を立て直したものの勢いでに半ば覆いかぶさるような形になった。
お互いの肌が触れ合うほどの距離に顔を近づけて、一気に心臓が高鳴った。
このまま。
有利が引かずにの肩を掴むと、少しだけ驚いた様子だったがは嫌がりもせずにそっと目を閉じた。
この体勢で、この距離で、彼女が目を閉じたならすることは決まっている。
有利も目を閉じてそのまま僅かだった距離がゼロになろうとしたとき、コンラッドが東屋に飛び込んできた。
「どうかなさいましたか!?」
ベンチから落ちかけた有利にが上げた悲鳴が聞えたのだろう。
有利はそのまま、の肩に顔を伏せて盛大な溜め息をついた。


「悪気はなかったんですよ」
翌日、ロードワークの迎えにきたコンラッドに昨夜と同じくそう弁解されて有利は不機嫌にトレーニングウェアに着替えながら溜め息をつく。
「わかってるよ。護衛でついてきてるんだから仕方ないだろ。もういいよ」
どうしても不機嫌になってしまうのは、あと一歩だったという気持ちが強いからだ。
キスできなかったことは残念は残念とはいえ、それでも嬉しいこともある。
の気持ちがわかったことだ。
友達のつもりだったら、あそこで肩を掴んだ有利に応えて目を閉じたりはしないだろう。
それだけも十分な成果だといえる。
ランプの明かりの元で見た、ゆっくりと瞼を下ろした彼女の赤い小さな唇を思い出すだけで身悶えしてしまいそうだ。
今夜こそ……!
有利に力が入るのも無理はない。
決意も新たにランニングに城から出てきた有利は、濡れた地面に驚いた。
「あれ、雨降ったの?」
「夜明け前に少しだけ降ったみたいですよ。所々水溜りができていますから気をつけてくださいね」
「わざとはまらない限り、見落とさないって」
心配性な注意を受けて肩を竦めると、中庭の方から聞えてきた音に足を止めた。
「こんな朝早くから練習してるんだ」
「……俺はここで待ってますけど?」
昨日のことを気にしてか、ここだと中庭まで少し距離があるというのにコンラッドがそんな提案をしてくれる。
「え、い、いやでもおれはほら、走るために出てきたわけだからー」
そんなことを言いながら、足は既に中庭の方向に向いていた。
「ちょっとだけ、ちょっと顔見せたらすぐ帰ってくるから!」
「慌てなくていいですよ」
そんな気遣いの声を背中に聞きながらいつもの東屋まで駆けて行くと、は有利を見つけて嬉しそうに笑ってバイオリンをケースに仕舞った。
「あれ、練習終わり?」
「はい。ユーリ様のお顔を拝見できましたから」
笑顔で言われて、これが彼女流の誘いの合図だったのだとわかって心臓が激しく踊り出す。
「ですが、ユーリ様のご希望があれば何か演奏いたします」
「い、いや…そ、それはその………ま、また夜に……聞かせてくれたら……ふ、ふたりきりで」
走る前でよかった。今ならまだ汗もかいていないから、気になる女の子に汗臭くないかとかの気兼ねもなく近付くことができる。
有利が東屋に近付くと、日の光を背にもケースを片手に駆け降りてくる。
映画のワンシーンみたいだなとほころばせた顔はすぐに硬直した。
の足が東屋を下りてすぐの水溜りに一歩踏み込んだとき、がくんと大きく体勢を崩したのだ。
!」
泥の地面に転んだら大変だと慌てた有利が手を伸ばすと、も有利に向かって手を伸ばした。
届くと思った手が届かなかったのは、の身体があろうことか浅いはずの水溜りに沈んでいくからだ。
「こ、こんな急なのかよ!」
は驚いたように悲鳴を上げたが、有利にはわかっている。
地球に帰るときがきたのだ。
せっかく知り合えたのに!
だがそう思ってはいけない。
ここにいたいと言った彼女に、地球で生きる努力をしろと諭したのは自分自身だから。
「大丈夫だよ!地球に戻るだけだから!」
沈んでいくの手を握る。
は一度目を見開き、痛みに耐えるように唇を噛み締めると数秒の時間しかないとすぐに悟って有利の手を握り返した。
「ご恩は忘れません!」
「頑張れよ!」
たった一言、交わすことが精一杯だった。
最後まで握り締めていた手は、今は水溜りに浸かっているだけだ。
もう、あの黒髪の少女はこの世界に影も形もない。
そして有利は、この世界に取り残された。
と一緒に移動してもオーストリアに出てしまって、ビザもパスポートもないし困っただろうけれど、それでも置いていかれたという気持ちは拭えない。
だけど。
「頑張って前向きに生きろって……おれが言ったんだよな」
地球と眞魔国と、大きく隔てられてしまっても、確かにここで彼女と絆があった。
繋がっていると信じている限り、それは今でも続いている。
「……魔王であることを、誇れるようにならなくちゃな……」
それは、まだ生きる気力をなくしていた頃の彼女に言われた言葉。
彼女の欠片は、まだこの胸に。
「だけど……ちょっとだけ……今だけ……」
ぬかるんだ地面に両膝をついて、コンラッドが迎えに来るまで強く目を閉じて、水溜りの底の土を握り締めるように爪を立てた。
今だけは。
コンラッドが来たら、そこから立派な魔王になるために前を向いて歩いていくから。
だから、今だけは。
「好きだよ……
この声はもう届かなくても、想いは確かに胸にある。
それが、彼女がここにいた証。







眞魔国での時間は終わりました。
出会いがあり別れがありますが、共に過ごした時間は有利にも確かに何かを
残したのではないかと。


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