がようやく本当に見せてくれた笑顔に、有利も肩の力が抜けてほっと息をついた。 「でもこんな格好良いこと言っといて、今のとこ帰り方はわかんないんだよなー」 「ゆっくりでいいです」 涙を拭いながらそう言うに、まだ後ろ向きな気持ちが残っているのかと思って一瞬眉をひそめるが、返ってきたのはやっぱり笑顔だった。 「できるだけたくさん、わたしの中にユーリ様の欠片をいただきたいですから」 改めてそう言われると、どれだけ気障なセリフを言ったのかと実感させられた。 アンダンテ(12) 「いや……んっんーそのー」 わざとらしく咳払いして恥ずかしさを誤魔化していると、はベッド側のテーブルの上にあるバイオリンケースの方へ歩いて行った。 「………本当に、ゆっくりでいいんです。わたし、ハインツのことを思い出すことがつらくて、でもハインツのことを考えないことなんてできなくて……ハインツにもユーリ様にも怒られしまいそうだけど……」 ケースを取り上げて大切に抱えながら、ぎょっとするようなことを言う。 「本当はこのケースを抱えて、死んでしまえればと思ってドナウに身を投げたんです」 「えええ!?身、身を投げって……」 「そうしたら、この国に着いていたんです。骨飛族の方を見たとき、最初は本当に死ねたのかと……ハインツがどこかにいるのかって……思って……」 彼女が骨飛族に驚かなかったはずだ。死後の世界なら、骸骨がいてもおかしくないと思ったわけだ。 「ですから、もしもわたしが地球に帰れなかったとしても、どうかユーリ様は気に病まないでください。わたしは一度、自分で捨ててしまったのですから……」 咄嗟になんと返事していいのかわからない。 自殺なんてだめだよ、という言葉が出かかったものの今の彼女にそのつもりはないし、怒りそうな有利にそう話したということは、もう二度と繰り返すこともないだろう。 重ねて説教するべきか否かを迷って口の中で言葉をこね回していると、はケースを抱えて有利の元に戻ってきた。 「父と母が事故で揃っていなくなってしまったときも、わたしは悲しくて弓を取れなくなっていました。泣いてばかりいるわたしに向かってハインツが言ったんです。『君は私と同じ人種だ。音を捨てて生きることなどできはしない。寂しさに惑わされてはいけない。つらいのならば、自然に自ら弓を取れるようになるまで私の前で弾きなさい。私はいつでも君の音が聞きたいのだから』」 「あ……そ、それって……」 聞き覚えのある言葉。有利には正しくは言い覚えのある言葉だ。 「はい。ですから、ユーリ様がそうおっしゃってくださったときは、本当に嬉しかった」 「そ、そうか……」 は本当に嬉しそうに微笑むけれど、笑い返しながら有利は微妙に複雑だ。 そうか、死んだ恋人と重ねていたから側にいたかったのか。 ……なんだ。 落胆した自分に気が付いて、この期に及んでまだ何を期待しているんだとにはわからないように腿をつねり上げた。痛みで僅かに涙が滲む。 「それなのに、今度はハインツまで事故で失いました。今度はわたしも車に同乗していたのにわたしは無傷で、ハインツは大事な左手を失い……そのまま……」 はそっと左手を引いて胸元に抱き込んだ。 「どうしてわたしが助かったのか、どうしてこの手が無事でハインツの神のような左手が失われてしまったのか、そう思ったら手が震えて弓が持てなくて……」 だから彼女は、左手は怪我ではないと言い続けたのだ。 医者が嫌いだと言い、赤い包帯が目に焼き付いたのはその時だろう。 「ハインツも、バイオリンも失って、生きている意味なんて、もうないんだって……」 「そんなことないだろ!?」 思わず有利が両肩を掴んで振り向かせると、はゆっくりと微笑んで頷いた。 「はい。ユーリ様がそうではないと教えて下さいました。わたしがまたバイオリンを持てるようにしてくださいました」 「おれは何もしてないよ。ちょっと言葉を言っただけだ。ちゃんと時間があれば、は自分で立ち直れたんだよ。だっては音楽を捨てることなんて、できないんだろ?」 有利が照れたようにそう言うと、は嬉しそうに黒い大きな瞳を眇めて、ケースに手をかけた。 このケースを開ける様子を見せてもらうのは初めてだ。金具に鍵はついていないけれど、コンラッドが開かないと言っていたケースだ。 留め金を外す前に、はケースの下に手を入れてなにかをスライドさせると、それから留め金を跳ね上げた。それで蓋を開けるのかと思えば、跳ね上げた留め金を横に直角に倒してから手前に引き、それからようやく蓋を開ける。 「……なんか複雑な開け方だね」 「組み細工箱をご存知ですか?日本にはこうやって正解がひとつしかないパズルを組むのように部品を動かす事で、鍵を使うことなく蓋に鍵をかけてしまうことができる箱があるそうです。ハインツが、わたしに合わせて作ってくれたケースで……でも、わたしは組み細工なんて知らないのに」 このケース自体が形見ということか。特注のバイオリンケースをプレゼントとは経済力のありそうな彼氏だ。だが有利だってこの世界でならこれでも一国の王様だから、負けないどころか経済力だって勝てるだろう。 ……ただし、それが自分の力だとは到底思えないけれど。 我ながら卑屈になっていると有利が首を振っていると、は弓を固定している蓋の中張りの布を剥がして一枚の写真を取り出した。 「思い出すとつらくて、でも、ひとりで生きる勇気も、死ぬ勇気もなくて」 そっと大事そうに表面を撫でて膝の上に置いた写真を横から覗き込むと、椅子に座る女性と、その膝の上に子供用のバイオリンを持つ少女と、椅子に手をかけて横に立つ若い男性、それからひとりだけ西洋人の気難しそうな老人が男性の横に佇んでいるものだった。 タキシードやイブニングドレスで四人とも正装している。艶やかな黒髪の女性にはの面影があった。 「ご両親と、?」 「はい。それと、ハインツです」 「………え?」 何度写真を見返しても、夫婦らしき男女とまだ六、七歳くらいのと、それからの祖父にしても老けている老人しかいない。 「歳離れすぎ!……じゃなくて……ハインツさんって恋人じゃなかったの!?」 今度はの方が驚いたように顔を上げる。 「いいえ。わたし、そんなこと言ったでしょうか」 言ってない。 一番大切な人だと、言っただけだ。 「十年前に両親が揃って事故で他界して、母のバイオリンの師で後見人だったハインツがそのままわたしを養女にしてくれたんです。ハインツは、わたしの父であり恩人であり、唯一の家族でもあり、そしてバイオリンの師でもある、一番大切な人です」 「こ、恋人じゃなかったんだ……」 ほっとするような、より落胆するような。 だってそれなら、有利は祖父のような存在の人と同じ愛情を寄せられたわけで。 「ふ……複雑……」 あの東屋での演奏が聞きたいと言う有利のリクエストに答えて、バイオリンケースを携えたとふたりで部屋から出ると、廊下では心配そうなコンラッドとやきもきして落ち着かずに廊下を歩き回るヴォルフラムがいた。 はあのときそれどころではなく泣き崩れていたから覚えていなくても当然だったが、有利もふたりを待たせていたことをすっかり忘れていた。 「ユーリ!」 部屋から出てきたふたりにヴォルフラムが行きかけていた廊下を走って戻ってくる。 「あー、ごめんごめん。心配掛けたけど、どうにか丸く収まったよ」 有利が片手を上げてふたりにそう言うと、コンラッドは安心したようにほっと息をついたがヴォルフラムは何か言いたげにをちらちらと見る。 だが、結局諦めたように口を閉ざした。涙は乾いているものの、まだ目は赤い。泣いた跡が顕著にわかるのだ。 泣いていた女の子相手では、いつもの剣幕で責め立てることもできないらしいヴォルフラムの気性に有利がこっそりと笑うと、隣で同じくコンラッドも笑いを噛み殺していた。 「いい奴だよなー、ヴォルフラム」 「そうですね。わがままですけれど、心根は優しい奴ですから」 「なにをふたりでこそこそと話しているんだ!」 むっと眉を寄せて、コンラッド相手なら気にせず責めることができてすっきりするのか、指を突きつけながら詰め寄っているので有利は横に避難した。 「あーあ……ヴォルフが女の子なら、ちょっとくらいわがままなのは目を瞑るのに」 横でバイオリンケースを抱えてが驚いたように首を傾げる。 「ユーリ様とフォンビーレフェルト卿は愛し合っておられるわけではないのですか?」 「あ、愛!?ちょっと待って、お願い。それは違う、絶対に違う。だっておれたち男同士じゃん!?っていうか、今おれ日本語で話していた?」 どうやら無意識にヴォルフラムにわからない言葉を選んでいたらしい。 「ですが婚約者だとウェラー卿にお聞きいたしましたけど……」 「それは聞くも涙、語るも涙の複雑な事情の行き違いがあってね!?」 「そう……ですか……」 は軽く片手を口元に当てて首を傾げ、有利が勢いよく何度も頷くと、嬉しそうに微笑んだ。 「そうなんですか……よかった……」 「え……?」 今、なんて言った? よかったって言わなかった? 有利とヴォルフラムが婚約者だったらよくないことなど、には特にないはずだ。 ある可能性を除いては。 有利は再び湧き上がる期待に思わず胸に手を当てて服を握り締めた。 まさかここで「フォンビーレフェルト卿がフリーならわたしにもチャンスが」なんてことにはならないだろう。とヴォルフラムの間には大きな確執があるわけではないが、有利を挟んでしか交流はない。 恋人がいたというのは誤解だった。 彼女の一番大切な人は祖父のような父のような、家族で恩人で師匠という人だ。 その大切な人を失ったばかりで悲しみにくれていた彼女を励ましたのは有利で、これはひょっとしなくても、恋が芽生えてもおかしくない状況なのではないだろうかと期待に胸が高鳴る。 幸いヴォルフラムは、彼女には故郷に恋人がいるという有利が勝手に勘違いした話を今でも信じているはずだ。 上手く誤魔化して、とゆっくりお付き合いを深めていけばどうだろうか。 浮気はいけないと考えていたはずなのに、思考は浮気男そのものである。正確には有利にとってヴォルフラムは仲間なのだから浮気ではないという結論になる。 緊張しながら、ケースを持っていない方のの手に触れると、ぴくりと震えた。 やっぱり勘違いか、それとも性急過ぎたかと慌てて手を引きかけると、そっと細い指が有利の指に絡んだ。 驚いてを見ると、わずかに頬を染めて俯いている。 とうとう、やっとおれにも春がやってきた……! それが期間限定だということは、有利だって痛いほどわかっている。彼女に地球に戻るように説得したのは自分自身だ。 だがそれでも、それを理由に今を否定する必要だってないとも思う。 そのほっそりとした手を握り締めての顔を覗き込もうとしたら、聞きなれた怒声が飛んでくる。 「なにをやっているユーリ!」 ヴォルフラムに疑われてガードが固くなると後々困る。 慌てて何でもないと主張して、誤魔化すように中庭へ移動するんだと宣言しての手を引いて歩き出した。 |
地球での彼女の事情がわかりましたが、それでもなおできるだけ有利の側にいたい様子。 眞魔国は夏ですが有利には春の季節がやって…きたのでしょうか? |