意識が浮上して、薄く目をあけるとライトグリーンの天井が見えた。 「気がついたかね」 低く渋い、聞いたことのある声にゆっくりと視線を動かすと、何度が会ったことのある男がベッドサイドに座っていた。 アンダンテ(14)エピローグ の亡くなった後見人、養父で家族で恩人で師匠でもっとも大切だった人の古い友人の男だ。そもそも養父が母の後見人だったことも、この人が手引きしたのだと聞いている。 アメリカの実力派の俳優に似ていて、何という名前だったか。 「ドナウ川に身投げとは、ハインツが知ったらさぞかし嘆くことだろう」 「……そのまま死んだら、大馬鹿者ときっと許してもらえなかったでしょうね……」 苦笑したに、男は軽く眉を上げた。 もう死を選ぶような表情には見えなかったのだろう。 この男がいるということは。 帰ってきたのか。 地球に。 もう誰もいない、地球に。 ブランケットから出ている左手をそっとあげた。まだ、あの人の体温が残っているような錯覚がある。 左手には彼の体温。右手には……。 「……バイオリン!」 飛び起きたに、男は軽く肩を押さえて首を振る。 「心配しなくても、大丈夫だ。一緒に引き上げたよ。君はしっかりとケースを抱えていて、離させるのに苦労したほどだ。……開け方がわからなくて、中身が無事かまでは確認できてはいないが」 「ケースはどこに?」 「ここにあるよ」 男が掲げたケースを受け取って、あの国で彼にしてみせたように手順を踏んでケースを開けた。 組み細工は複雑で、それだけに気密性に富んでいる。ケース自体の防水も完璧なので、二度も水に沈んだというのに少しもケースの中に水が浸入してくることはなかった。 バイオリンが無事だということを確認して、ほっと蓋を閉じる。 「……ここは、どこですか?」 「私の取ったホテルだ。君は病院を激しく嫌悪しているという話だったのでね。検査を終えてすぐにここに移動した」 「ありがとうございます」 あの人のおかげで、病院や医者を見てももう発作のように癇癪を起こしたりはしないと思うけれど、それでもできればあまり近付きたくないのには変わりがない。エタノールの匂いも、冷たい白衣も、やはり嫌いなままだ。 「さて、君には聞きたいことがある」 「……なんでしょうか?」 そういえば、この人はハインツの葬儀に間に合ったんだろうか。事故での急な訃報で、アメリカからなら間に合わなかったと思うけれど。事故からドナウ川に身を投げるまで、雲の上を歩いているような感覚しかなかったから、よく覚えていない。 故人は偏屈で友人と呼べる相手はほとんど存在しない人だったけれど、音楽家としては世界的大家で追悼式も行われたから、きっとそちらには出席できただろうけれど。 そんな取りとめもないことが思い浮かんだ。 「ハインツは生前、君が成人する前に自分が死亡するようなことがあれば、君の後見を私に頼みたいと言っていたのだ。私と共にアメリカに来るか、それともこのままウィーンに留まるというのならば、しかるべき後見人を見つけるが、君はどちらを選ぶ?」 両親やハインツとの思い出の大半はこの国にある。あえて離れたいとは思わない。 だががこの世で最も信頼した、偏屈なあのハインツが後見を頼んだ相手だ。信頼に値すると思っていいのだろう。 思い出はすがるものではない。 離れていても、忘れなければこの胸に。 共に。 「行きます。アメリカに」 「そうか。では一週間あげよう。親しい友人との挨拶などに回るといい。心配しなくとも、君とハインツが住んでいた邸はそのまま君が相続できるように手続きは終わっている。 管理には人を雇っておこう。荷物は最小限でいい」 「一週間もいりません。わたしに友人はいませんから。お世話になった方にだけなら、一日あれば十分です」 男は眉を上げて苦笑する。 「なんだ、君も養父に倣っているのか。だが友人は大切だぞ。ハインツもそう言っていた。そう多くの友人などはいても面倒なだけだが、大切な者を託せる友人はいるにこしたことはない、とな」 「そのハインツが、学校なんて行かなくていいと言っていたんです。だからわたし、ずっと邸でハインツとふたりで練習ばっかりしてました」 それは困ったやつだと苦笑して、男は椅子から立ち上がった。 そうだ、思い出した。彼の名前は。 「私のことはボブと呼んでくれ。これからは君の家族だ。・」 「よろしくお願いします、ボブ」 が手を差し出すと、ボブも穏やかに笑って握手に応えてくれた。 「ハインツ・の唯一の後継者を育てるとなると責任重大だな。下手な師を探すと、神の寵児を潰したと批判されそうだ」 は苦笑しながらベッドから降りてバイオリンケースを抱えた。 「一時は死を選んだとは思えないほど落ち着いているね、」 「助けていただいた魔王陛下に叱られたくはないですから」 何のことだと怪訝そうな顔をされるかと思ったら、ボブは驚いたように眉を開いた。 あの世界での日々が夢か現実か、もうよくわからない。 こんなにもはっきりと彼の顔を思い出すことはできるのに、ドナウ川に身を投げた日のままで帰ってきてしまった。 あるいは、この世とあの世の狭間だったのかもしれない。 だとしたら、この世界に帰れと叱ってくれたあの人は、やっぱり命の恩人だ。魔王が命の恩人だなんて、一度は死を選んだことといい、教会に破門されてしまいそうだ。 「……破門されたって、いい」 この左手に残る温もりが本物ならば、神に捨てられても怖くない。 「大胆な発言だ。教会関係者に聞かれたら本当に破門されてもおかしくない。さすがはハインツの娘だ。神をも恐れぬ」 「だってわたし、魔王を愛したんですもの」 今度こそ、ボブが奇妙な顔をする。 これから世話になるというのに、おかしな娘だと思われても大変だ。本当の事だとしても言葉は加減しないといけない。 そういえば、あの人に婚約者がいると教えてくれた人も、彼にはただ恩があるだけだと言ったらこんな顔をした。きっと彼にはわかっていたのだろう。 あのときはまだ自身が気付いていなかった気持ちにも。 本当に存在したのか曖昧な日々。 だけどあの人に教えてもらった曲をまだ指が覚えている。 はこれから、彼が尊敬する野球選手を称える曲を、その選手ではなく彼に捧げるために、弾き続けるだろう。 あの人の言葉も、あの人の温もりも、あの人への想いも、まだこの胸に。 「好きです……ユーリ様」 身体の中に彼の欠片がある限り、ずっと忘れない。 |
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