迂闊なことを言ったという後悔も、すぐには出てこなかった。
死を身近に感じたことのない有利は、初めそれがなにかの比喩なのかと思ったからだ。
そうではないのだとわかったのは、有利に取りすがって彼女が声を上げて泣き始めてからだった。



アンダンテ(11)



……あの……」
彼女が静かに泣いているところなら見たことはあった。あの時も動揺してどうすればいいのかわからなくなった。
だけどそれも今の比ではない。
今度のことはどうして泣いているのかも、しかもそれが自分のせいだということも明らかで、それだけに胸に痛かった。
「ごめん、つらいこと思い出させたんだな……おれ……」
ずっと今までどうして彼女は異世界なんて場所に来ても落ち着いているのだろうと疑問に思っていた。有利の側にいたいと願ってくれたことが嬉しくて、そして恥ずかしいくらいに勘違いして動揺もした。
あれはコンラッドが言ったような愛の告白なんかじゃなくて。
「……は寂しいんだな」
夜の東屋で弾く彼女の音が寂しいと感じたのは間違いじゃなかった。彼女はずっと寂しかったのだ。
初めから大切だった人たちが存在しなかった世界に来て。
元の世界に帰れないつらさより、彼女にとっては元の世界に戻って大事な人がいなくなってしまったことを再び実感する方がつらかったのだ。
会いたいのに会えない。
死んでしまった人。
世界を隔ててしまった人。
このまま地球に帰れなければ、有利だって同じだ。お互いに生きていても、もう二度と家族や友達と会うことも声を聞くことも出来ない。
だけどやっぱり同じだとは言えない。
それでも有利にはまだ希望がある。
日本に帰る方法さえ見つかれば、また再び会いたい人に会える。
はもう会えない。
帰っても、誰もいない。
の痛みと有利の痛みは同じではない。だけど今だけは、その痛みがわかるような気がして、その細い身体をぎゅっと強く抱き締めた。


部屋の入り口でふたりでうずくまって抱き合っていれば、追いついてきたコンラッドとヴォルフラムに見つかるのは当たり前だ。
怒り心頭で駆け寄ってきたヴォルフラムは、だが悲嘆にくれるように泣きじゃくるの姿と、そのか弱げな少女を抱き締めながら振り仰いだ有利の今にも泣き出しそうな表情に怒りの罵声が出せなくなった。
「ど……どうしたんだユーリ」
「お……おれ…馬鹿だ……」
その一言で、コンラッドはすべてを理解した。
有利の後悔に満ちた表情に、やはり昨日感じたとおりに彼女の恋人が死んでしまった可能性を有利に話しておくべきだったと歯噛みして悔やむ。
彼女を気遣う心労よりも、傷を抉ってしまって自分を責める方がずっとつらいに決まっている。
「帰れないのに何も感じないはずなんだよ。なんで帰るよりおれの側にいたいのか、ちょっと考えればおかしいってわかりそうなものなのに………っ」
「陛下、それは違います。陛下はご立派に彼女を支えてきたじゃないですか」
「だけど一番大事なことがわかってなかったよ!」
何事にも動じなかった彼女に笑顔を取り戻させていたじゃないか。大切な人を失って、気力を無くしていた人間を笑わせるなんて、それがどれほどの偉業なのかを有利はわかっていない。
そう説得したくても、そんな言葉を今の有利は望んでいない。
「ごめん、コンラッド。ごめん、ヴォルフ……ちょっとだけ……時間くれないか?」
コンラッドは言葉もなく、ヴォルフラムは事情はわからないまでも有利の真摯な表情に困惑しながらも頷くと、有利は崩れそうなの身体を支えて部屋に入った。


ふらつくの身体を支えながらソファーまで連れて行くと、彼女は両手で顔を覆ってどうにか涙を止めようとする。
「いいよ、もう我慢するなよ。泣きたいだけ泣いちゃった方がすっきりするって」
有利が隣に座って肩を抱き寄せると、小さくなってきていた嗚咽が再び激しく上がる。
「ごめん……おれ、本当に考えなしで……」
まだ濡れている髪を撫でるようにして頭を抱き込むと、は顔を伏せて泣きながらも首を振った。
「ユー……リさま……わ、悪く……な……」
「でもー……」
心の、一番弱っているところに安易に触れたことには間違いない。
やっぱりおれのせいだと言いそうになって、だけどそれでは再びに否定させるだけになると言葉を飲み込んだ。
「うん……でも、ごめん……」
の涙がシャツに染み込んで肩を濡らす間、有利はずっと優しく頭を撫で続けていた。
それは長かったのかもしれないし、短かったのかもしれない。
有利はその間、少女の泣き声を目を閉じてただ聞いていた。
嗚咽が少し小さくなってくると、は有利の肩から身を起こしながら涙を拭う。
「す……すみません……」
が謝ることじゃないよ」
「でも………」
「ごめんな、つらいことを思い出させて」
泣いて赤くなった目に怯んだような色が浮かぶ。また失ったものを鮮明に思い浮かべてしまったのだろうか。
「もし………」
何をどう言えばいいのか、考えてもこれだという言葉は思い浮かばない。
だからとにかくの手を取って、その繊細な指を撫でるようにして握り締めた。
「もし、本当に地球に帰れないってなったら、ずっとおれの側にいてくるかな?」
「はいっ!……はい、わたしずっとユーリ様のお側に……」
「もしもだよ、。おれはきっと君を帰してあげるつもりなんだから」
は途端に不安そうにその顔を曇らせる。
「わたし……お邪魔ですか……?」
「違うよ、そうじゃない。側にいてくれたら、おれだって楽しいよ。だっての演奏は好きだし、のことだって好きだ。でも、本当に地球に帰れなくても後悔しない?」
「しません。帰る場所なんてわたしにはないんです」
「本当に?ご両親やハインツさんと過ごした日々は、この世界にはないのに?」
もう一度その人たちのことを口にしていいのか、迷いがなかったわけではない。
このまま彼女にここにいていいと言ってしまうのは簡単で、そうすれば彼女は喜んでくれたかもしれない。
笑ってくれたかもしれない。
一時的に。
「おれさ、は本当に音楽が好きなんだなってわかってる。バイオリンのことをすごく大事にしてたよね。言葉を覚える前に楽譜の読み方を覚えちゃうしさ。左手が……」
握っていた左手が小さく震えて、そのまま引いて逃げてしまわないように握る手に少し力を込める。
「左手が、上手く動かなくてもずっと弾こうとしてたよね。本当に本当に好きなんだってわかるよ。おれも野球が好きでさ」
弦を押さえ弓を握るからか、の手は指先だけ少し皮が硬いようだ。左の掌には肉刺のような跡もある。もちろん、それでもバットを振り続けている有利のような肉刺ではないけれど。
の上手さとは比べ物にならないくらいの実力しかないけど、今でも続けてるよ。草野球チーム作って皆で頑張ってる。やめられないんだ、やっぱり」
中学の頃に監督を殴って部活を首になったとか、そんな事情を知らないにやめられないと言っても、そんなものかとしか感じないかもしれないけれど、他にの音楽と比喩できるようなものが思いつかなかった。
「嫌なこと、つらいこと、そんな思い出がいっぱいあるけど、おれは野球が大好きだよ。だって音楽が好きだろ?」
「ですからユーリ様のお側で……」
「思い出の曲、本当に全部弾けたりする?」
穏やかな質問に、驚いたように目を見開いた。
「思い出にばっかりしがみつけって言ってるんじゃないよ。でもさ、全部なかったことにしちゃったら、もっと悲しいじゃないか」
初めからこの世界には居なかった人たち。
この世界でなら、会えなくても当然の人たち。
だからこの世界にいたいのだとしたら、そんな後ろ向きな理由もない。
「本当に帰れなくなったら、今度は前向きにここで生きていこうって思って欲しいよ。でも、帰れるのにつらいから帰らないっていうのはやっぱり違うよ。その人たちはさ、の本当に大切な人たちだったんだろう?」
「………はい」
ゆっくりと俯いたその頬をそっと撫でる。頬に当てた掌には熱が伝わり、濡れた髪に触れる甲は少し冷たかった。
「ご両親も、ハインツさんも、の中に残ってる。だからはその人たちが好きだった曲を当たり前のように弾けて、寂しい音になったり、優しい音になったりしてるんだ。地球に帰ったって、が忘れなければの中におれの欠片も残ってる。だからひとりじゃないよ。君が覚えている限り、離れていてもおれも君を想ってるって信じてくれ」
ゆっくりと顔を上げたの表情は、泣き笑いのように瞳を潤ませて、そして口元は微笑んでいた。
「君のことが、大切だから言うんだ。、どうか前を見て生きて」
は頬を撫でる有利の手を上から両手で包むとゆっくりと目を閉じる。
「はい……ユーリ様………」
そして、ゆっくりと瞼を上げると悲しみだけではない光を宿した涙の残る瞳で柔らかに微笑んだ。







安易に側にいることを選ばないのも強さではないかと。


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