深呼吸 食事を取って、を風呂に行かせて。 リビングで椅子に座ってテレビのリモコンを握ったまま、見るともなしに流れている番組をぼんやりと眺めていた。 「……なんでショックを受けているのかなあ……」 頬杖をつきながら、この脱力感は精神的ショックからくるものだという確信はあった。 ただ、何に対して衝撃を受けたのか、はっきりしないのだ。 の好意が単に同類愛のようなものだったとして、そこに悲しむべきものなど何もないのに。むしろ、なぜあんなに懐いてきたのか、納得すらしたのに。 「いーとこ、従妹、は従妹。従妹のことで何がそんなに悔しいのかねえ」 ガリガリと頭を掻いて、やや乱暴にリモコンをテーブルに置くと椅子を引いて立ち上がる。 部屋に帰って勉強でもしようとテレビを消したところで、がリビングに戻ってきた。 寝間着代わりはラフな長袖シャツと短パンで、初秋には少々肌寒く見える。 「お風呂空いたよ」 「ああ、じゃあ風呂にしようかな」 既に髪もドライヤーで乾かしていて、がリビングに隣接した客間に入る時にふわりと軽く髪がなびいてシャンプーの香りが漂う。 すぐにはノートと教科書を持ってリビングに戻ってきた。 「先に僕は風呂に入るけど……」 勉強道具を見て呟と、は頷いてノートと教科書をテーブルに置いた。 「うん、大丈夫。一人で復習するつもりだから。健ちゃんはゆっくり入ってきて」 「あ、そう……」 諾々と頷き、拍子抜けしたようにリビングを後にしようとして、呼び止められる。 「健ちゃん」 「なに?」 振り返ると、は軽く首を傾げる。 「元気ないよ?疲れちゃった?」 誰のせいだ、と言いかけて口を噤んだ。果たしてのせいなのか、正直村田自身にもよく判らない。そしてたとえの言動に理由があったからといって、が悪いのかというとそれもまた別の問題だ。 「……そうかな、気のせいじゃない?」 曖昧に笑って、そそくさとリビングを後にした。 風呂に入り湯船に浸かりながら、天井を見上げて考える。 たとえが寂しい子供同士一緒に寄り添いたいと思っていたからといって、何か問題があるだろうか。 自分は寂しくはないのに、そう誤解されていることが嫌なのか。 「……ああいや、違うな」 決して気持ちのいい誤解ではないが、そこまで気鬱になるようなことではない。 のあの笑顔が、そんな後ろ向きなものだったと思うことが。 「……ふー」 村田健は他人の厄介ごとに巻き込まれるようなことは避けて通る性質だ。 少なくとも自己分析ではそうだ。従妹は血縁だから他人じゃないなんて、思わない。 村田健にとっては、従妹なんて薄い血の繋がりより、渋谷有利という魂の繋がりの方がずっと他人ではない。従妹なんて他人だ。 結婚だって、できるほどの。 「うわー、びっくりした」 ゆっくりと湯船に沈みながら、村田は水の中でごぼごぼと音を立てて呟く。言葉は水の中で、呟いた本人にすら聞き取れる音にはならなかった。 いつもより時間をかけて髪を洗い、身体を洗ったのは、時間を稼ぎたかったからにすぎない。 に何と言って諭すべきか、考える時間が欲しかったのだ。 風呂の中でじっくり考えたはずだったのに、ややのぼせ気味でリビングに戻った途端、考えていた言葉がすべてすっ飛んでしまった。 ノートに目を落として俯いているの後ろ姿は、降ろしたままだった長い髪を高く結い上げて、すっきりと見える項とか襟足とか、のぼせた頭に更にくらくらと目が回る。 湯船の中で呟いた言葉を、もう一度今度は空気を僅かに震わせて呟いた。 「……再会した従妹に一目惚れって、成立するんだなぁ……」 友人にはシャレでひと夏のアバンチュールなんて言ったけど、正直そんな柄ではないと思っていたのに。 しかも相手は従妹。なんて面倒くさい相手に。 深く溜息をつくと、ノートに集中していたらしいが顔を上げた。 「あ、健ちゃん。遅かったね」 「ゆっくりして来いって言ったのはだろ」 「うん、でものぼせてるんじゃないかって、そろそろ様子を見に行こうかと思ってたの」 「見に……」 絶句する従兄には気付かずに、お茶でも淹れるねと対面キッチンに移動してしまった。 どこまでも、にとっては従兄なだけらしい。それなりにお互い年頃なのに、のぼせていないか平気で風呂を覗けるなんて。 がっくりと入り口でしゃがみ込んでいると、リビングに戻ってきたは驚いて側に駆け寄ってきた。 「どうしたの、やっぱりのぼせた?じゃあちょっと横になった方がいいよ」 ぐいぐいと腕を引かれて連れて行かれたのは、の為に布団を出していたリビング横の和室で、既に就寝準備の整えられたそこに、想いを自覚したばかりの少年が怯むのも無理はない。 は掛け布団を捲り上げると、躊躇する村田の腕を引いて布団の上に座らせた。 「健ちゃん寝て。温かいお茶より先に、水がいいね。スポーツドリンクがあれば一番いいんだけど」 水分補給水分補給と繰り返しながらキッチンに戻ってしまったに手を伸ばしたが、その腕をつかむことはできなかった。 「……うちの布団だ。どうせ」 半ば自棄になってごろりと寝転ぶと、自宅なのに覚えのない天井が広がっていた。来客の少ない村田家で、この部屋は普段ほとんど物置代わりのようなものだ。 が来るからと部屋の隅に避けておいた物たちが目の端に映る。 いそいそと家を軽く片付けて。 そのときは楽しかったのだろうか。 たった二日前のことなのに、もうよく思い出せない。 目を覆うように腕を置き、深く溜息をついた。 「何やってるんだろう……」 「ミネラルウォーターしかなかったけど、健ちゃん、起き上がれる?」 コップを片手にが戻ってきて、顔に乗せた腕の隙間から少しだけ覗いてみた。 「……ダメ、くらくらする」 「でものぼせるくらいお風呂に入っていたなら、水分補給した方がいいよ。支えるから」 「……口移しで飲ませてくれたら、寝転んでても飲めるんだけどな」 不機嫌そうな声で言ったのに、は小さく笑った。 「もう、調子が悪いくせに変な冗談ばっかり」 確かに冗談だ。本気に取られても困るし、あっさりと実行されればもっと困っただろう。 ああだけど。 村田は億劫そうに起き上がり、差し出されたコップを受け取った。 ああだけど、は照れるでもなく笑うだけなのか。 今更確認するほどのことでもないに、受け取ったコップを一気に煽る。本当にのぼせていたわけではなかったが、どうやら入浴で水分がかなり失われていたことは事実らしく、飲み干した水が身体に染み渡るようだった。 「お代わりいる?」 「……」 村田は空になったコップを弄び、従妹を見ないで呟くように言った。 「明日まで、ちゃんと勉強を教えてあげるよ。でも、もううちには来ないほうがいい。……いや、僕に会うのは止すんだ」 コップに映る歪んだの顔が驚きで硬直している。 手の中の空のコップを指先で左右に軽く回転させながら、溜息混じりに首を振る。 「僕を逃げ道に使うのはよくない。わかるだろう?寂しい者同士で身を寄せ合っても、結局暖を取れるわけじゃない」 「……健ちゃん?」 震える声に耳を塞ぎたい衝動を覚えて、耳の代わりにぎゅっと強く目を閉じる。 「……ましてや、僕は寂しいなんて思ってもいない」 突き放すように言った途端に、ぎゅむ、と。 頬をつねられた。 「わたし、健ちゃんに逃げた覚えなんてない」 「は……?」 つねっていた手が引いて、を見ると怒ったように頬を膨らませて軽くこちらを睨みつけている。 「ううん、頼っては、いたかも。でも健ちゃんが寂しそうだから一緒に居たいって思ったんじゃないよ。聞いてなかったの?きっと渋谷さんのおかげだと思うけど、健ちゃんが穏やかに見えるって、そう言ったのに」 「……ああ、そういえば」 夕方そんなことを言っていたような気がする。それ以上に寂しかったから一緒にいたかったのかと思ったことが印象強くて忘れていた。 は溜息をついて、頬をつねった手を降ろして正座した膝の上に落とした。 「うちはね、誰も幸せじゃないの。ううん、パパだけは幸せだと信じてるのかもね。ママとわたしが綺麗な格好をして、評判のいい学校に行っていれば、それでいい人だから。全部上手くいっていると思ってる。顔を合わせると一人で喋って、一人で笑って、一人で納得して、それで終わり。ママは家にいると息が詰まるからって仕事をやめられない」 膝に落とした手を組んではもう一度溜息をついた。 「一緒の家にいるけど、二人とも毎日帰って来てるみたいだけど、もう半年も顔を合わせてないのよ。きっと二人も似たようなものね」 「半年?」 驚いて、思わず声が上擦らないように押さえる必要があった。自分の家を思うと似たような状況だが、だが父親は単身赴任中だし、母親はウィークリーマンションの職場に詰めっ放しで、それでは会わなくても無理はない。それにそれでも半年も会わない状況にはなっていない。 「……家にいるとわたしも息が詰まる。どうしてなのかずっと判らなかった。でもあの日、健ちゃんの笑顔を見て、ようやく判った」 「僕の……?」 「寂しかったんだって。寂しいって、認めるのが嫌だったんだって」 「……」 「小さい頃、一緒に留守番をさせられていた健ちゃんは、ちゃんと自分の笑顔で笑っているの。それが羨ましくて、眩しくて、わたしもそうなりたいんだって、やっと判った」 「、僕は」 膝の上の彼女の手を握り、顔を上げたと目を合わせると、何を言おうとしていたのか言葉が途切れてしまった。 は苦笑して、ゆっくりと首を振る。 「逃げ道にしたつもりなんてなかった。健ちゃんと一緒に居ると、息がちゃんとできたの。羨ましくて、眩しくて……楽しくて。でも、健ちゃんの負担になるならもう会わない」 「会わなくてどうするんだ?また一人で息苦しい家にいるつもりかい?」 もっと他に言い方はなかったのだろうか。逃げ道に使うななんて言い方ではなくて、他の何か。 だが村田の焦燥に気付く様子もなくはまた首を振る。 「うちを出るの」 「え……」 「まだパパにもママにも内緒だけど、県外にある全寮制の学校を受験するつもり。二人共驚くかもしれないけど、そこも偏差値が高いところだから強くは反対しないと思う」 「―――だから……僕に勉強を教えてほしいって」 「学校に行くのはパパのお金だけど……少しでも自分で歩き出さないと、健ちゃんみたいな笑顔にはきっとなれないと思ったから。健ちゃんから見てどうなのかは判らないけど、自分にできることから始めたいの」 「……」 溜息が漏れた。 勝手に勘違いして、彼女が逃げていると決め付けたことが恥ずかしい。 ちっぽけで、狭い世界で、だけど彼女は彼女なりに戦おうと努力をしていた、その第一歩だったのに。 「ごめん。僕の勘違いだ。そういうことなら、ちゃんと協力するよ。僕でよければ勉強もみるし」 「本当?迷惑じゃないの……?」 「迷惑じゃないよ。のためにならないと思ったからそう言っただけで……」 「呆れて、わたしのこと嫌いになったんじゃないの?」 「違う、のことは好きだよ」 それだけは違うと言い切るつもりで、勢いで言ってしまった言葉に、の手を離して口を押さえる。 もう遅い。口にしてしまった言葉を消すことはできない。 今から親元を離れて自分で幸せになる努力を始めるところのに協力をすると言ったばかりで、おかしなことを言ってどうするんだ。 そろりとを窺うと、彼女はにっこりと微笑んだ。 「本当に?嬉しいっ」 「え……?」 思っていた反応と違うような気がする。 困るでもなく、照れるでもなく。 開けたままの引き戸の向こうから湯の沸く音が聞こえて、は火を掛けたままだったと慌ててキッチンへ向かう。 村田はくらくらと眩暈を感じて、再び布団に倒れ込んだ。 まったく意味が通じていない。 「あーあもう、なんだよぉ……」 散々従妹だと自分に言っていたのはどこの誰だ。 従兄からの好意なら、のように捉えて当然だろう。村田自身がそう自分に言い聞かせていたくらいなのだから。 布団に寝転んで、深呼吸をする。 転がったグラスが引き戸に当たった音を聞きながら、溜息と共に静かに目を閉じた。 |
青少年、ひとりで空回り。 |