はだし 『今度の日曜日、遊びに行っていい?』 従妹から自宅にそう電話があったのが三日前。 「いいけど。もうすぐも中間テストの時期じゃないの?」 『うん、だからなの』 「……あー、なるほどなるほど。いいよ、勉強道具も持っておいで。どうせなら、土曜日の礼拝帰りにそのまま来て泊まっていったら?」 『おばさんに迷惑じゃない?』 「うちの母親はウィークリーマンションで詰めっ放し。帰ってくるかどうかも定かじゃないよ。父親は相変わらず香港だしね」 『うん、じゃあ土曜日に』 電話を切ってからはたと考える。 女の子と二人でお泊りというのは、不味かっただろうか。 「……従妹だ従妹。やましくなければ問題もない」 肩を竦めて、そう呟いた。 そしてそんな土曜日に限って、大雨が降ったりするものだ。 窓に手をついて、バケツをひっくり返したような雨を眺めながら、果たして従妹はこの天気でも来るだろうか、来るようなら迎えに行った方がいいだろうかと考えて、彼女の携帯の番号を未だに知らないことに気がついた。これでは連絡の取りようもない。 さてどうしようと考え込んでいると、家のチャイムが鳴った。 慌てて玄関に駆けつけてドアを開けると、水滴を滴らせた傘を片手に、着替えなどを詰め込んだらしき小振りのボストンバックを肩にしたが立っている。 「よく来たね。大変だっただろ、この雨。入って入って。濡れてるなら……あー、しまったな風呂を沸かしておけばよかったのか。せめて熱いシャワーでも浴びる?」 「大丈夫、雨はまっすぐ降ってたから。靴の中はぐちゃぐちゃだけど」 渡されたタオルで軽く水滴を払いながら、は靴を脱いでそのまま白い靴下も脱いだ。 確かに、足の他はそれほど濡れていないようだった。 靴下は乾かしておくことにして、肩に掛けていた鞄を受け取ると先に立ってリビングまで案内する。裸足の足がペタペタとフローリングの床を歩く音が妙に幼い子供のようだ。 「あれ、。スリッパは」 「素足だからこの方が冷たくて気持ちいい」 「がいいなら、いいんだけど。冷えすぎないようにね」 「はぁい」 返事までどこか幼い。 ペタペタとついてきた足音は、リビングで椅子に座るまで続いた。 「お茶でも淹れるよ。まず一息入れる?それとも早速勉強するかい?」 「勉強する。解らないところがあったら、教えてくれる?」 「はいはい、そのために来たんだろ。僕も勉強道具を取ってくるよ」 薬缶を火にかけ急須と湯飲みを用意すると、自室に戻ってまとめておいた教科書とノートを手に取る。 香港で仕事をしている父親も仕事中毒の母親も帰ってくることが少ないので、一人で暮らしているようなものだが、勉強をするのに自分の部屋以外を使うことは滅多にない。来客にちょうどいい小卓がないこともあって、友人に教えるときは大抵あちらの家に行く。 何度も往復するのは面倒なので、一応とばかり古語辞書と英和辞典も引き出して持っていくと、もう湯が沸いていたらしくが対面キッチンでお茶を淹れているところだった。 「ああ、ごめん。ありがとう」 「んーん。大丈夫」 流しに向かっているからテーブルに視線を落とすと、広げてあったのはどうやら化学のノートらしい。 「化学が苦手?」 「うん、あと数学とか」 「ああ、典型的な理系嫌いタイプ」 「理論立てて考えるのとか苦手なの」 「そんな感じだね。は直感型なわけだ。ちょうど僕は理系得意だから、何でも聞いて」 「健ちゃんはそんな感じだよね」 ペタペタと裸足がフローリングの上を歩いて来て、テーブルの上に二つの湯飲みを置いた。 「化学とか物理とか数学とか、答えが一つしかないのって不便な感じ」 「不便……?でも、国語みたいに曖昧じゃない方が、不正解にされたときは納得できるけどね。反論のしようがない」 「ああ……うん」 テーブルを挟んで向かい側に腰を降ろしたの返事はどこか曖昧で浮かない。 「どうかした?」 「……でも、全部決まっちゃってるのは……一つ以外全部否定するのは、冷たいよ」 「冷たい?」 「あのね、健ちゃん。この化学式なんだけど」 俯いた表情に影が落ちたのは一瞬だけだった。 すぐにシャープペンシルの先が押し出されたノートの一角を指して、そこに視線を向ける。 そこから普通に真面目な勉強会が始まって、ときどきが質問をしてくる以外はお互いのページをめくる音、ペン先が紙の上を走る音、そして窓硝子を叩く雨の音だけだった。 友人よりも教えやすかったのは、は勉強に対する集中力があったことと、基本だけは出来ていたこと、そして何より一学年下の問題だったこともある。中学生の学ぶ内容なら、基礎の復習のようなものだ。 一通りの試験範囲の復習が終わると、は満足したように息をついてノートを閉じた。 「ありがとう健ちゃん。教え方上手いね。先生になるの?」 「教師に?そんなのこと、考えたこともなかったな。きっと教えるのには少し慣れてるせいもあるんじゃないかな。渋谷にもよく教えてるからね」 「……また渋谷さん?仲がいいんだね」 「そう、だね。きっと一番仲のいい親友かな」 親友などという言葉では括れないほどの友人だ。だが、言葉で表すとしたらそう言うしかない。言葉は、その表現範囲が広いようで案外狭い。身体中に溢れるこの感情を的確に表す言葉なんて、ありはしない。 急に椅子を引いた音が聞こえて顔を上げると、が立ち上がっていた。 「晩ご飯作るね」 「え?あ、いいよ。何かとろう。この雨の中で買い物に行くのは面倒だし」 「何もないの?」 「生憎」 は少しがっかりしたように肩を落とした。 「せっかくお礼に手料理ごちそうしようと思ったのに。何か買ってくればよかった。行って来ようかな」 「だからいいよ。は料理が好きなのかい?」 「ううん、嫌い」 わざわざ手料理というからには好きなのかと思っていたのに、意外な答えに目を瞬く。 は空になった湯飲みを二つ持って対面キッチンに移動する。ペタペタと素足がフローリングを歩いた。 「だって作っても誰も食べてくれないもん。自分一人分だけ作るのって、寂しいから」 「ああ、おじさんもおばさんも忙しいんだ。僕は面倒だから結局料理なんて覚えてなくてほとんど出来ないけど、はできるんだね」 「おいしいご飯があったら、パパもママも帰ってくるかなって思ったの。でもだめだった」 一瞬言葉に詰まった。 両親が共働きだという家庭は今時ざらにあるし、自分の家もそうだった。ただ村田自身は親の不在を寂しいと思うよりも、楽だという気持ちの方が強い。だから特に気にしてはいなかったが、は。 「今度作ってよ」 「え?」 「今度、また遊びに来て、その時はの料理を作ってよ。食べてみたいなあ」 「……うん」 ぎこちなく笑って、はまたペタペタと素足の音で歩いて、自分の椅子には戻らず村田の足元の床に直接座る。 「?」 「健ちゃんは優しいね」 「……そう?」 「渋谷さんのおかげかな」 「え……?」 椅子に座る村田の膝にそっと頭を乗せて、は目を閉じる。 「小さい頃の健ちゃんは、ずっと寂しそうだった。でも今は、とても穏やかだね」 「そう……かな?」 両親の不在に寂しさを募らせた思い出はあまりない。どちらかというと、まだ大賢者としての自覚がないときに、ふと思い出される自分のものではない記憶に戸惑い、それに慣れることに必死だったということしか覚えてない。 だけど今、あの友人とも共に在れる充実感を思うと、もしこの表情が生きているというのなら、それは確かに彼のおかげだろう。 膝の上の頭をゆっくりと撫でると、はくすぐったいと呟いて笑う。 そう笑うのに、髪を撫でる手が気持ちいいのかは目を閉じて膝に頬を摺り寄せた。 再会したばかりの従兄にやたらと会いたがるのは、同じような状況の寂しい子供に擦り寄りたかったからか。 スカートの裾から覗く裸足の足が少し寒そうに指先を丸めていて、それを見るのがたまらなくつらかった。 |
これが昼のこと。晩の話は次回に続きます。 |