夕暮れ いつもの感覚ではない目覚めだった。 寝起きは眼鏡を掛けていないから、視界の輪郭がぼやけているのはいつものことだ。 だが寝心地まで違う。見える天井も自分の部屋のものではない。 大体いつの間に眠ったのかも覚えていないなあと寝返りを打って、一瞬心臓が止まるかと思った。 「うっわぁ!?」 悲鳴と共に跳ね起きると、同じ布団の中で隣に眠っていた従妹が眠そうに目を開ける。 「おはよー……健ちゃん」 欠伸をしながら枕元に置いていた携帯電話を手に取った。 「まだ5時だよ……もうちょっと寝ようよ……」 そう言って、そのまま再び目を閉じる。 「いや、いやいや、もうちょっとって、これどういうこと!?」 「だって健ちゃん、昨日すごい早業で寝ちゃってたから……お風呂に長く浸かって疲れが出ちゃったんじゃないの?」 「起こしたらいいじゃないか!」 「眼鏡もかけたままなのに、よく寝てたからー……よっぽど眠いのかなって……」 「じゃあせめてが僕の部屋で寝たらよかっただろ!?」 「勝手にベッド使っていいのかなーって思って……」 勝手に同じ布団に潜り込まれる方が遥かに心臓に悪く、色々と不都合がありすぎる。 「……、ちょっとそこに座りなさい」 いくら従兄妹同士だからといってこれはないと説教しようとしたら、は眠そうな様子で渋々と起き上がって緩く編んでいた髪をかき上げた。 「健ちゃんの朝って早いんだねえ……早朝勉強してるの?起きるならごはん作ってくる……」 説教しようと思ったのに、はどうやら起床時間だと判断したらしい。 ふらふらとリビングへ移動してしまったを見送って、思わず布団に突っ伏した。 「僕だって、休日にこんな時間から起きるもんか」 だがもう眠れそうにもない。眼鏡はが外してくれていたらしく、誤って踏まないように彼女の鞄の上に乗せてあった。 布団の上で転がって色々と煩悶していると、トーストの焼ける食欲をそそる匂いがしてきて、眼鏡を取ると溜息とともにリビングに移動した。 トーストと目玉焼きとトマトサラダ。 面倒なので自分で料理をしない身としては、揃えられた朝食は充分に立派なものだった。 自分で作る朝食の場合、なにもしたくないときはトーストですら焼かないときもある。 「ちゃんとした朝ごはんだ……」 「野菜は朝から摂らないとダメだよー」 がコーヒーを淹れて移動してくる。 「じゃあはいつもこんな風に作ってるんだ」 「ううん。一人分だけは面倒だって、昨日言った通り。あんまり面倒だったら、パンも焼かずにジャムを塗るだけとかもあるよ」 なんて親近感を覚える食生活だろう。 「でも本当に冷蔵庫の中、ほとんど空っぽ。だけどジャムだけはイチゴとピーナッツバターとマーマレードとブルーベリーが揃ってるんだね」 「ああ、僕も母さんも面倒がってパン食が多いから。せめて味に変化をつけようとね」 そう言って目玉焼きに醤油をかけようとしたら、ぱっと容器を取り上げられた。 「味もみずに調味料かけるの身体に良くないよ。そういうの、癖でしょ?」 「う……」 一言もなく、仕方なしに先に箸で切り分けて食べると、塩と胡椒で確かに味は充分だった。 そのまま醤油に手を伸ばさずに食べ進める様子を見て、は向かいで楽しそうに笑う。 それに気付いて村田もトーストにマーマレードを塗りながら微笑んだ。 「の料理、美味しいよ。誰かと一緒の食卓は楽しいしね」 「これ料理ってほどじゃないけどね。でもうん、楽しいね。なんだか新婚さんみたい」 ガシャンと音を立ててマーマレードを塗っていたナイフを取り落とした。 「何やってるのー!?パジャマ汚してない?布巾布巾」 は慌てて席を立ってキッチンの方へ走っていく。 「無自覚って恐ろしい……」 床に落ちたナイフを拾いながら、村田は小さく溜息をついた。 食事を終えると並んで後片付けをして、は早朝勉強を始める。村田はその前で二杯目のコーヒーを飲みながら新聞を読んでいて、慣れないテンポの朝に思わず苦笑を漏らした。 学校のある朝はもっとバタバタと忙しいし、休日の朝は惰眠を貪っている。 そういえば起きてからまだ顔も洗ってないなあと気付いたのは新聞を読み終わってからだ。 今のところから質問もないことだしと、今のうちに身支度を整えようと新聞を畳んで席を立とうとしたところで呼び止められた。 「健ちゃん」 「んー、なにどこか質問?」 寝癖のついたままの髪を掻きながら問題集を覗き込もうとすると、は少し迷った様子で視線を彷徨わせてから首を振った。 「……やっぱりいい」 勉強の質問なら、ここに泊まった理由からも遠慮するはずもない。別の話かと重ねて訊ねてみようかと思ったが、がすぐに問題集に意識を戻してしまって、邪魔することも憚られる。 俯くと軽く編んだ髪が肩から滑り落ちた。 眠っていたときはもっと緩く結んでいたので、起き出した後、編み直してから顔を洗って朝食作りに取り掛かったのだろう。 リビングを出ながら、女の子は化粧で変わるというけれど、髪型と服装だけでも充分に印象が変わると思い知ったと一人内心で唸る。 外で会った時は三回とも制服で、昨日訪ね来た時も制服だった。その時は髪はまっすぐに下ろしたまま。 風呂に入ってラフなシャツと短パンに着替えた後は髪は高く括り上げていて、一晩眠った後は緩く編み直していて。 洗面所に着くと、思わず洗面台に両手をついて溜息をつく。 「何チェック入れてるんだ……」 この時期に外部受験をすると決めたなら、あまり時間はない。には大切な時期だ。 協力者が変なことを言うと彼女の集中を乱すことになる。 こういうとき、どうやって気持ちを切り替えるべきだろうか。 膨大な記憶を辿って今後の対応を考えてみたが、答えは溜息とともに消える。 「……はー……どんなに記憶があっても、所詮他人の記憶だなー……」 肩を竦めて、洗面台を掴んだまま顔を上げると鏡に村田健の顔が映っていた。眼鏡を掛け、もうしっかりと目は覚ましているけれど、まだ顔も洗っていない髪も梳かしていない、寝起きの酷い様子のままの村田健が、ありのままに映っている。 「……所詮他人の記憶だ。だから僕のこの記憶も、たとえいつか誰かが覗き見するとしても、僕だけの記憶なんだ」 生まれ変わるたびに同じようなことを、少なくとも一度は考えていると覚えている。 何度繰り返して結論を出しても、違う人生になればまた新たに結論を出し直さなくてはいけない。結局は、他人なのだ。 現状の解決とは違う話の結論だったが、それでも少し気が軽くなって眼鏡を外すと蛇口を捻って水を出す。 の笑顔が次の生で記憶の一つの埋れてしまおうと、それは次の話で、村田健の話ではない。 この記憶は自分だけのもので、何より感情こそは、誰にも左右されるものではない。 「当面は現状維持だ」 せめての受験が終わるまで、あれこれ考えるのはよそうと決めて流れる水をすくった。 そうと決めるとあとは良き従兄であろうと考えればいいだけで、午後になるまでの勉強に付き合い、昨日とは違い晴れた太陽の下で昼食の買出しに出かけ、再びの手料理を食べて、午後からも休憩を合間に挟みながら再び勉強に入った。 「あんまりいきなり根を詰めても、すぐにギブアップするからね」 から教科書を取り上げたのは五時頃で、そろそろ日が傾き始めていた。 「だって先生がいるうちにいろいろ質問しなきゃと思って」 それでもも肩が凝ったように首を回して筆記用具を片付けた。 「ありがとうございました」 両手を膝に置いて、妙に改まって頭を下げられて、思わず笑ってしまう。 「どういたしまして。来週もおいで」 「うん。甘えさせてもらう」 笑顔で頷いたは、夕暮れに赤く染まった窓の方を見て憂鬱そうにその笑みを消した。 「……帰らなくちゃ」 「駅まで送るよ」 「うん」 荷物を片付けて纏めてしまいに隣の和室に移動するの私服はカットソーとジーパンの動きやすそうな格好だった。 本当に、着ている服と髪型で女の子の印象はくるくると変わる。 「……ああ、だめだだめだ。良き従兄でいると決めたばっかりじゃないか」 首を振って叱咤していると、すぐに従妹が小振りのボストンバックを肩にリビングに戻ってくる。 「お待たせ」 「駅まで鞄を持つよ」 当たり前のように鞄を受け取って、従妹に目を丸められた。 「健ちゃんって……」 鞄を肩に担いで玄関に歩きながら肩越しに振り返る。 「なに?」 「女の子の扱い慣れてそうだね」 転びかけた。 転ばなかった代わりに、壁に頭をぶつけたが。 「わっ、大丈夫?」 「変なこと言うなよー。僕がもてるわけないだろ」 靴を履きながら、まるであの友人のセリフみたいだなと思い出す。 それなりに好意を寄せられているくせにそれに気付かず、いつもモテないと嘆いている友人と同じセリフ……。傍から聞くと馬鹿馬鹿しくなるが、自分で言うとまったくもって本心だなあと今更ながらに深く感じる。 「彼女のいる栄光の日々が欲しいよ」 靴を履いて鞄を担ぐと玄関を開けながら振り返る。 は唇を尖らせて拗ねているようなおかしな顔をしていた。 「どうかした?」 「別に」 制服の革靴がジーパンには合わないと買い物に行った時も漏らしていた不平をまた零して靴を履くと、は軽い足取りで外に出て待っていた従兄の横を小走りで抜ける。 「ああ、ちょっと待って、鍵かけるから」 夕陽が差し込むマンションの赤く染まった廊下を歩きながら、は両手を後ろに回して軽く組んだまま怒ったように呟く。 「絶対に健ちゃんはプレイボーイだよね」 「だから何がどうしてそうなるわけ?」 先にエレベーターまで歩いて下りのボタンを押していたは少しだけ振り返って、また前を見る。 無人のエレベーターが到着して、ドアが開く瞬間に小さく呟いた。 「……再会した従妹に一目惚れって、成立するって言ってたくせに……」 「へ……」 唖然としている間に、目の前のドアが閉まりかける。 慌てて腕を差し込んで、閉まりかけたドアを開けて個室に飛び込むと、壁に背中を預けていたは下から上目遣いで軽く睨みつけてきた。 「昨日のあれ、聞いてたのか!?」 「聞こえたの」 つんとがそっぽを向くと、背後でエレベーターのドアが閉まり赤い日差しが途切れた。 人工の白い電灯の下で、まだ行き先を押していないエレベーターは止まったままだ。 「彼女が欲しいんだー?」 「だっては全然脈がなさそうだったじゃないか!受験するならって思って……」 「嬉しいって言ったじゃない」 は唖然とする従兄の横から手を伸ばして一階のボタンを押す。 「健ちゃんが好きって言ってくれて、嬉しかったのに」 「だっ……あれ、だって従兄妹としての嬉しいじゃなかったの!?朝起きたら布団に潜り込んでるしさっ!そういう意味って判ってたら普通は男の布団に入らないだろ!?」 軽い浮遊感があって、エレベーターが下降を始めた。 「普通は好きでもない男の人の布団にこそ潜り込みません!」 「そっ……無防備すぎるよっ!」 「健ちゃん、先に眠ってたじゃない。危ないことなんてないよ」 「ああもぉーっ!」 セットした髪が乱れることも構わずに手を突っ込んでかき回す。 「大体いつから!?」 「再会した従兄でも、一目惚れって成立するんだよ」 「最初からか……」 肩を落とした従兄に、は再びエレベーターの壁に背中を預けて肩を竦めた。 「そうじゃなかったら、普通従兄に会いにきたりしないよ」 「……ごもっともで」 髪を掻いていた手を降ろすと、言いたい放題の従妹の横の壁に手をつく。 「あのねえ、それなら少しは警戒してもらわないと、僕が困るんだよ」 「警戒って」 が自分よりも少し背の高い従兄を見上げようと顔を上げる。 驚く彼女との距離をゼロにして、彼女の声も息もすべて飲み込んだ。 マンションから駅へと向かう、夕暮れに赤く染まったアスファルトに並んで伸びる影は、あの頃のように手を繋いでいた。 その意味は、まるで違うけれど。 |
突発村田短編にお付き合いくださりありがとうございましたv あと1話あればもうちょっとゆっくり大賢者の罠ぶりを発揮できたのにと 短くまとめ下手なところが露呈した話でした。へなちょこめ〜(^^;) |