ブランコ



学校帰りの夕暮れ時、自宅マンションへの近道にと人通りの少ない公園横の道を通ると、キィキィと錆びかけた金属の鳴る音が聞こえた。
そちらを見たのはほんの気まぐれで、これもまた偶然としか言いようがない。
!」
ブランコに座って太陽が半分沈んだ茜色の空を見上げていたのは、最近会ったばかりの従妹だった。
「あ、健ちゃん」
夕暮れ時になるとこんなに人通りがなくなる公園だというのに、従兄に気付くと制服姿の少女は呑気にブランコに座ったまま手を振る。
「ど、どうしたんだよ、こんなところに」
驚きで取り落としそうになった鞄を肩に掛け直して公園に踏み込むと、はにっこりと笑った。
「健ちゃんに会いに来たの」
「僕に?」
「うん。またねって言ったでしょ?」
「それで会いに来たの?」
「うん」
こくりと頷く仕種がどこか子供っぽい。いや、十五歳の彼女は確かにまだ子供だが。
「この間会ってね、健ちゃんの側って居心地いいなあと思ったの」
何故だか微妙に嬉しくなる。
「だったら家に行けば……この時間じゃ誰もいないか……」
「うん、誰もいなかったから帰ろうと思ったんだけど、帰りにこの公園を通ったら懐かしくなったの」
「それでブランコに?」
「うん」
「僕を待ってたの?」
「ううん」
がはっきりと首を振って、少し落胆した。
「懐かしかったの。それだけ」
「この公園……よく遊んだんだっけ?」
「覚えてないの?」
「あんまりね」
「覚えてないの?野良犬に追いかけられて、一緒にジャングルジムに逃げたのに」
「……そんなことあったっけ?」
おぼろげな記憶の向こうに、確かにそんなこともあったような気がする。四千年もの記憶があるのに今の人生の記憶が曖昧だなんておかしな話で、なんだか痴呆の症状みたいだ。あれは、最近のことから忘れていくものだから。
村田健は痴呆症でなければ健忘症でもない。じっくりと記憶を辿れば大体は思い出せるはずだ。四千年の記憶を辿るように。
目の前にいるこの少女の存在も、次の生では前世の記憶として埋れていくのだろう。
「健ちゃん?」
ブランコに座っていた少女が首を傾げて、はっと意識を戻す。
「どうかした?」
「……いいや、何でもないよ」
村田健になる前の人たちは、こんな気分になったときどうしていただろう。
人間、前世を気にするようになったらおしまいだとは、あの特別な友人にも言って聞かせたが、その記憶を持って生まれてしまった村田健は、前世に思いを馳せることがあっても仕方がない。それは、確かに「あった」ことなのだから。
だけど……。
「そうか」
だから、まだ「ない」ことを考えてても仕方がない。これはだけは、村田健も他の人間も、みな一緒だ。
今をちゃんと生きて行くなら、来世に思いを馳せてもいけないのだ。
「今までも」そんな風に考えてきたはずだった。
「でも、ジャングルジムはなくなっちゃったんだね」
公園を見回していた少女がぽつりと呟く。
「うん?ああ、ジャングルジムか。そうだね……いつ頃だったかな、なくなったのは。
ブランコも確か新しくなってるはずだよ」
「みたいだね」
はキィキィと音を鳴らして座っているブランコを軽く揺すった。
「赤かったよね」
「鉄柱が?」
「うん。それで、この座るところも木だった」
「違うよ。鉄柱は青だったし、座るところは木目調のプラスチックだった」
「そうだっけ?」
「うん」
村田が頷くと、は小さく嬉しそうに笑った。
「健ちゃんの方がずっとよく覚えてるじゃない」
奇妙な感傷が胸をよぎった。
そう、よく覚えている。きっと忘れない。
あるいは、村田健であるうちはなかなか思い出さないかもしれない。
だけど、次の誰かはもっと鮮明に覚えているだろう。
今、目の前にいる彼女の微笑みも。
キィキィと高く小さな音が、低く激しい音に変わった。
が驚いて目を瞬きながら見上げている。
気がつけば、彼女の乗るブランコの鎖を握り締めていた。
鎖を握り締めて、座るを見下ろして。
「―――移動しようか」
「え?」
「うちに、行こうか」
握り締めた鎖が手の中で小さく音を立てている。上から見下ろして、彼女の驚く顔を覗き込んだ。
「すぐに暗くなる」
「じゃあ帰るよ」
が村田よりもずっと低い位置で握っていた鎖を離してゆっくりと立ち上がる。
それに合わせて村田も身体を引いた。
「今からお邪魔したら、遅くなっちゃうからね」
「泊まっていけばいいよ」
「着替えもなにも持ってきてないのに。それに、明日も学校があるもの」
「じゃあ送るよ」
「いいよ、まだ今なら明るいから」
「僕に会いに来たんじゃないの?」
村田が手を差し出すと、は両手で地面に置いていた鞄を持ち上げてにっこりと笑った。
「うん、だから、健ちゃんの顔を見れて、声が聞けてよかった」
どういう意図があるのかは判らない。意図なんてないのかもしれない。
彼女の行動は、よく判らない。
「……やっぱり駅まで送るよ」
「平気なのに」
先に立って歩き出すと、はそれ以上はいらないとは言わずに後からついてきた。
「昔は帰り道、手を繋いで帰ったね」
「僕が手を引いてあげたんだろう?」
「やっぱり健ちゃんはよく覚えてる」
覚えてないよ。いや、はっきりと思い出しているわけじゃないよ。
おぼろげな幼い頃の茜色の公園が、僅かに記憶を掠めるだけだ。
「またおいで」
「うん。本当に行くからね」
前回、社交辞令のような「またね」で訪ねてきたくらいだから、確かに彼女は遊びに来るだろう。
「うん、おいで」
自分から行くとは言わなかった。彼女も「健ちゃんも来てね」とは言わなかった。
あと数分後、駅の改札前で言うだろう言葉を、ここでも口にする。
「待ってるから」
彼女は少しだけ目を瞬いて。
そしてゆっくりと微笑んだ。
夕暮れの公園で、が座っていたブランコがキィキィと高く小さな音を立ててまだ揺れている。
夕陽に照らされた長い影は、あの頃のようにアスファルトの上を並んで揺れていて、だけど手は繋いでいなかった。








またくるよ、またおいで。
確かではない、けれど確かな約束。



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