雨やどり



「今日、降水確率十パーセント以下って言ったのはどこのテレビ局だったかなあ!」
参考書を買いに、種類の充実した本屋まで遠出した日に限ってこれだ。
通学鞄を頭上に掲げて悪態をついた村田は、手近な店の軒先に飛び込んだ。見たところ通り雨のようだから、少しすれば止むだろう。
僅かに濡れた眼鏡を外して水滴を拭いていると、同じように突然の雨に降られて雨やどりに飛び込んできた人影があった。
眼鏡を外しているのでよくは見えなかったが、翻るスカートで女の子だと判る。村田よりは少し背が低いようだ。
眼鏡を拭いていた先客に、少女は少し距離を開けようとしたのに、何かに気付いたように何故かじっとこちらを見上げてくる。右からのプレッシャーが居心地悪く、僅かに左に一歩ずれそうになったところで少女がぽつりと呟いた。
「健ちゃん?」
「え?」
「やっぱり健ちゃんだ。わたし、判らない?」
彼女が自分を指差したのは判った。けど眼鏡を掛けていないと顔の判別まではつかない。
眼鏡を掛け直して相手を見たが、しばらく考える必要があった。
一般的に日本人の大半が持っている黒い瞳。色を抜いているというよりは、色素が薄いのか微妙に茶色がかった黒髪。大きな目と少し低い丸鼻と。特別可愛くはないが、まずまずの十人並みの容姿。雨混じりの風に吹かれて僅かになびいた髪が揺れて、隠れていた右のこめかみに小さな黒子を見つけた。
「……あー………ちゃん?」
まともに顔を合わせたのは六、七年ぶりのことだ。
村田はまだ十六歳で、相手は一つ年下、この歳頃の六、七年と言えばすっかり面変わりしていて当然だろう。むしろ、彼女こそよく気付いたものだ。
「そう、従妹の。気付いてくれないかと思った」
村田が言い当てると、少女はようやくすっきりしたように制服に付いていた僅かな水滴を払い落とし始める。
確かこのグレーのボレロとスカートとベレー帽は、ここから三つ駅の離れたところにある、ミッション系のお嬢様学校の制服だ。大学までエスカレーター式なことでも有名だ。
「いい学校に行ってるんだね」
「健ちゃんこそ、その制服は有名な進学校のじゃない。わたしには絶対行けないよ」
は小さく笑った。
お互いに、どこの学校に通っているかさえ知らなかったわけだ。
幼い頃はよく一緒に遊んでいたのに。
雨は激しくなってきて、軒下にいても地面を跳ねて泥が僅かに靴を汚していく。
「おじさんとおばさんは元気?」
「……うん。たぶん」
「たぶん?」
「健ちゃんのところのおじさんとおばさんは?」
「相変わらず仕事人間だよ。元気でなくちゃやってられないだろうね」
久しぶりに会った異性の従兄妹との共通の話題と言えばこの辺りが関の山だ。どこの学校に行っているのか、お互いの親は元気か。それから……。
何か話題はないかと雨のせいで人通りの少ない道を見渡した村田より、従妹の方が話題を見つけた。
「進学校って勉強、難しい?」
村田が小脇に抱えていた本屋の袋を見ている。薄い紙は中身が参考書だということを隠せていない。やましい本ではないから、別に構わないけど。
「まあまあね。可もなく不可もなくって感じだよ。これは予備校で勧められた本」
「ふーん……」
「そう言うちゃんは勉強、ついていけてるのかな?」
「まあまあね」
口調を真似て返されて、今度は村田が小さく笑った。
「部活は何かやってる?」
「ううん。健ちゃんは?」
「部活はやってない。けど、友達が主催してる草野球チームのマネージャーなら、ときどきやってるよ」
「草野球?それも選手じゃなくて、マネージャーなの?」
「僕はそもそもサッカーの方が好きなんだよ。渋谷の強引さに負けるだけ」
別に野球も嫌いなわけじゃないけどね、と付け足しながら久しぶりに会っただけの従妹に渋谷の話までするなんてと少し驚いた。村田健にとって、渋谷有利は特別な人間だ。
いや、特別な魔族だという方が正しいのかもしれないが。
「お友達、渋谷くんって言うんだ?」
「そう、渋谷有利原宿不利」
「原宿?」
「渋谷が有利なら原宿は不利なのかっていうあだ名」
「ユーリって『有利』の字?」
「そう。彼のママさん曰くは、渋谷有利恵比寿便利らしい」
は今度は声を立てて笑った。
こんな風に笑う子だったかな、昔はどうだったかな、と考えたがはっきりとは思い出せない。
小さい頃、お互いの両親が共働きだったこともあって、子供同士を一緒にしておけば少しは心配がないと思ったらしい親たちの思惑でよく一緒に置いておかれた。
そんな事情は覚えているのに。
村田自身、身長はだいたい平均値でそう高いわけではなかったが、はその村田の肩程度の身長しかない。今時の若者事情で考えればおそらく同年代でも小柄な方だろう。
そういえば、確か昔から小さかったような気がする。
儚げな雰囲気というわけでもないのに、どこか守ってあげたくなるのはそのせいだろうか?
……守ってあげたくなる?
深く考えたわけでもなく、ふと浮かんだ感覚を言葉に直して驚いた。
子供の頃の名残だろうか。この年頃はたった一つの歳の違いでも大きな差だ。六、七年前ともなれば、もっと大きな差に思えただろう。
「健ちゃんは」
「それ」
「え……?」
「健ちゃんって言うの。ちゃん付けはやめてもらえないかなあ?僕ももう十六歳の高校生なんだけどね」
「だって健ちゃんだって、ちゃんって呼んでるじゃない」
ちゃんは女の子だからいいんだよ。なんならって呼ぶし」
「うん。健ちゃんの好きに呼んで。でも健ちゃんは健ちゃんだよ」
「どうして」
不服そうな村田に、は小さく笑った。よく笑う子だ。
「健ちゃんは健ちゃんだから」
「理由になってない」
「あ、雨上がった」
いつの間に、と視線を道路に戻すと確かに電信柱から名残の滴が落ちているだけで、新たな水滴は降ってはいない。話に夢中になっていたのだろうか。他愛もない話しかしていなかったのに。
は片手に鞄を、片手でベレー帽を押さえて、軽く一歩軒下から飛び出す。
「もう降らないかな?」
「たぶん、通り雨だろう」
「うん。じゃあまたね」
「え」
「え?」
つい声を上げてしまって、が軽く首を傾げる。
「あ、いや。別に」
お互いに偶然同じ店の軒下で雨やどりしただけで、特に約束して会ったわけでない。
数年ぶりに会った従妹とは、雨が上がればそれじゃあと別れて何もおかしなことはない。
小首を傾げていたは気付いたように手を打った。
「うちに寄って行く?すぐ近くだよ」
「そうだったっけ?」
この町は村田の住むマンションから、の学校とは反対に駅三つ分しか離れていない。
今なら自転車でも充分に行き来できる距離だ。こんなに近くに住んでいる親戚と、なのにどうしてこんなに疎遠になっていたのだろうか。
「やめとくよ。急に遊びにいったらおばさんも迷惑だろうし」
「ママは仕事。パパも仕事。誰もいないから平気」
「ああ……そうか、のうちもまだ共働きなんだ」
「ママは仕事をやめられないよ」
奇妙な言い回しに聞こえたが、が首を傾げて返事を待っていたので首を振って断る。
「やっぱりやめとく。また今度」
「そう?うん、じゃあまた今度ね」
はバイバイと手を振って、濡れた道路を蹴って走り出した。
走るその後ろ姿は、どうやら彼女が運動を苦手としていることがよく判る、アンバランスで危なっかしいものだった。
「そうだった、そうだった。は運動苦手なんだった」
ふと浮かび上がった昔の記憶に、村田は小さく笑う。
昔はよく一緒に遊んだ。
いつの間にか疎遠になっていた。
異性の従妹だ。そんなものだろうと、それは特に不思議でもない。
それにしても、こんなに近くに住んでいるのに正月などの節目ですら会わないのだから、今日の偶然がなければ再会は一体いつ頃になっていただろう。
「またね、
今度会うのは、いつになるだろうか。








異性だと兄妹でも段々疎遠になったりします。従妹なら尚更かと。


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