は昔から社交の場を苦手としていた。
特に内気というわけでもなく、儀礼に則った作法はすべて習得していたが、嫌っていたのはその空気のようなものだ。
シュピッツヴェーグとビーレフェルトの血を引く、それも魔王の娘ということで縁談やそれを匂わせるような紹介を多く受けることに辟易した様子を見せていた。
あの母上の娘として生まれたというのに恋色沙汰は今に至るまで一度も聞いたことがない。
あの母上の娘だからこそ、とも言えるかもしれないが。
対照的に、兄妹で最もそういったことに縁があったのはコンラートだろう。
この数年で見せるようなった穏やかなものではなかったが、出自に後ろ指を差され不当な扱いを受けているとは思えない自信に満ち溢れた男の様子は、恐らく多くの異性には魅力的に映ったに違いない。
だが問題は、そのどれもがあまり長続きしなかったことだ。
ある日、そんなところまで母上に似ずとも良いと兄として苦言を呈したときコンラートは苦く笑って首を振った。
「母上とは違うさ。情けないことに俺は愛想を尽かされる側なんだ」
どう考えても信じがたいことを口にする弟に、歳をとって落ち着くのを待つしかあるまいと呆れたことを覚えている。


沈黙の花(5)


戦場に駆けつけた有利は最初、魔術の使い方が判らないとのことで何の役にも立たないと思われたが、結果的に村に掛けられた炎の法術を水で鎮圧する圧倒的な力を見せた。
その際に争いの悲惨な情景を目にして、戦争のない国を目指すと力強い即位宣言もした。
その話を王都に戻ったコンラートから聞いたギュンターは大喜びで、当の本人が魔術を使った反動で眠っている間にも、即位式の準備を始めている。
「……それで、母上は禅譲に当たってやるべきことがあるはずですが。何故旅行の準備など整えておられるのか」
あと数日で正式な退位を果たし、上王の地位に就く母の居室を弟と訪ねたグウェンダルは
頭痛を覚えて額を押さえた
「ああコンラート、ようやく来てくれたのね。それでグウェンダルはどうしたの?」
「ですから!来週の即位式は母上には禅譲の儀に当たるのです!打ち合わせに母上が現れないと王佐が嘆いておりましたが」
「あらだって禅譲の儀といっても大したことはしないんですもの。式の主役はユーリ陛下なんだからいいじゃないの。それより自由恋愛旅行の準備のほうが大切よ」
「母上!」
こめかみに青筋を浮かべる兄を気の毒そうに見て、コンラートは母に向き直った。
「それで、俺はどうして呼ばれたんですか?」
「そのユーリ陛下の即位式の日に着る衣装はどれがいいか、意見を聞きたかったの。どう、グウェンダル。これでもちゃんと公務のことは考えているのよ」
麗しく微笑む母に、「これでも」という言葉を使わなくてもいい態度を取ってくれと叫びたくなる。
「それではギュンターには衣装を決めているため、打ち合わせは後日と伝えておきましょう」
「待って、せっかくだからグウェンダルの意見も聞かせてくれないかしら」
「私はそのような見立てには不向きです。コンラートに一任します」
母の衣装選びに掛かる時間を知っているグウェンダルが逃げの一手を打つと、弟は一人で逃げるなという視線を寄越したが見ないふりをする。だが母の逆襲は聞き流せなかった。
「やぁね、そんなことだからアニシナとの仲が進展しないのよ」
「恐ろしいことを言わないでいただきたい!」
「少しはコンラートのように浮名を流してごらんなさい」
「母上……」
二人の息子を沈ませて、満足そうに笑った母は再び聞こえたノックにぱっと表情を輝かせて入室を促した。
「失礼します、お母様」
入ってきた妹に、二人の兄は救いを得たようにほっと息をつく。
がいるのなら、俺たちの意見よりずっと参考になるじゃないですか」
衣装や装飾品について盛り上がるのは女性同士が一番だろうと、コンラートはまだ状況を飲み込めていないを自分たちの前に押し出した。
「違うわよ、コンラート。には別の話があったの。でもそうね、ついでに衣装の意見も聞きたいわ」
「衣装?」
首を傾げたは、部屋中に広がった母親の挑発的な衣装の数々を見回す。
「ユーリ陛下の即位式で着る衣装ですか?」
「ええ、そう。それと自由恋愛旅行に行く準備をしているところなのよ。それでね、あなたも旅行の準備をしてちょうだい?」
「え………?」
は驚いたように息を止め、二人の兄もぎょっと目を見開いて母親に注目する。
「母上!一体何を考えておいでなのです!?」
「だって、はこんなに可愛いのにちっともいい人の話を聞かないんですもの。ここは母として、恋の極意を教えてあげなくちゃと使命に燃えることにしたのよ」
「燃えないでいただきたい」
退位したらしたで、また騒動を起こすつもりかと母に頭痛を覚えて額を押さえたグウェンダルは、お前も何か言えと横に立つ弟を見て眉を寄せる。
「どうしたコンラート、顔色が土のようだ」
「え、あ……いや……なんでもない」
まるで吐き気を催したように手で口を覆い、弱く首を振ったコンラートにが身を翻す。
「大変!何でもないなんて顔色じゃありません。お兄様、お部屋で少し休みましょう。それではお母様、失礼します」
「待って
弟の隣にいたグウェンダルは、付き添いを謝絶しようとするコンラートに、ここから逃げ出す協力をしてほしいと囁く妹の声が聞こえた。
母のように恋愛巧者ならともかく、それこそ浮いた話のひとつも聞いたことのない妹には自由恋愛旅行に魅力がなくても当然だ。
背中に添えられた妹の手を払おうとするコンラートに、グウェンダルは連れて行ってやれと目で合図をして母の気を引くために進み出る。
「旅行のことは後日。まず式の衣装をお選びください」
「でもグウェンダル」
コンラートとを背中に隠すように斜め前へ踏み出した息子に、ツェリは不満気に表情を曇らせた。
その間に、半ば強引にに手を引かれたコンラートが退出してしまい、母は諦めたような溜息をつく。
「グウェンダル。あたくしは別にを困らせようなんて思っているわけじゃないのよ」
「判っています。母上なりの気遣いなのは。ですがに母上と同じ感覚の旅行は不可能でしょう。あれは初恋すら怪しいというのに」
「やぁね、グウェンダルは本当に鈍いんだから」
「は?」
不満から悩ましげな表情への変化は、見ているものが息子でなければすぐさまに跪いてその手を取りそうな風情だったが、生憎グウェンダルは息子なので純粋に母の悩みに眉間にしわを増やすだけだった。
「あの子はもうずっと、恋をしているわ。いいえ、あの子たちは……というべきかしら」
意味の判らない息子の前で、椅子に座り見事な脚線美を見せるように長い足を組んで、今でも恋愛に血道を上げる母は、女の表情で溜息をつく。
「すべてを捨てるだけの覚悟があるのなら、きっとあたくしは止めることはできないでしょう。
……けれど、それはできないのね。あの子が臆病すぎるから」
「母上?」
「あたくしは可愛い子供達が幸せなら、それがどんな形でも受け入れるわ。あなたたちには幸せでいてほしいのよ」
母は寂しげに、だが艶然と微笑んだ。
「知っていて、グウェンダル?愛に生きる女は強いのよ。……でも愛に生きるには、男は臆病すぎるわね」


、ここでいいよ」
母の部屋から出るとすぐに、コンラートは強く引いて行こうとする妹の手をやんわりと包んで止めた。
「でもお兄様、顔色が」
「大丈夫、子供じゃないんだから調子が悪くても一人で部屋に戻るくらいはできるさ。それに部屋に帰るまでもなく、廊下を歩いて風に当たればすぐに気分も良くなる」
妹の手を解いて歩き出すと、は納得がいかないと諦めずについてくる。
「ほら、そんなこと言って!お兄様を一人にすると休むおつもりがないでしょう!本当に顔色が悪いのですから、医者として休養を要求します」
「大丈夫、本当に一瞬気分が悪くなっただけだから」
コンラートが歩く速度を上げると、は三歩ほど置いて行かれて、慌てたように小走りで横に並んでくる。
彼女と歩いている時は、常にその速度に合わせているから驚いたようだが、それはつまり今はから逃げたいのだという意思の表れだと判ってしまっただろう。
「お兄様!」
怒って叱り付けても、妹の可愛い顔では恐くない。
そう笑えるはずだった。
だがはコンラートの足を止めるために、その腕を後ろに引くように両手で抱き締めた。
彼女が掴んだ肘から下、柔らかな身体に包まれた右腕に痺れが走ったような錯覚を起こす。
思わずその手を振り払い、は小さな悲鳴を上げて壁までよろめいた。
!」
咄嗟のことで手加減もせずに振り払ってしまった。
青褪めて妹が壁に激突しなかったかと手を伸ばして。
「お兄様……」
顔を上げたの涙を湛えた瞳に、頬に触れる寸前で手が止まる。
「わたしはお兄様が心配なんです。お兄様は自分のことには、いつも無頓着なんですもの。なのにどうして心配すらさせてくれないの?」
壁に背中と震える拳を押し付け、コンラートを見上げる青い瞳には隠しきれない愛情が溢れている。
それは、決して兄に向けるものではなく。
頬に触れようとしていた手を引き、コンラートはの視線から逃げるように顔を背けた。
「……母上の旅行に同行しておいで」
目の端に、妹が震えた様子が少しだけ映った。きっとあの大きな瞳を驚愕でいっぱいに見開いているだろう。
この想いは一度も口にしたことはない。
コンラートも、も。
だが彼女は兄の心がどこにあるかを知っているはずだ。
だからこそ、コンラートの言葉を信じられないに違いない。
「行っておいで。世界は広い。今まで見えなかった道が広がるかもしれない」
から返事はない。
震える妹が視界に辛うじて入っているのに、それを慰めることなく踵を返す。
振り返っていつの間にか大きくなっていた、あの小さかった妹を抱き締めたい衝動を堪えるために、早くここから立ち去りたい。
その一心で、一歩ごとに冷たい氷の針を踏みしめるような痛みに目を閉じて拳を握り締めるコンラートを呼び止める声が後ろから聞こえた。
「お兄様!」
足は止めない。
「……お兄様!わたしは……わたしはお母様とは行きません。わたしは血盟城に仕える身です!ユーリ陛下に忠誠を誓う者!陛下に解任されない限り、決してここから離れません!」
毅然とした声は震えてはいない。振り返っても、きっと彼女は泣いていないだろう。
それでも振り返ることはできなかった。








とことん苦労性の長男と、この中で唯一恋愛ごとに鋭い母。
愛の狩人と母としての合間で、ツェリ様の結論はこう出ています。
そして次男はヘタレ街道まっしぐら……。


BACK 短編TOP NEXT