「お兄様……行かないで……どうか行かないで下さい」 他に誰もいないふたりきりの部屋。 俯いて両手で顔を覆いそう願い続ける妹の涙にくれる声に、苦く笑うことしかできない。 ずっと笑っていて欲しかった。それなのに守りたかった妹を泣かせるのはいつも俺だ。 「大丈夫だよ。必ず帰ってくるから」 「だって!」 弾かれたように俺を振り仰いだはやっぱり泣いていて、その頬に流れる涙を指先で拭ってやりながら笑みを崩さないように気をつける。 「大丈夫、必ず帰ってくる」 は戦慄く唇を噛み締め、俺の服を握り締め踵を浮かせて縋るように詰め寄ってくる。 「だったらわたしも共に行きます!」 「」 「わたしも共に!決してお兄様を死なせはしませんっ」 「……」 俺の服を掴んで震える指をゆっくりと引き剥がして、その手を握り締める。 「だめだよ。お前はまだ幼い。最前線になんて連れて行ったら、グウェンダルがグランツ地方から帰ってきたときに俺が叱られる」 「わたしはもう立派な軍人です!」 「そう、だからこそ勝手に所属部隊を離れて良いわけがないことも判るな?」 「でも……っ」 俺をまっすぐに見上げる、涙の浮かんだ青い瞳が愛しい。 俺は家族を愛している。友人を、同朋を掛け替えのないものだとも思っている。 「俺は……が穏やかに暮せる国を失いたくない」 だが本当に、何よりも失いたくないものは、この綺麗な命だ。 「必ず帰る。約束だ」 握り締めた細い手に唇を寄せて、その指先に約束の口付けを送った。 沈黙の花(6) 即位式の最中に、当の即位する王が消えたという前代未聞の大事件による余波は、主に王佐の身にだけ残っていた。やっと逢えた双黒の魔王に心酔しているギュンターは、王が異界へ戻ったとの巫女からの連絡に泣いて転げ回って暴れていた。 遠くの部屋から聞こえてくる嘆きの悲鳴に、温かい湯気を立てるカップを受け取りながらコンラートは溜息をつく。 「ギュンターはいつまでああしているつもりなのか」 兄に飲み物を渡し、自分の分もテーブルに置いては苦笑しながら向かい側に座った。 「もしかしたら、ユーリ陛下がお帰りになられるまでかもしれませんね」 「そんなことになったらグウェンが過労死だ」 王佐があの調子なので、グウェンダルは未だにヴォルテール城へ戻ることができずに執務室に篭ってる。コンラートもも手伝えることには手を貸しているものの、血盟城内での役職についているために、権限を越えることには手が出せない。 「でしたらグウェンお兄様の休息をしっかり確保させることが、わたしの最重要任務かしら」 強迫観念的に仕事を片付けようとするグウェンダルが相手となると冗談では済まない話だ。 肩を竦める妹に、コンラートは僅かに目を細めた。 「……母上には、本当について行かない気か?」 は結局、明日には自由恋愛旅行へ出発するという母に求められた同行を拒否した。職務があるからというのがその理由であったが、それが真実でないことはコンラートには判っている。 は答えずにカップを傾けて喉を潤す。 「いつまでもこうしているわけにはいかないと、判っているだろう」 ゆっくりとカップを下ろし、は澄んだ青い目を兄に向けた。 「わたしはこのままでもいいと思っています」 「」 「お兄様が他のどなたかと結婚されようと、わたしの気持ちは変わりません」 「」 「今までだって、お兄様が他の方の元へ行くところをずっと見送っていましたもの」 「!」 声を荒げて止めると、は口を閉ざした。その表情に責めるような色はない。 兄妹で、兄が恋人を作ったからといって責めるのはおかしい。ふたりの間に確かにあるものは、その関係しかない。だからは責めない。 だがコンラートが恋人を作った最初の頃、は酷く傷付いた。 仲の良い兄が自分への恋心を忘れるために、違う女性の元へ通ったなどとは想像もしなかったに違いない。単に兄を盗られたように思えたのだろうとコンラートは解釈していた。 その後コンラートはすぐに恋人に愛想を尽かされ、だがまた新たな恋人を得た。 グウェンダルは信じてくれなかったが、大抵はコンラートが交際相手に愛想を尽かされたというのは事実だ。 あなたは私を見ていない、優しすぎて本当の心が見えない……私に別の女性を見ている。 コンラートに別れを告げるときの彼女たちの言葉や表現は様々だったが、すべて同じことを指していた。 利用したことを申し訳ないとも思ったし、それでも彼女達にそれぞれ美点を見出していたことは事実だったのに。 どうしても、特別な存在として愛することはできなかった。 妹しか愛せない。妹を汚れた目で見てしまう。 そう嘆き俯いたコンラートの頭を撫でて慰めてくれたのは、目が見えないからこそ目で見えないことに敏感なのだと、唯一コンラートの想いに気付いた盲目の友人だった。 「可哀想な人」 「……それは俺が?それとも、こんな兄を持った妹が?俺はを手放さなくてはと口では言っているのに、他の男を近付けさせないようにしている。他の誰にも取られないようにと……それなのに自分はあの子から離れようともがいている」 俯いたまま自虐的に笑うコンラートに、呆れたような溜息が降ってくる。 「の選択を、すべて自分のせいにするのは傲慢よ。でもそうね、あの子はとても可哀想な子。そしてあなたも可哀想な人」 「そうだな……」 「勘違いしないで。私はあなたたちの想いが可哀想だとは言っていない。誰かを愛するとは素晴らしいことよ。その素晴らしいことを、嘆くことしかできないあなたは可哀想」 家族の愛情から、異性の劣情へ。 妹に対する想いの変化を自覚したときから、この想いが素晴らしいなど思ったこともない。 ゆっくりとコンラートが顔を上げると、それに気付いた友人は頭を撫でていた手を引いた。 「そして、愛する人から愛されているのに、それを後悔しかされないあの子が可哀想」 「…………が?」 驚いて問い返すコンラートに、友人は見えない目を驚いたように瞬いて、そして呆れたように苦笑した。 「気付いていなかったの?それとも気付いていないことにしたかったの?想いが通じ合っているなら、自分を押しとめる自信がなかった?」 曇りのない愛情を向け、いつも迷うことなくまっすぐに伸ばされる手。それは家族に対するものだと思っていた。それとも、そう思いたかったのか。 すべてを壊さないために。 「あなたは臆病ね。あの子のためにすべてを我慢して耐えようと、そう自分を騙している。 本当は、自分が失いたくないだけなのに」 見上げたその瞳は、何も映していないはずなのに、まっすぐにコンラートを見下ろしている。 「自分の弱さから目を逸らして、本当の我慢はすべてあの子に押し付けているのね。なんて可哀想な子。そして、可哀想な人」 その弱さを責めるように。 「あなたは失いたくないだけよ。すべてを」 そうしてすべてを失おうとしているのだ、と。 「わたしも共に行きます」 過去にそう言った大戦のときは、涙にくれた子供の我侭としてコンラートに縋りついた。 この間の国境の村へは、毅然とした軍人としての態度ですでに決意していたことを告げた。 妹はこんなにも成長しているのに、コンラートはこんなにも変わっていない。 失うことを恐れ、失う前に自分で捨てようとしている。 「、俺は」 「どうしてもわたしに他の男性の下へ行けと仰るなら、その相手はお兄様が選んでください」 息が詰まった。 まっすぐにコンラートを見据えるの目には、それでも批難の色はない。 「わたしには決して、どなたも選ぶことはできないでしょう。誰に選ばれても応えることもできません。ですがお兄様が選んだ方なら、愛せるように努力をします。きっとその方は素晴らしい方でしょうから」 ただ穏やかに兄を、愛する男を見て、ゆっくりと微笑んだ。 「だってお兄様は、とても家族想いですもの。きっと良き方を選んでくださるわ……お兄様が待ち続けたユーリ陛下が素晴らしい方であるように」 家族という絆を失いたくない。 そのために、己が歩んだ焦燥の道をにも押し付けろと? コンラートが何度も味わった、自分を愛してくれる人を決して愛せず、その心はたった一人のものだと確認し続けるだけの、他人を巻き込んだ酷い苦悩。 とコンラートは違う。コンラートはあくまでも他の好ましく思えた女性との交際を経て、決して消えない劣情を確認した。 だがはまだコンラート以外に目を向けたことはない。他の男に目を向けてみれば、すんなりと愛せるようになるかもしれない。 「では、グウェンダルとも相談してみよう」 そう紡ぐはずの言葉が出なかった。ただ口を開いて、そして空気を吐くだけで閉じる。 「あなたは臆病ね。あの子のためにすべてを我慢して耐えようと、そう自分を騙している。 本当は、自分が失いたくないだけなのに」 かつてあの容赦のない、だからこそ誰よりも優しかった友人の弾劾を、ようやく本当の意味で自覚した。 は、きっと愛せない。 コンラートが選んだ男だからと愛そうとして、だけど愛せないことに絶望するだろう。 そうしても確認するのだ。 自分には兄しかいないことを。 に確認させたかった。 そしてコンラートも確信したかった。 を、妹としても、女性としても、決して失うことがないのだと。 彼女のすべてが欲しかった。 そうしてすべてを失おうとしている。 女性としては形だけでも他の男の元に嫁がせ心を傷つけて、妹としては兄しか愛せないのだと絶望させる。 なんという浅ましさ。 コンラートは両手で顔を覆い、ゆっくりと息を吐き出す。見ていられなかったものは何だろう。 可哀想な妹なのか、あの責める瞳に映っていた醜い自分なのか。 「……君の言う通りだ」 かつて自分を慰めながら批難した友人に、自嘲を込めて呟く。 は、そんなコンラートの狡さに気付いている。だから微笑むのだ。 妹としてコンラートの言葉に従い他の男の元へ行き、女性としてその男を愛さないことで、妹も、愛する女も、すべてコンラートに差し出す。 この優しい妹が、誰かを巻き込み傷つけて、その事実に苦しむことすら厭わないのだ、と。 すべてを妹に押し付けて逃げようとする、狡い兄をそれでも愛しているのだ。 コンラートはゆっくりと顔を覆っていた両手を降ろす。俯いた目には、すっかり冷めたカップの中の紅い液体が映った。 「可哀想な」 呟いたその声に、彼女がどんな表情をしたのかは見えない。 本当に可哀想だ。こんな兄を持って。 こんな男に囚われて。 だがかつてあの友人が言ったように、の選択まで自分のせいにするのは傲慢なのだろう。 冷めた紅い飲み物から視線を上げると、澄んだ青い目がコンラートを見ている。 コンラートだけを。 もし彼女のためにコンラートにできることがあるとすれば、それは彼女の前から消えること。 「」 コンラートは席を立ち、ゆっくりとテーブルを回って戸惑う妹の傍らに立つ。 困惑に揺れる青い瞳を見下ろしながら、腰を屈めて膝に揃えられていた手を取ると、細い華奢な指に口付けを贈る。 ただそれだけ。 何か決定的な言葉を贈ることもない兄に、だが彼女はすべてを察したのだろう。 幸せそうに、花が綻ぶように微笑んだその頬に、一筋だけ涙が伝った。 彼女は兄を、この狡い男を愛している。決してそこから目を逸らさない。 だとしたらコンラートにできることは、彼女の前から消えるか……あるいは、共に堕ちるか。 ただ、それだけ。 |
とことんダメな男と、そんな男に自分を全部丸ごとあげちゃう妹の話でした。 この話は自作タロットお題の「吊られた男」を当てております。 このタロットの寓意は犠牲、不安定、無進歩、外部要因。 正位置が相手に尽くす、試練のとき、目先の利益は求めない、忍耐 逆位置が結ばれない恋、努力しても報われない、罰をうける、自分勝手 |