祈りを捧げてヨザックが帰ってくるというのなら、いくらでも捧げる。眠る間も惜しんで祈り続ける。眞王陛下や、その他のどんな超常的な存在にでも。 グウェンダルから解放されて、家に戻ったはヨザックからの贈り物をすべて確認し直した。それでも、何も出てこない。 やはり、気になるのは最後の手紙だ。 「……このお守りが何だって言うの……?」 指先で摘む位の小さな黒い石と、赤いなんの変哲もない小さな袋。他国の地方のお守りというそれは、どう見てもただの大量生産品でしかない。 手紙を何度も読み返し、お守りを含めてすべての土産を何度も確認し続けたが、グウェンダルから二度目の呼び出しを受けることはなかった。 その前に、いつの間に国外に行ったのかも知られていなかった魔王陛下が、異国の地より国境を越え国内に帰還したという話で国中が湧いたからだ。 長年の宿敵ともいえる、小シマロンとの国交を開くという手土産と共に。 その傍らには、国を裏切ったという噂だったウェラー卿を従えて。 最後の日(5) 血盟城からは、ウェラー卿コンラートは眞王陛下の命を受けて離反した振りをして大シマロンに潜入していたという説明が正式に発表された。 一部の者を除いては、それで納得し、安堵した。 もその一人だ。コンラッドはやはり国を裏切ってなどいなかった。そして魔王陛下の元へ戻ってくることも許された。それはよかった。本当によかった。 「……ヨザックは?」 魔王陛下が小シマロンから少数の護衛を連れて、二千年前に鎖国したきりの聖砂国まで渡って、あちらの皇帝と会談したのだという話は、国を大いに驚かせた。 その話では、「少数の護衛」にヨザックが含まれているに違いないと確信している。 今までヨザックがどんな危険な任務をこなしてきたのか、それはまるで判らないけれど、だが魔王を守りながら何十日もの航海、それも未開の海路を敵国の船で越えるなんて、とてもではないが通常の者には勤まらない。 それこそ、普段から敏腕と自称し、それを周囲も認めているような男くらいでなければ。 魔王と、国の高官である幼馴染みの動向は、規制である程度の修正を受けているだろう情報でも、とにかく知ることはできる。 だが、一介の諜報員の安否なんて、噂だって流れるはずはないのだ。 「ヨザは、ヨザックはどうなったの?」 無事だ、無事に決まっている。だってヨザックは、どんなときでも帰ってきた。の幸せを見届けると約束していた。 魔王陛下は昨日、ようやく長旅を終えて血盟城へ帰還した。だがヨザックはの元にやって来ない。 少数で勤めた護衛の一員だったのなら、事後処理があるのだろうと丸一日はじっと待った。 それでも音沙汰もない。 血盟城に勤める友人を訪ねてみたが、こんなときに限って忙しいようで捕まえることができなかった。いや、こんなときだからこそだ。 魔王陛下が帰還した。長旅から、大きな成果を持って。 だが小シマロンは長年の宿敵だ。そう簡単に何もかもの調整が進むわけがない。一部からは批判の声だって、確かに上がっている。 コンラッドが来ることは最初から期待していない。彼は魔王の側近だから忙しいし、情勢が落ち着くまでは絶対に主の傍を離れないだろうことが判っているからだ。 だからヨザック本人を、あるいは友人を捕まえようと思ったのに。 家に篭って、ジリジリと過ぎていくだけの時間。 祈るように両手を組んで赤い袋のお守りを握り締めていたは、日暮れ頃に聞こえた玄関戸を叩く音に、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。 ヨザックだ、やっぱり無事だったんだ。 他の友人が訪ねてきたなんて、少しも考えてもみなかった。ヨザックに違いないと、お帰りなさいとそう言うつもりで、走れない足ももどかしく、ようやく扉に飛びつく。 「ヨザ……っ」 だが戸を開けた先に立っていたのは、ローブを纏いフードを目深に被った人物だった。顔が見えなくても、声一つ出していなくても、それが誰かはすぐに判る。 「コンラッ……」 「しー、静かに」 コンラッドは周囲を伺いながら、人差し指を立てて声を落とすようにと指示をする。フードを少しずらして見せたその表情は厳しく、頭部に怪我を負っているのか額を覆うように包帯を巻いていた。 「……ヨザは?ヨザックは一緒だったんでしょう!?」 「静かに。血盟城に行く。急いで支度を」 「血盟城……に?」 どうして? 忙しくて絶対に来れないだろうと思っていた幼馴染みが訪ねて来て、どうして彼よりはまだ時間を作れそうなヨザックが来ないのか。どうしてが血盟城に連れて行かれるというのか。 「さあ早く」 差し出されたコンラッドの左手には、指先まで覆うように包帯が巻かれている。酷い怪我を負っているのか。 嫌なことを思い出す。 戦場へ向かった兄。帰ってこなかった人。 ヨザックは酷い怪我を負ってまだ全身が傷だらけの状態なのに、その死を報せに、つらいことに違いないのに、そんな身体でも来てくれた。 ……いやな、ことを思い出す。 違う。違う、違う、ヨザックは違う。兄の時とは違う。 フードを目深に被り直したコンラッドと一緒に家を出て、すぐ傍に繋いであった馬に同乗する。 違うと思うのに、その背中にもう一度訊ねることができない。 ヨザックは、無事なの? 肯定で返って来る筈だ。きっとヨザックはコンラッドより酷い怪我を負っていて、動けないからコンラッドが迎えに来てくれたに違いない。 でも、どうして? はヨザックにとって、ただの幼馴染みにすぎない。兄代わり、妹代わりと言っても、法的に見ればそんな仲でしかない。 忙しいコンラッドがわざわざ怪我を負っているのにその足でやってきた。 「自らにもしものことあらば、お前に預けているものを回収してほしいと」 先日のフォンヴォルテール卿の言葉が繰り返し流れて、は頭を抱えて首を振ることしかできなかった。 結局血盟城に到着するまで、怖くて何も言うことができなかった。 コンラッドについて血盟城の廊下を歩きながら、それが以前グウェンダルの元へ案内された道とは違うことに気づいていた。 この道は、馴染んでいるというほどではないが知っている。これは兵舎などの一般兵の使用する区画へ向かう道だからだ。 コンラッドは兵舎に向かう道の前で角を曲がる。この先は、医務室などの施設が並ぶ。 心臓が嫌な音を立てて、胸が締め付けられるように痛む。 「コンラッド」 とうとう耐え切れずに声を掛けた。 結果を聞くのが怖い。だけど、黙っているのはもう耐えられない。 「……なんだ?」 フードを後ろに下ろして茶色の髪を揺らしながら、でもコンラッドは振り返らない。その声は少し硬く、はそれだけで泣きたくなった。 「ヨザ、は………?」 「……だから、今そこへ案内している」 やっぱりそうだ。グウェンダルの元へではなく、ヨザックの元へ連れて行こうとしている。 それは、せめて国の用事に先駆けてという幼馴染みの配慮なのか。 涙が滲んで、右手にヨザックに渡されたお守りを強く握り締める。 コンラッドは振り返らないまま、溜息をついた。 「絶対安静だから動くなと言っているのに、のところに行くと言って聞かないから手を焼いている。まったく、あいつは」 「………え?」 は涙の滲んだ目で、背の高い幼馴染みの後頭部を見上げた。 「今朝とうとう、無理に出て行こうとするヨザックにギーゼラが怒りを爆発させて殴り倒してしまって大変だったんだ。説教してやってくれ」 ちょうど到着した医務室の扉をコンラッドが開けると同時に、件の軍曹の怒声が響いた。 「いい加減にせんか!今貴様が無理をして王都の街路で野垂れて悲しむのは誰だ!?どうにかのところへ辿り着いても、そこで倒れて彼女を泣かせるだけだと何故判らん!」 「だから顔を見せてくるだけだって言ってるだろう!?すぐ戻るって……っ」 「この、馬鹿者がーっ!」 痛そうな音が医務室に響き渡った。 「あーあ、絶対安静の重傷人を……」 聞こえた声に、今度は別の涙が浮かんだ。額を押さえて溜息をついたコンラッドの背中を押して医務室へ入ると、入院患者用の寝台に頭を押さえて倒れこんでいるオレンジ色の髪が見える。ギーゼラがその手を掴んで、ぶつぶつと文句を零しながら、自分で制裁を加えた一撃を癒していた。 「ヨ……ザ………」 小さく呟いた声が聞こえたのか、ギーゼラと寝台に倒れこんでいたヨザックが同時に振り向いた。そうして、あっと驚いたような表情を見せる。 「まあ、ウェラー卿!あなたご自身で迎えに行ったのですか?」 「ああ、俺もには顔を見せておいたほうがいいだろうと思って」 が足を引きずりながら寝台の傍らに歩み寄ると、治療を終えたギーゼラが傍を空けた。 ようやく、はっきりとヨザックを見ることができた。 コンラッドよりもずっと酷く、顔も手も足も、毛布から出て見えている部分の大半には包帯が巻かれていたり、ガーゼが貼り付けてあったり、白い布が目に入らない部分はないほどだ。 ヨザックは、ガーゼで覆われた右の頬に、指先まで包帯で覆われた右手で触れながら、ゆっくりと笑みを見せる。 「気になる手紙を送って悪かった。心配してるだろうと思っていたんだが、この有様で動けなくてな」 「当たり前でしょう。まったく……」 呆れたように溜息をついたギーゼラは、だが苦笑を上らせると寝台から離れる。後ろで同じように苦笑していたコンラッドと一緒に、一時だけでも二人きりにしようと戸口に向かう。 「まさか忙しいコンラッドが連れて来てくれるとは思わなかったが……」 ヨザックが、どうにかに触れようと手を伸ばした。 「……この」 はヨザックの手が触れそうになった右手に握り締めていた物を、当のヨザックに叩きつける。 「馬鹿ヨザァーーっ!!」 「いってぇ!」 部屋を出て行こうとしていたコンラッドとギーゼラが悲鳴に驚いて同時に振り返った。 「し、心配してるだろうですって!?自惚れないでよ!普段からオレは敏腕だ優秀だなんて言ってる奴を心配なんてするはずないでしょう!?」 「おい、それは自惚れろっていう内容じゃないか?オレが敏腕だと認めてるってことだろう」 額にぶつけられたものを手にして、ヨザックは目を丸めた。に以前渡した赤いお守り。 「グウェンダル閣下に意味深な報告書送ってさ!呼び出し食らったわたしがどんな気持ちだったかなんて、絶対に判んないんでしょう!?心配してるだろうですって?馬っ鹿じゃないの!?」 握った拳を震わせて叫ぶに、ヨザックは苦笑を滲ませた。 「泣くなよ」 「泣くわよ!」 ポロポロと零れる涙を拭いながら、は足を踏み鳴らした。まるで子供の駄々みたいだ。 「どれだけ不安だったと思ってるの!?普段は絶対書かないような手紙を送ってきて、絶対に陛下についていったと思ったのに、帰ってきても無事がどうかも判んないなんて、どんな気持ちだったと思ってるの!?ヨザはコンラッドと違って、どんな状況なのかわたしには全然伝わらないんだからね!?」 「オレは一介の諜報員だからなあ……。人の口にはその動向なんざ上らないし、上っても困るな」 「だから……っ!」 「心配すんな。オレはお前が幸せになるのを見届けるって、約束したろ?」 包帯に包まれた手を伸ばすヨザックに、はゆっくりと寝台の傍に膝をついてその手を握る。 「だから……絶対に、帰ってくるって?」 「そう。お前を残したりしない。少なくとも、黙って死んだりはしない」 「死んだら報告なんてできないじゃないの!」 「だから、報告が行くようにしとこうぜ」 力が入らないのだろう手で、右手を握られた。は目を瞬く。 「ただの幼馴染みじゃ、任務の途中でオレに何かあったとしても、お前の元には何の報せも行かないだろう?」 ヨザックは握ったの手を引き寄せて、その甲に乾いた唇で口付けをする。 「結婚するか」 あまりにもあっさりと、まるでもう決定事項のように。 も、後ろで部屋を出て行くタイミングをうっかり逃してしまったコンラッドもギーゼラも、同時に目を丸める。 「妻になら、家族が死んだ報せは届くからな。ま、必要ないと言えば必要はない保険かもな。ほら、オレって敏腕だから」 にやりと笑って自分を指差すヨザックに、は涙に濡れた目で気が抜けたように笑みを浮かべる。 「……自惚れすぎ」 ヨザックは浮かべていた笑みを優しいものへと変えて、握っていたの手を揺らした。 「お前が幸せになるのを見届ける……一番近くで」 長い、不安な日々が終わったその日は。 「……お帰りなさい、ヨザック……」 それよりももっと長い……長い片想いがようやく終わった、最後の日。 「ああ……ただいま」 |