心の中では鈍いとヨザックを責めている。
でも本当は、好きだと言ってはっきりと断られるのが怖いわたしが言えた義理ではないのだろう。
妹のような立場でいるのは嫌。
でも、ヨザが離れてしまうのは、もっと嫌。
ヨザックはいつでも忙しい忙しいとあちこちに飛び回っていて、結婚なんて話が一度も出てないことだけに勝手に安心して……いつか後悔するときが来るだろう。
笑って祝福なんてできる自信もないのに、でも一歩が踏み出せない。
ただでさえもう会うことも少なくなって、連絡すらもなかなか取れなくて、ヨザックがあと一歩距離を空けたら、繋がっている糸が切れてしまう。
いっそ断ち切ってしまえばいいと、寂しさから他の人の手を取って、気がつけばヨザックの面影を追っている。色々と最低だ。
待っていたって逆転劇なんてないのは確実なんだから、動くか諦めるか、もういい加減に決めてしまわなくてはいけない、のに。
時間ばかりが過ぎて、歳ばかり取っていく。本当に、情けない。


最後の日(3)


街で食材を買っていたら、露店をひやかしで見ているらしい友人を見かけた。あんな風にまったりと街を見て回っているのは珍しい。
「コンラッド!」
手を振って、人込みの間を足を軽く引きずりながらすり抜けていくと、友人と一緒に隣に立っていた赤茶色の髪の少年と小さな少女も振り返った。
「あら、てっきり一人だと思ったから声掛けちゃった。ごめんなさい」
「いや、いいよ。は今日は休み?」
「ううん、今ちょうど休憩をもらったから」
コンラッドの隣に立つ少年が興味深そうな目をしていて、何を考えているか大体判ったのでは笑いかけながら軽く自己紹介をしておく。
「こんにちは、急にごめんなさいね。幼馴染みの姿が見えたからつい声をかけちゃって」
「こ、こんにちは。あー、びっくりした。おれ、てっきりコンラッドの恋人だったりしてなんて思っちゃって」
思った通りのことを言う少年に、とコンラッドは苦笑して顔を見合わせる。
「幼馴染みって、ヨザックみたいな?」
「そう。俺とヨザックとは一緒に育ったんですよ」
ヨザックの事も知っているらしい少年に軽く眉を上げながら、は持っていた袋を探って今度は小さな少女のほうに目を向けた。
「こんにちは。よかったら、飴食べる?」
「こんにちは!ありがとう、お姉さん!」
差し出された小さな袋を両手で受け取った少女は、目を輝かせて少年を振り返った。
「よかったな、グレタ。コンラッドの友達からもらったものだから、食べていいよ。な?」
少年がちらりと横目で見ると、幼馴染みも優しい笑顔で頷いて、少女は喜んで包みを開けて赤い飴を口に入れた。
そのやり取り、そして立ち振舞いからしても、二人はいいところの子息子女といったところだろう。コンラッドはその案内役兼護衛というところだろうか。だとすれば、魔王の側近がついているのだから、よほど身分は高いはず。
そのわりには諜報員であるヨザックのことを知っているのが少し気にはなったが、こういった公私混同はしない友人に尋ねても、少年のことは教えてくれないだろうと予想して、は軽く手を振る。
「じゃあ、コンラッド。またね」
「ああ、気をつけて」
少年と少女にも手を振って、は踵を返して店に戻る道を歩き始めた。しばらくして振り返ると、次の店に移動して品物を覗き込んでいる二人を、コンラッドはひどく優しい表情で見守っている。むしろ優しいと言うより……。
「締りのない笑顔ってやつかも」
よほど大切にしてる子たちなんだろうとは思っても、その素性にまで考えが及ぶはずもない。
まさか笑顔の可愛いあの少年が魔王陛下だなんて。
がそうと知るのは、それからずっと時間が過ぎてからのことになる。


王都にある一軒の教会が爆破されるという事件が起こってひと月ほど経った頃、あるおかしな噂が街で囁かれるようになった。
ウェラー卿コンラートの離反。
その話が流れ始めた最初の頃は、でなくても誰もが出来の悪い冗談に笑って手を振った。稀に顔をしかめて不謹慎な噂に本気で怒った者もいたくらいだ。
「仕事ができる男っていうのは、妬まれ易いもんだねえ」
を雇ってくれている店主もそう言って苦笑して、と一緒に肩をすくめるだけだった。
だがその後、噂は鎮火するどころかますます広がって、おまけに大シマロンにいるウェラー卿の姿を見たという者など具体的な証言まで飛び出してくるようになった。
そんな事態にも関わらず、血盟城の魔王陛下とその周辺は沈黙を守っていて、魔王の傍からウェラー卿の姿が消えたとの話も出回り始める。
頭から信じていなかったも、さすがに少し不安になってきて、今でも軍務についている友人に尋ねてみたこともある。その時点ではまだ、コンラッドの離反を心配してではなく、何か人前に出ることができないような重篤な病や怪我でも負ったのかと思ってのことだ。
だが今でもコンラッドの部下である友人ですら、何も判らないのだという。おまけにその何も判らないという話そのものを、外には絶対に漏らすなと注意された。
「どうなってるの……コンラッド」
額を押さえて友人の安否を心配するしかない。
今でも軍務に就いてさえいえれば、こうして街にいるよりはまだ何か判ったかもしれない。
状況が判らないと言っていたあの友人だって、もし緘口令が敷かれているのなら、本当はもう少し何かを知っていた可能性だってあるのだ。
気がかりが多すぎて、店に出ているとき以外は笑顔も作れない、落ち着かない日々。
もう一人の幼馴染みの友人がやってきたのは、そんな折のことだった。


家の扉が叩かれて、は食事の準備に握っていた包丁を置いて戸口に向かった。
「よう」
軽く手を上げて挨拶をしたヨザックに目を見張る。
「ヨザ!」
以前の訪問から半年も経っていない。ここ十数年、こんなに間を置かずに顔を出したことはなかったように思う。
何でもない時なら素直に喜んだだろう。
だがこんな状況では、嫌な予感が募るだけだ。
部屋に上がったヨザックは、慣れた様子で中央にある小さなテーブルについた。
「いやあ、今回はちょーっとキツイ任務で参った参った」
疲れたように肩を軽く揉みながら、明るい口調のヨザックに、不安になればいいのか安心すればいいのか判らない。
口調は軽い。だがヨザックが任務に愚痴めいたことを言うのは珍しい。
水を出すと、ヨザックはそれを一気に煽った。
空になったグラスをテーブルに置き、再び水を注ごうとしたに断って、持参した酒を入れて飲み始める。
「オレの分もメシある?」
「材料なら、どうにかなるけど……泊まっていけるの?」
「ああ。今日は厄介になりたい」
腹が減ったと言うヨザックに、何をしに来たのか聞けないまま背を向けて調理に戻る。
何をしに来たか、なんて。
兄代わりとしての様子を見に来たに決まっている。
今ほど心の底からそうであって欲しいと願ったことはなかっただろう。
野菜を刻みながら、は湧き上がる焦燥に息をついた。
「コンラッドはどうしてるか、知ってる?」そう軽く聞けばいい。
だがそれができない。
ヨザックも何も言わない。何も言わずに、ただ後ろでゆっくりと酒を傾けているだけだ。
「……空腹のときにお酒を入れると、一気にまわるよ」
「馬鹿言え、オレがそんなに弱いはずないだろう」
「酒に強いと過信して、飲みすぎた挙句の酔っ払いほど性質の悪いものはないけどね」
「じゃあオレが酔ったら、指差して笑っていいぞ」
「笑っても酔っ払いの世話という手間が消えるわけじゃないわ」
は溜息をつきながら切った材料をまとめて鍋に放り込んだ。
「ごった煮か?」
「凝った料理が食べたいなら、前もって来るって言ってくれないと」
振り返ったは、ヨザックなら一歩の距離を三歩かけて詰めると、テーブルを挟んだ向かい側に腰掛けた。
何を言えばいいのか判らない。沈黙がつらいような間柄でもないのに、今はそれがひどく重い。
「………ヨザ」
「オレにもさっぱり判らねえ」
が名前を呼ぶのと同時に話し始めた。
ヨザックはが聞きたいことなんて判っているし、もヨザックが何を語り出したのか判っていた。
噂が真実であるという、肯定だと。
「大シマロンにいた。似合いもしない服を着て」
「………そう」
は肘をついた両手を組んで、俯いてそれに額を当てる。
祈るように、痛みを堪えるように。
信じていた。信じている。
彼がまだ、仲間を失った痛手を忘れてなんかいないと、信じている。そうでなければこれから何を信じればいいのか判らない。かつてたちは、彼を信じて、彼の背中について前へ進み続けた。
「色々と、話は出回るだろう。もしかしたらお前も嫌な思いもするかもしれないが……心配するな。今の魔王陛下はそれを理由にオレたちを断罪することはない。疑うこともされないだろう」
まるであの頃の、即位式直後の彼のようなことを言うヨザックに、は驚いて顔を上げる。
「……ヨザ……あなた、陛下にお目通りしたことあるの?」
「ああ。陛下は身の軽い方でな。何度かお傍で護衛の任についた」
驚いた。
ヨザックの直属の上官はフォンヴォルテール卿であって、血盟城に任官しているわけでもない。貴族どころか護衛官ですらないヨザックが、どうして魔王の傍で護衛の任につくなどということになるのだろう。
確かに、魔王陛下が何度か国外へ出ていたという話も聞いてはいるけれど、その場合にしても彼や彼の部下など、正式な近衛がついているはずなのに。
それにしても、珍しいことを言うヨザックに、はゆっくりと息を吐いた。
「まさかヨザがそんなことを言うなんて」
新王を誉めていた彼は、すぐに納得して彼を信じたに、ヨザックもそんな風に素直に信じてくれればいいがと零していた。も、それはなかなか難しいと思っていた。
ヨザックは確かに優秀な男だが、使いこなすにはクセが強い。特に高貴な身分の者に対しては、一線を置いて眺めている。ヨザックが信用し、信頼し、尊敬している高貴な身分の者となると、恐らく片手で足りるくらいしかいない。
そのヨザックが、こんな事態でも現魔王は大丈夫だと言うなんて。
「……一番の側近だと、聞いているわ」
彼を信頼していたなら、していたほど、王の猜疑心は強くなるのではないか。
「それでも、だ」
それなのに、あの用心深いヨザックが強く頷く。
悪夢の時代の再来はないのだと、そう言われてほっとする。
だがそれなら、ますます判らないこともある。
は唇を噛み締めて、両手で目を覆って机に伏せた。
「……コンラッド………どうして」
ヨザックですら、手放しで信じるという王。
その王の傍にあって、即位直後ですらあれほどの敬愛を見せていて、なぜ。
「……あいつが陛下に背くとは思えない」
小さな呟きにゆっくりと顔を上げると、ヨザックはを見てはいなかった。グラスに半分ほど入った琥珀色の液体を見つめて、独り言のように呟く。
「何か裏があるはずなんだ………何かが」


ヨザックは血盟城が沈黙を守っている話でありながら、に口止めはしなかった。
その必要がないと信じているからだろう。もちろんだ。こんな話、誰にもしない。
ヨザックもも、何か理由があると信じている。だが大半の者は、その行動の真意など知りたくもないと切り捨てるだろう。それが普通の反応であり、国と王に忠実な態度だ。
ヨザックはその日一晩だけ泊まった。寝具など一揃えしかない部屋なので、毛布に包まって床に転がる。
明かりを消した暗い部屋で、それぞれ天井を見上げていた。
「……傍にはいてやれないけど、オレはずっとお前の兄貴だからな」
はゆっくりと目を閉じた。視界は薄闇から真の闇に染まる。
たとえその行動に裏があろうとも、彼がいずれ国に帰ってくるかといえば、それは判らない。一度は国を裏切った、少なくともその振りをした。
だからヨザックは、敢えて言う。
「オレは、お前の幸せを、ちゃんと見届けるから」
兄がいなくなって、コンラッドまでがいなくなった。
でもヨザックは、ここにいる。
「……手、繋いで寝ていい?」
「お前な、子供じゃないんだぞ」
ヨザックは呆れたように溜息をついた。だが闇の中で起き上がった気配がして目を開けると、に手を振っている影が見える。
「ほら、寄れ。狭いぞ」
がゆっくりと微笑むと、闇に慣れた目はヨザックの呆れたような笑顔を映した。
一人用の寝具に、体格のいいヨザックと成人女性のでは本当に狭かった。
手を繋いで、もう一方の手はお互いに相手の背中に回して抱き合うようにして横たわる。
まるで恋人同士のような体勢なのに、どこまでもそれとは遠い。
「蹴り落とすなよ」
「ヨザこそ、寝返りでわたしを巻き込んで落ちたりしないでよ」
は笑いながらヨザックの胸に顔を寄せ、目を閉じてその熱を覚える。これが最後だ。
は変わらない関係を選んだ。
ヨザックを失いたくはない。
ヨザックに、変わらない物をひとつあげたい。
ここに無くならないものが、ひとつはあるのだと、そう覚えていて欲しい。
寂しさに身を寄せ合うのは、これで最後だ。
それで正しいのだと信じて、眠れない夜を二人で分かち合った。








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