、ただいま」
そう微笑んだコンラッドとの半月ぶりの再会は、だってそれはもう嬉しかった。
だが同時に、あれからできるだけ考えないようにしていた「コンラッドとどこまで行ってるか、有利に知られてしまった」ことを思い切り意識してしまって、素直に喜ぶどころか素っ気無い態度になってしまったと反省はしている。
もっと「ちゃんと怪我は治ったのか」とか「逢えなくて寂しかったこと」とか、色々と話したいことがたくさんあったはずなのに。
「いけない、いけない。有利にも主張したとおり、恋人なら自然なことなんだから、変に意識するほうがおかしなことになっちゃう……」
廊下を歩きながら、盆を手にした両手に力を入れて気合いを入れたは、強く頷いて決意を固めた。


林檎に魅せられし者は(2)


?」
気合いを入れたところで横から掛けられた声に、思わず飛び上がった。固めたはずの決意がすぐさま崩れてしまう。
硬い仕草で横を見ると、右手の廊下の向こうから書類の束を小脇に抱えたコンラッドが嬉しそうな様子で歩み寄ってきた。
「どうしてこんなところに一人で……休憩の準備?けど、血盟城の中でもできるだけ誰かを連れて動くようにお願いしてるのに」
弾むような足取りの恋人に反して、はその場で固まってしまう。
?」
恋人の様子がおかしいことに気づいたのか表情を曇らせたコンラッドに、は慌てて笑顔を作った。だがその表情もどこかぎこちない。
「コ、コンラッドこそどうしたの?」
どうしたもこうしたも、書類を持っているのだから書き物の仕事が終わったに決まっている。問いかけながら、あまりにも不自然な態度に内心では混乱がますます膨らんでくる。
すぐ隣まで歩み寄ったコンラッドは、困ったような様子で首を傾げた。
「……俺は何か、を怒らせたかな?」
「ち、違うの!えーと、コンラッドは全然悪くなくてっ」
慌てたはそこまで言い募って、これでは挙動不審を自分でも認めたも同然だと気づいて青褪める。
「俺が悪いわけじゃなくて?」
書類を小脇に、コンラッドはが両手で持っていた盆を片手で預かった。
「わ、悪いわけじゃなくて……」
手ぶらになった両手を握ったり開いたりしながら、コンラッドを遠慮がちに見上げた。
「は、恥ずかしいだけなの……」
恥ずかしいという言葉の通り頬を赤らめ、照れているせいなのか下から上目遣いで黒曜石のような瞳に覗き込まれて、コンラッドはくらりと眩暈を感じる。
「……恥ずかしいって……久々に会えて?」
僅かにコンラッドの腰が屈められたことに気づかずに、は後ろに回した両手の指を絡めながら、つま先で床を擦るように軽く蹴る。
「そ……それも……あるけど、その……ゆ、有利とか、村田くんとかの前だと……」
コンラッドの眉が僅かに上がったが、は床を蹴るつま先を見ているのでそれには気づいていない。
ことあるごとにが有利の名前を挙げるのは仕方ないとして、もう一人の人物は聞き捨てならない。
「……猊下の前だと、何が恥ずかしいのかな?」
「だ、だって、有利も村田くんも、わたしとコンラッドが……その……い、いろいろしてること、もう知ってるわけだし」
はまだ床を見ていて、話に夢中なのか差し掛かった影に気づいていない。
「うん、それで?」
「それでって……!?」
振り仰いだは、すぐ傍まで迫っていたコンラッドに驚いて一歩後ろに下がった。踵が壁にぶつかる。
「あの、コンラッド!ち、近い!」
「猊下が俺たちのことを知っていると、何か問題が?」
「だから問題じゃなくて、恥ずかしいっていうか気まずいってだけで!」
「別に……そんなに恥ずかしがらなくても、自然なことなんだから」
「判ってるけどーっ!」
両手を前に出して突っぱねるような態勢を取っただが、そのままコンラッドが前に進むと身体に手を当てるだけで無理に押し返すことはない。
どうやらあの再会時の素っ気無さは、本当にただ恥ずかしかっただけだと判ってほっとしながらそのまま壁際のに迫った。
「こ、ここ廊下!」
「うん。だけど久しぶりに会えた恋人同士がキスをするのも自然なことだろう?」
「で……でも……」
すぐ傍まで迫るコンラッドに、は視線を泳がせて困惑する。
「おかえりのキスが欲しいな」
顔を真っ赤に染めて口を引き結んではいるが、突き飛ばしてきたり、力を込めて押し返したりすることはない。
「目を閉じて……」
その囁きに逡巡したように俯いたは、それからおずおずと顔を上げ、震える瞼をゆっくりと降ろして……。
「あれ、そこにいるのはウェラー卿?あ、それにも一緒?」
「キャッーっ!」
突然聞こえた声に、は悲鳴を上げて力の限りコンラッドを突き飛ばした。
片手にはポットとカップの乗った盆を、片手には小脇に書類の束を抱えていたコンラッドは、たたらを踏むようによろめきながら、計ったようなタイミングで現れた大賢者をつい睨み付けそうになって、隣に立つ主と弟に仰天した。二人とも血まみれだ。
「わ、わたし、有利の着替え持ってくる!そのままお風呂行ってて!」
「あ、!」
はそれだけ言うと、バタバタと足音を立てて走り去ってしまった。
走り去ったの背中を見送る形になって、それからお邪魔虫になった三人に目を戻す。
大賢者はにこにこと笑っていて、ヴォルフラムは軽く眉を寄せ緩く口を空けて、呆れたような哀れむような目をしていて、有利は点々と血の付いた顔を、血ではなく真っ赤に染めている。
「……えーと……ギュンターですか?」
一瞬、有利かヴォルフラムが怪我をしたのかと心臓が跳ね上がったが、二人とも血は付いているが怪我をしたという様子はないので当たりをつけて訊ねてみた。
だが返ってきたのは質問に対する答えではなかった。
「あ……あんた、帰って早々廊下でなにやって……!?」
「え、いえ、その……」
「やだな、渋谷ってば野暮ー。さっき素っ気無くされたからしそこねた、ただいまのキスに決まってるじゃないか」
「ここはアメリカじゃねえんだよ!」
「日本でもないけどね」
憤慨したように足取り荒く、コンラッドの前を通り過ぎる有利の後を、村田が鼻歌を歌いながら追って行く。
「あ、陛下!」
「ギュン汁まみれで風呂行くんだから呼び止めるな!」
「はい……」
小さく返事をすると、最後にその前を通り過ぎたヴォルフラムに白けた目を向けられた。
「お前がおおっぴら過ぎて、が挙動不審になってるぞ」
少しは気遣ってやれと、弟に諭された。


逃げ出したはそのまま有利の寝室まで駆け込み、床に座って息が整うまでベッドにもたれて嘆いていた。
「コ、コンラッド置いてきちゃった……」
キスしそうになったところを有利とヴォルフラムと村田に目撃されて、思わずコンラッドを突き飛ばして逃げてしまった。
しばらくぼんやりと天井を見上げていたが、呼吸が落ち着いて鼓動が収まってくると、床を這うようにしてクローゼットルームの方へと移動する。
「有利が……村田くんが……ヴォルフラムが知ってるなんて……」
それを思うだけで、恥ずかしくて泣きたくなる。
慌てて首を振って、思い浮かんだ面々の顔を振り払った。
「考えない考えない考えないっ!」
考えたって仕方がない。むしろドツボにはまるだけだと何度も念じるように言い聞かせながら、クローゼットの中に入ると立ち上がって拳を握る。
「恋人同士なんだから、別にやましいことじゃないし!」
そう自分に力説して、有利の着替えを探してクローゼットを漁りながら、深い溜息をついた。やましくなくても、それで湧き上がる羞恥心を押さえて自分を説得できるものでもない。
ハンガーに掛けられた学ラン型の魔王服一式と白シャツ、それに下着も含めた一揃えを重ねたところで、荷物を後ろから取り上げられた。
村田に言われて給仕の人が来たのかと振り返ったは、すぐ後ろに立っていた恋人に再び飛び上がる。
「コンラッド!」
「いくら陛下のものとはいえ、他の男の下着をが手にしているのは面白くないな」
「お、お仕事は!?」
有利の着替え以外、コンラッドの両手は何も持っていない。
「書類なら、陛下の執務室に。ギュンターの介抱をしていたギーゼラがいたから大丈夫。ティーセットはちゃんと厨房に戻しておいたよ」
「あ、お茶……ご、ごめんなさい」
自分で用意したティーセットをコンラッドに押し付けたままだったと思い出す。だがコンラッドは笑って首を振りながら、有利の着替えを手に肩を竦める。
「それは別にいいんだ。それより、こういう用意はがしなくていいから」
「あ、うん。今回は単にそこにいたからやっただけで、メイドさんたちのお仕事を取るつもりじゃないし……」
「そういうことを言っているんじゃなくて……ああ、そういう意味もあるけどね」
コンラッドは苦笑して軽く腰を屈めると、の耳元に口を寄せてそっと囁く。
「さっきも言ったけど、陛下のものとはいえ、他の男の下着をが手にするのは面白くないんだよ」
囁く吐息が掛かった耳を押さえながら、は真っ赤になって後ろに逃げた。
すぐに背中がクローゼットの壁に当たる。廊下のときと同じだ。
「あ、あのね、コンラッド!」
「さっきヴォルフに、が可哀想だから自重しろと言われたんだけど」
「そんな話したの!?」
こういうことを気軽にしないでと訴えようとしたのに、その前にヴォルフラムが同じことを言っていたなんて思わぬことを聞かされて、両手で赤く染まった頬を包む。
「気にするから恥ずかしいんだよ、
「それは判ってるけど、どうやったら気にしなくてすむのかが判んないのっ!」
「じゃあ」
ずいっと距離を詰められて、は慌ててコンラッドを押し返す。今度は廊下のときとは違い、力を込めて突っぱねながらコンラッドから顔を逸らすように俯いた。
「しばらく、離れていようか?」
「……え?」
ぎゅっと目をつぶって俯いていたは、瞬きをして顔を上げた。すぐ至近距離で、けれどもコンラッドは真剣な表情で同じことを繰り返した。
「ヴォルフに言われて考えたけど、もうしばらく時間を置いて、の気持ちが落ち着くの待ったほうがいいかもしれないと思って」
コンラッドはにこりと微笑んで、の頬に軽く口付けをするとすぐに身を引いた。
呆然と唇が触れた頬に手を当てたは、踵を返したコンラッドの服を慌てて掴む。
「で、でも二週間も有利から離れてたから、お仕事が溜まってるんじゃ……」
「ああ、説明が足りなかったかな。ちゃんと任務はこなすよ。夜には城を出るか、あるいは夜の警護につけばということだよ。昨夜俺と寝たかもしれないと周囲に思われることが嫌なら、これでしばらくは誰も疑わないし、疑いようがない。そのうち時間が経てばも陛下も落ち着くだろう?」
「そ……れは、そうだけど……」
は困惑したように口ごもると、両手でコンラッドの服を握り締めながら俯いた。
「じゃあ……ずっと会えないの?」
「昼は会うよ。俺は陛下の傍に控えているから」
「でもそれじゃ二人きりになれな……っ」
訴えかけたは、すぐに俯いて小さく謝る。
「ごめんなさい……わたしのせいなのに……でも、わたしとは一緒にいてくれないのに、有利とばっかりいるコンラッドを見るのも……ヤダ……」
コンラッドは柔らかく笑って服を掴んだの手を外させると、振り返ってその頬にそっと触れる。
「……だったら、そのしばらくの間は、ふたりだけのルールを作ろうか」
「ルール?」
頬に触れたコンラッドの指が緩やかに下へと滑り、上を向くように軽く指で顎をくすぐると、は赤く染まった泣き出しそうな表情で顔を上げた。
コンラッドと一緒にいるとどうしても周りの目が気になるのは抑えられないのに、そんな自分を気遣ってくれるコンラッドの提案にも素直に頷けない我侭が自分でも嫌なんだろう。
「そう」
どうしたいいのか判らなくて、困った様子を見せながら小さく震えるに、コンラッドは腰を屈めて素早く触れるだけのキスをする。
「なっ……」
唇を押さえて赤くなるの髪にもう一度、今度はゆっくりと口付けを落とした。
「廊下とか、どこかの部屋とか、二人きりですれ違うことがあったらキスをしよう」
「廊下でも!?」
裏返った声を上げて、は慌てて手と首を同時に振る。
「それ、絶対に余計に恥ずかしい!」
「でもこれなら夜は疑われることもなく、けどその間でも俺が不足にならずに済むんだけどな」
「わたし不足ってなに!?」
に触れないと寂しくて仕方ないんだ。は俺と触れ合わなくても、二人きりになれなくても、視界にいればそれで十分?」
真っ赤になって口を開閉させるに、コンラッドはにこりと微笑みかける。
「で……でも……それって……廊下でも落ち着かないような……」
「そんなことないさ。普段を思い出してみれば判ると思うけど、お互いに一人で出歩くことはそんなにないだろう?」
「う……ん……そうだけど……」
「しばらく俺としないって、そう決めていたら、少しは陛下の視線に対しても胸を張れるんじゃないかな。が堂々としていれば陛下もすぐに気にしなくなるよ」
「う……うーん………そ、そうかなー?」
考えるように首を捻るに、コンラッドは僅かに身を引いてそっと息を吐いた。
「無理にとは言わないけど……」
「え、その……ぜ、絶対ダメってわけでは……でも、廊下っていうのがちょっと」
「部屋の中だけになんてしたら、陛下に自重を示している間はまったく触れ合えないことになる可能性が高いよ?」
「それは……そう、だと思う……けど」
「触れるだけのキスなんて、すぐだよ。誰にも見られたりしないさ」
「さっき見られかけたばっかりだけど!?」
返って来たもっともな反論も、コンラッドは笑顔でさらりと流してしまう。
「それはゆっくりと時間を取ったから。やっぱり久々のキスだから間というか、雰囲気だって大事じゃないか。でもルールのキスは挨拶みたいなもの……いや、実際挨拶かな。ね、これなら陛下にも後ろめたくないし、恥ずかしくもないんじゃないかな」
そんな風に念を押されて、は考えるように軽く上を見上げる。 照れくさいとコンラッドを避けるのは自分の我侭だという自覚が最初にあるせいか、コンラッドの提案を頭の中で繰り返し考えているうちに、段々と混乱してきた。
「でも……挨拶?」
「挨拶のキスで足りないなら、もう少し深いキスを」
「そ、そういうことじゃなくて……!その、日本人はキスで挨拶って習慣がないからね!?」
「だったら、それこそ二人きりで会えない間の愛情の確認になるじゃないか」
「そ……う、かな?」
普段ならすぐに色々と接触がエスカレートしてくる恋人が、キスひとつで満足するんだとの主張を繰り返すあまり、は問題が摩り替わっていることに気づかずに頷いてしまった。
「なら、今からだね」
「え、今から……!?」
コンラッドはもう一度軽く触れるだけのキスをして、すぐに後ろに引いた。
「それじゃあ、陛下の着替えは俺が持っていくから」
笑顔で告げるとすぐに背中を見せたコンラッドを見送って、は指先でそっと唇に触れる。
「ゆ……有利の部屋のベッドルームでキスしちゃった……」
の中に『有利に知られたら恥ずかしいこと』がひとつ増えた。それなのに、速まる動悸は後ろめたいよりも、嬉しい鼓動のように心地よく跳ねている。
これは挨拶で、でも愛情の確認で、それなのに有利が反対する行為を今はしないという合図なのだ。
ヨザックかあるいは村田がこの場にいたとすれば、「洗脳って恐ろしい」と呟いたに違いない。








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