ヒルドヤードから帰ってきたコンラッドが血盟城の門をくぐると、正面の城へ続く道にが立っていた。 「コンラッド!お帰りなさいっ」 「逢いたかったよ、!」 一生懸命な様子で転がるように駆けてきたは、両手を広げて迎える準備をしたコンラッドの胸に思い切り飛び込んで、その背中に手を回して強く抱きつく。 「わたしも逢いたかった……」 「」 強く抱きつくの髪をそっと撫でると、顔を上げたはゆっくりと目を閉じる。 その頬に手を添えて、コンラッドは腰を屈めると唇をそっと静かに重ねた。 林檎に魅せられし者は(1) 「……というのは大袈裟だとしても、もう少しこう、歓迎してくれてもいいものだとは思わないか?」 部屋で机を並べて書類を処理する弟の愚痴に、グウェンダルは深い溜息をついた。 現在、血盟城には主の有利が戻ってきているし、本来ならグウェンダルは所領のヴォルテール城に戻っていていいはずだった。 それなのに、いまだ血盟城から離れていないのは、この半月ほどの有利の仕事効率が良くなかったからだ。 邪魔者のコンラッドがいないことに絶好調のギュンターが、今こそ執務より陛下の教育を優先すべきだと主張した。 有利と二人きりで勉強会を、というギュンターの魂胆は見え透いていたのだが、実際問題として後々のことを考えると、現在の時間を多少割いてでも王の教育をするというのは悪い話ではなかったので、結局グウェンダルがその分のフォローをするという形になったのだ。 そして有利がこれまた、コンラッドの不在で勉強地獄から助け出してくれる人物がいないことを嘆いては、その不在の理由を思い出して奮い立ってくれたし、本人にその気がなくても有利を遊びに誘惑する存在のが村田と共に眞王廟にあったお陰もあって、この半月は無駄にはならなかった……と思う。 だが帰ってきた弟が鬱陶しい。 当初の予定の半分で湯治から戻ってきたことは評価するが、他に人のいない部屋で恋人の出迎えの素っ気無さをずっと嘆かれるのは、とにかく鬱陶しい。 コンラッドは湯治を終えた旨を帰国に先んじて白鳩便で有利に報せた際、眞王廟に送り込んでおいた幼馴染みにも知らせた。 有利に報せたのはもちろん帰国の許可をもらうためだが、ヨザックに報せたのは眞王廟に押し込められたと少しでも早く逢うためだ。血盟城に帰るまでに、にも眞王廟から帰ってきてもらいたかったらしい。 グウェンダルとしては、自分の部下の諜報員が男子禁制の眞王廟で半月も過ごしたという事実のほうに驚いたのだが、その辺りは眼鏡の大賢者の手管だったらしいので妙に納得した。 とにかく、コンラッドは一時でも早くに逢いたいと念じて帰国して、それは恋人も同じであるだろうと信じていた。 コンラッドを送り出したときのを見る限りグウェンダルでもそうだろうと思っていたのに、有利たちと一緒に帰国したコンラッドを出迎えたは、弟が語った妄想の再会どころか、至極あっさりと「お帰りなさい、お疲れ様。怪我はもう本当に大丈夫?」などと有利と同じような当り障りのない様子だった。 きちんと心配はしていたし、帰国を喜んではいたのだが、キスどころか抱きつくことさえない。 そのことに拍子抜けした眞魔国の面々とは違い、地球組の三人はそれが当然というような態度で、コンラッドは半月の間に溜まりに溜まった書類仕事のために、そのまま有利の元を退出した。ウェラー卿は自分の部隊の他にも、魔王の護衛官を指揮下に置いているので、書面での仕事もそれなりにあるのだ。 だからといって、が二人きりになろうと希望するどころか、有利の元に残ってしまったのはやはり堪えるらしい。 「寂しい……」 コンラッドが溜息をつくたびに、グウェンダルの青筋が増える。 ヨザックはを眞王廟から送り届けると、早々に任務を要求して旅立ってしまった。形は休暇というふうにはしてあったが、結局は負傷中のウェラー卿を護衛する任務ということで処理していたグウェンダルは、今度こそ正式な休暇をとっていいのだと言ったのに、本人は半分休暇みたいな仕事でしたから〜と軽い足取りで旅立ってしまった。 ウェラー卿とヒルドヤードへではなく、実は女装して魔王の妹と眞王廟に行っていたことは判ったが、それだって護衛だったことには変わりがない。 ただ大賢者から聞いた話によると、ヨザックは昼は巫女達に日常の力仕事を頼まれて、夜はとまったりお茶の時間を取っていただけらしい。確かに普段が緊張の潜入任務に携わっている彼にとっては半分休暇といえるくらい楽な仕事だったのだろう。そう納得した。 だが今なら、ヨザックの言動の真意が理解できる。 ヨザックは幼馴染みにとっ捕まって、愚痴を聞かされたり八つ当たりされたりすることから逃げたのだ。 グウェンダルは手にしていたペンを握り折りそうなほどの苛立ちを堪えて、ペン先で紙を叩いた。 「仕事に集中しろ、コンラート。言っておくが、その溜まった書類を処理しない限り、夜になろうと解放するつもりはないぞ。との時間を作りたいなら……」 いい加減にその口を閉じさせようと強く上から言いつけると、コンラッドは書類の山から半分ほど、紙の束を差し出してきた。 「私は手伝わんぞ。こちらで手一杯だ」 無言で差し出された紙を受け取って目を落としたグウェンダルは、それが処理済のものであることに、眉間のしわを増やした。 確かにコンラッドの書面仕事は、経済だの外交だのといった、日々刻々と変化する情勢と照らし合わせなければならないものではない。 だが日常で慣れたものだと判っていても、あんなにも気のない様子で愚痴を零しながら、それなのにやるべきことはこなしているところを小憎らしく思ってどこが悪いというのか。 せめて仕事が疎かになっているのなら、「仕事をしろ」で黙らせることもできるのに。 「は俺に逢えなくても寂しくなかったのかな……」 「自室に戻って仕事をしろ!」 「俺の代行をしていたグウェンの承認がいる書類がある。往復するのは面倒だ」 また溜息をつかれて、グウェンダルはとうとうペンをへし折った。 グウェンダルが弟の愚痴に苛立っている頃、そこから少し離れた有利の執務室には魔王本人とその補佐のギュンター、手伝いにとヴォルフラムと村田が揃っていた。 「、いいのか?」 「何が?」 有利のサインが入った書類を戻されるべき部署ごとに仕分けしていたは、顔を上げないままにヴォルフラムに気のない返事を返した。 サイン前の書類の方を調えていたヴォルフラムは、何がと返されたことに驚いて顔を上げる。 「コンラートのことだ」 の手がぴたりと止まる。 「せっかく帰ってきたのに、二言三言しか言葉を交わしていないじゃないか」 執務机でペンを片手に、書面の内容を理解しようと悪戦苦闘していた有利と、その左右について説明と補佐をしていたギュンターと村田が揃って顔を上げた。 ギュンターはヴォルフラムと同じことを気にしている様子なのだが、村田はにやにやと笑っているし、有利は無表情のままだ。 それらの視線に気づいているのかいないのか、俯いてテーブルで書類を仕分けていたの顔に熱が篭り出す。 「い、いいの。コンラッドもお仕事あるし」 「それはそうだが、少しくらい時間は取れるだろう」 「時間は日が落ちて晩になってからでも作れるし……」 言いさしたは、突然手にしていた書類をテーブルに叩きつけて顔を上げた。 「晩って言っても夕飯とかのことだから!」 「え、あ、ああ。それがどうした?」 赤い顔で妙なことを力説するにヴォルフラムが圧倒されたように頷くと、はますます赤くなって、紙の束を叩きつけた風圧で舞い上がった他の紙を慌てて拾い集める。 「あ、あの、あの、わたし、お、お茶でも淹れてくる!」 「お、おい!?」 せっかく拾い集めた書類を放る勢いでテーブルに投げ出すと、はバタバタと部屋から飛び出していった。 途端に、村田が一人で腹を抱えて笑い出す。 ギュンターとヴォルフラムが驚いてそちらを見ると、爆笑する村田の横で有利は不機嫌な様子でむくれていた。 「ユーリ?猊下?」 「あー、面白い」 「面白くねえよ」 「いやー、フォンビーレフェルト卿のナイスフォローが光ってるからさあ」 「ぼくのですか?」 村田は眼鏡を外すと浮かんだ涙を指先で弾いて、ハンカチでレンズを磨く。 「ウェラー卿に素っ気無かったのも、今逃げたのも、恥ずかしいからに決まってるじゃないか」 「は?」 何が恥ずかしいのかと問うギュンターに、村田はレンズを拭いた眼鏡をかけ直した。 「ウェラー卿との進展度。ここにいるみんな知ってるだろ?」 「あー!あー!ギュンター!この数値なんだけどさー!」 「は、はい!」 いかにもわざとらしく割り込んできた有利に、それでもギュンターは即座に反応を返した。 村田は机の端に腰掛けて、呆れたように肩を竦める。 「君まで照れてどうすんのさ」 書類の一箇所を指差していた有利はしばらく沈黙した後、手にしていた書類に顔を埋めるかのようして机に突っ伏した。 「今更照れているのか?」 さっぱり判らないとヴォルフラムに首を捻られて、有利は拗ねたような声を上げる。 「だってさあー、だけだったらまだしも、コンラッドまで揃っちゃったら、意識するなって言われても無理だろー?この間二人が揃ったときは、おれもまだ混乱してたし。落ち着いてからだと逆にな……」 「やーだーなー。渋谷ったら妹と名付け親の夜を想像なんてしちゃってー」 「馬鹿っ!違うっ!」 伏せた机から飛び起きた有利の視界に、酷く呆れた視線を向けてくるヴォルフラムが映った。 「ユーリ……お前、なんて下世話な……」 「ち、ちが、違うって!そうじゃなくて……っ」 「じゃあ何?」 机を叩いて立ち上がった有利は、村田の追及にうろたえて、蹴り倒した椅子に引っ掛かって見事に後ろに転んだ。 「陛下!」 ギュンターが慌てて転がった主を助け起こすと、有利は真っ赤になった顔を隠すようにその手に縋り付く。 「違うんだ、ギュンター!誤解しないでくれ!本当におれそんな……そんなエッチな想像なんてしてな……うわーっ!たい、大変だーっ!ギュン汁が文字通り出血大サービスにーっ!」 「べ、べいが……わ、わだぐじ……」 「ユーリ!ギュンターを誘惑するなんて、正気か!?自殺行為もはなはだしい!」 「今のやり取りのどこが誘惑!?」 「書類に血が付かないように、退避退避」 村田は机周辺の書類を小脇に抱えて、駆けつけたヴォルフラムと入れ替わるように血の海になった床を飛び越して逃げた。 「待て、村田!おれを見捨てるな!ギュンターをどうにかしてくれーっ!」 「一緒に血まみれになるなんてやだよ」 「ギュンター!ユーリから離れろ!」 「なにをいぶのでずが、ぼるぶらむ!わだじがべいがをばなざないのでばなぐ……」 「ユーリはもうお前に抱きついてないだろうが!離せっ!」 「今のギュンターが何言ったのか判るのかよ!?」 村田が大騒ぎの執務室の扉を開けると、ポットとカップを乗せた盆を手にしたが廊下の先からぶつぶつと何事かを呟きながらこちらに向かってくる姿が見えた。 「あ、。お茶はもういいよ。渋谷は今から風呂に行くからそっちの準備をしてあげてー」 「お風呂って、今から?」 立ち止まって目を瞬くに、村田は室内を指差した。 「フォンクライスト卿が大変なことに」 「ま、また?」 引きつった顔をしながらも、はそそくさと盆を両手に持ったまま踵を返して歩き去る。 執務室に戻らなくてもいい、よい口実になったのだろう。 有利を怒らせたときは必死だったというのは、も有利と同じだ。問題が片付いて、冷静になって、改めて有利と顔を合わせるのも気まずいだろうに、そこで怒らせた行動の片割れまで揃ってしまったら居たたまれないに違いない。 村田は部屋に戻り、血の掛からない応接テーブルの上に書類を置きながら、軽く首を捻って顎を撫でた。 「今の調子のなら、誘ったら喜んで自分から眞王廟に逃げ込んだりして」 そうなったらウェラー卿の反応が楽しみだなーと、大賢者は悪魔のような笑みを浮かべた。 |