有利の後ろに乗って馬に揺られていると、段々と熱っぽくなってきた。
フォンウィンコット卿から上着を借りたとはいえ、濡れたままで風に当たったりするから風邪でも引いたかなと、首を傾げている間に症状がどんどん悪化してきた。
頭はふわふわ、視界はぐるぐる、雲の上でも歩いているのかと思うほど感覚が怪しくなってきて、それが更に進むと馬が走る震動に吐きそうになる。
傍の人に縋りながら喉に力を入れて我慢して、震動が収まった頃にようやく誰かが抱き寄せてくれていたんだと気が付いた。
誰かって、有利以外に誰がいるの。そう思って顔を上げたら、朦朧とする視界に映った人の輪郭は、黒じゃなくて茶色だった。
意識が飛んでいる間にコンラッドが来てくれてたんだとホッとして、もう大丈夫なんだと身体を全部預けてしまう。
「……コンラッド」
甘えるように擦り寄って服を掴んでいた手に力を込めると、上から小さな苦笑が降ってきた。
いつもみたいにギュッと抱き返してくれなくて少し残念に思ったけれど、僅かな気力はそこまでで、すぐに意識が途切れてしまった。



時を紡ぐ風に寄せて(3)



ゆっくりと目を開けると、白い大きな物がぼんやりと視界一杯に広がっていた。
それが天井だったと判ったのは、白に被せるように横から誰かが覗き込んできたから。
「気がついた?」
「……コン……ラッド?」
声を掛けられてようやく焦点が定まった。心配を掛けてしまっていたんだろう。困ったような表情で、コンラッドはほっとしたように息をついた。
「ああ、そうだよ」
優しい声色で、額の上から何かを取った。水の音が聞こえて首を捻ると、桶からタオルを取り出して絞っているのが見えた。コンラッドが看病してくれているんだ。
「……ごめんね」
「なにが?」
コンラッドは絞ったタオルを広げながら目を瞬いた。
「来てすぐに倒れて……」
のせいじゃないだろう?いいから、ここぞとばかりに甘えてくれ」
「いっつも充分甘えてるもん……」
広げたタオルを長方形の形に畳み直して、コンラッドは笑いながらわたしの額の上にそれを置く。
「俺が甘えて欲しいんだよ。ここぞとばかりにを甘やかして甘やかして、陛下が呆れるくらいに甘やかして、俺を片時でも放したくない!……ってくらいに思ってもらえないかと企んでいるんだ。納得?」
「……納得」
気楽に甘えやすいようにという配慮なのか、おどけてそんなことを言うコンラッドに笑い返しながら、最初に意識が戻った時に抱き締めてくれなかったのは、急いでいたからとかだったのかなと安心する。だって、目の前で笑っているのはいつものコンラッドだ。
安心したらまたうとうとしてきて、どうにか瞼を上げようとすると、コンラッドの冷たい手が頭を撫でる。
「眠っていいよ。傍にいるから、ゆっくり眠って」
「……うん……そこに、いて……ね……」
眠りに落ちる前に目に映っていたコンラッドの袖口を掴むと、忍ぶような小さな笑い声が聞こえた。
「おやすみ、


人の話し声が聞こえる。
ちょっとした押し問答になっているのか、押し殺した声に「ですが」とか「だからって」とか、反論するような言葉が混じっている。
うとうとしていた意識がはっきりと浮上したのは、片方の人の足音が遠ざかってドアの閉まる音が聞こえてからだった。
ベッドの傍らに人の気配があったので、一人は残っているはずだと声を掛ける。
「コンラッド?」
誰か来たのかと訊ねようとしたら、返って来た声はコンラッドのものじゃなかった。
「お、。起きたのか」
「ゆー……り?」
「なんだよ、あからさまにがっかりするなよ。傷つくだろ」
「別に……」
がっかりなんてしてないよと口ごもりながら、コンラッドを探して首を巡らせると額からタオルがずり落ちて、上からは溜息が降ってくる。
「コンラッドには、ちょうど今メシを食いに行ってもらったところだよ。おれはその間の代打だ」
「そうなんだ……」
「だからあからさまにがっかりすんなって」
「してないよ」
有利はベッドに落ちたタオルを拾って水につけると、絞り直してからわたしの額に戻した。
「コンラッドは、傍にいるって約束したから次にお前が目を覚ますまではここにいるって言い張ってたよ。病人の傍で飲み食いするのも、メシを抜くのも禁止って言って追い出したところなんだ。ダメだったか?」
「それはダメじゃない」
確かに傍にいてって甘えたけど、傍にいて欲しいけど、だからっていくらなんでもそこまで頑なに約束を守らなくても……。
「有利は大丈夫?風邪引いてない?」
「おれは元気だよ。お前も風邪じゃなくて、怪我したところから細菌が入ったんだってさ」
「感染症だったんだ……」
通りで、喉も痛くないし、鼻も出ないし、咳もしてないはずだわ。
「うん、でも重大な病気ってわけでもないから、ゆっくりしてたら二、三日で熱も下がるって。薬も打ってもらったし、すぐに良くなるよ」
「ん……判った」
どっちにしろこの熱では寝てるしかないと頷くと、有利も満足したように頷いて椅子から立ち上がった。
「ちょっとトイレに行って来る。すぐ戻るけど、眠れそうなら寝てろよ」
部屋を出る有利を見送って、天井に視線を戻すと溜息が漏れた。
寝ておけとのことだけど、眠気はあるのにさっきみたいに落ちるようにというほどは眠くない。コンラッドもいないし、今こそ眠ってしまっていいのに。
ベッドの中でごそごそと動いて寝返りを打つと、当然ながらまたタオルが落ちる。
長時間仰向けだったからか横向きになりたくて、落ちたタオルはどこかに置こうと身体を起こして、ベッドサイドのテーブルの上の桶に気がついた。
手を伸ばして桶にタオルを放り込むと、一番上の段の引き出しについた大きな紋章が目に入った。模様とかじゃなくて、紋章。
「どこかで見たような……」
わたしの部屋にこんなのあったっけ?と首を捻ったところでノックの音が聞こえた。
「あ、はーい」
「失礼します」
入ってきた人に驚いて、思わず声を上げそうになって慌てて口を押さえる。
そうだった。今回は王都じゃなくて、ウィンコット領に出たんだった。
部屋に入ってきたフォンウィンコット卿を見て、ようやくそのことを思い出す。それならここは、血盟城じゃなくてウィンコット城なんだ。
「殿下、お加減はいかがでしょうか」
「あ、はい、もうすっかり元気……は言い過ぎですけど、大丈夫です。ご迷惑をお掛けしまして……」
湖から城に着くまでの間に気を失ってしまったんだと頭を下げると、逆に恐縮させてしまったらしい。フォンウィンコット卿は布を手にした右手はそのままに、慌てたように左手を振る。
「殿下のお役に立てたことを光栄に思いこそすれ、迷惑などと!」
「ええ……ありがとうございます」
お、大袈裟だなあ……とは思ったけれど、これ以上気を使わせると悪いので、否定もせずに曖昧に微笑んでおく。立場って面倒だ。
ひとしきりのお決まりの挨拶が済むと、一瞬しんと沈黙が降りた。
「あの……失礼ですが陛下はどちらに?殿下の元へ行かれると伺っていたのですが……」
フォンウィンコット卿が部屋を見回して、気詰まりだったのかと思ったけれど、どうやら本当に有利に用事があったらしい。
右手に持っていた布から、青い石が覗いて見えた。
「あれ……その魔石……」
小さな呟きでわたしの視線に気付いて、フォンウィンコット卿は大きく頷いて石が見えるように布を持った右手をわたしの目線にまで降ろしてくれる。
「陛下の魔石です。ご入浴の際に、洗濯女が誤って濡れた御衣と一緒に運んでしまったもので、お返しに上がったのです」
「そうなんですか?」
「はい。陛下は慈悲深くもご自身が置いていた場所が悪かったのだと、我々を咎めることはございませんでした」
「いや、そんな大袈裟な……」
コンラッドからもらった大切なお守りだし、無くしたままだと有利も困っただろうけれど、何処に行ったのかすぐに判ったなら、それは怒らないと思う。
「でも珍しい……その石はいつもお風呂でも外さないのに」
どうしてまた今回に限って外しちゃったのかと石を見ていて、ふと石を嵌めている銀細工に気がついた。
さっき見たテーブルの紋章と……同じ紋。見たことがあるはずだよ。有利が持っていた魔石についた紋章と同じだったんだ。
「え、あれ?で、でもこれはコンラッドから貰ったって」
どうしてウィンコットの紋章のついた石をコンラッドが?
困惑するわたしに、フォンウィンコット卿は柔らかく笑って頷いた。
「確かにこれは我が一門の縁の品ではありますが、一族の者がウェラー卿に贈ったものなのです。そうと直接彼から聞いたわけではありませんが、守り石として伝えられていたものですから、戦場へ行く彼に贈ったのでしょう。姉らしいことだと思います」
柔らかい調子で説明されたけど、ぎくりと顔が強張ってしまった。
なんでもないように、だけど「戦場へ行く彼」と、そう。
この国はつい二十年ほど前まで大きな戦争をしていたという話は聞いているし、コンラッドの身体にたくさんの傷痕があることも知っている。
コンラッドは全部昔のことだよ、と笑っていたけれど……それでも改めて聞かされると、身体が強張ってしまう。
わたしがよっぽど怖い顔をしてしまったのか、フォンウィンコット卿ははっと息を飲んで慌てたように魔石を布で包んだ。
「口さがない者もいるようですが、姉とウェラー卿は本当によい友人でした」
「……お姉さん?」
って、確か有利がジュリアさんと呼んでいた?
どうして急に亡くなったお姉さんとコンラッドの話になるんだろうと首を傾げて、さっきのフォンウィンコット卿の説明を思い出す。
一門に伝わる守り石を渡したのは、姉らしいことだ、と。
戦争の話に気を取られて聞き流していたけれど、じゃあこの石をコンラッドに渡したのはフォンウィンコット卿のお姉さんなんだ。だから有利はジュリアさんの名前を知っていたのかもしれない。この石の、最初の持ち主だから。
「以前ウェラー卿はこの地で、練兵を引き受けて下さったのです。二年ほどの間でしたが、私も指導を受けることができました。我がウィンコットとウェラー卿はその誼があるのです。姉は歳が近いこともあって、コンラートいえウェラー卿と親しく友人付き合いを」
コンラッドとお姉さんは友人だったと強く念を押されて、なんだか逆に判ってしまった。
あー……そう、だよね。だってコンラッドはもう百年くらい生きているわけで、おまけにあんなにモテる人なんだもん。今まで恋人の一人や二人や十人や二十人はいる……よね。
そうと判っていても……こう、なんというか胸の辺りがもやもやする。
恋人がいただろうなと漠然と想像していたのと、少なくとも一人ははっきりいたと判るのとでは、やっぱり気分が大きく違う。
曖昧に笑って頷くと、フォンウィンコット卿は困惑したように眉を下げて、それから首を振って溜息をついた。
「本当です、殿下。姉には当時既に婚約者がおりました。……大変不名誉なことですが……あの、フォングランツ・アーダルベルトです」
すみません、どう不名誉なんでしょうか……とは聞けなかった。
だってあまりにも言いにくそうに、それこそ断腸の思いで事実を告げたという表情をされて、混ぜっ返すことなんてできない。フォングランツというと十貴族の人のはずなのに。
貴族の人の名誉、不名誉というのは良く判らないから、十貴族同士ならとにかくステータス的には釣り合ってるんじゃないの?……くらいにしか思えないんだけど。
よっぽど素行が悪いとかで、評判の良くない人なのかもしれない。
婚約者がいたというなら、本当にコンラッドとは友達同士だったのかなと安心したい反面、もしかして失楽園とかみたいに不倫略奪愛だから、家族としては余計に否定したいだけなんじゃ……とか嫌な想像までしてしまって、慌ててそれらの疑問を振り払う。
現在進行形の話ならともかく、過去の恋愛を下世話に想像するなんて失礼だ。
コンラッドにも……相手の人にも。
気にしていないのだという笑顔を頑張って作って、フォンウィンコット卿を見上げる。
「判りましたから、そう慌てないでください」
くすくすと声に出して笑うと、フォンウィンコット卿は頬を染めてぎくしゃくと頷いた。
「は……申し訳ありません」
「謝ることなんて、なにもないじゃないですか」
小首を傾げて下から覗き込むようにして伺うと、緊張をほぐしてもらおうと思ったのにますます緊張させてしまったのか、フォンウィンコット卿の顔が更に赤く染まる。
思わぬ話を聞いてしまったからか……ううん、たぶん話し込んでしまったからだ。
また頭がくらくらしてきて、ベッドに戻りたくなった。
目眩がして、額を押さえたまま倒れかけた。
そうと判ったのは、焦ったようにわたしを呼ぶ声と、支えてくれた手に気付いてから。
「申し訳ありません、殿下。お加減がよくないところに長々と話し込んでしまいました」
頭のすぐ上から聞こえた声に、慌てて抱き留めてくれた人から起き上がろうとしたのに力が入らない。
「無理をなさならいでください。私がベッドへお戻しいたしますから」
そうじゃなくて、面倒を掛けるのも申し訳ないけどそれだけじゃなくて!
上手く言葉にならないし、力もやっぱり入らない。
わたしに負担が掛からないように、抱えるように背中に手を回してゆっくりとベッドに寝かしつけてもらっておいてなんですが……そのせいでフォンウィンコット卿が上から覆い被さるような形になって、恩を仇で返すじゃないけど、早く離れて欲しくて仕方がない。
ごめんなさい、フォンウィンコット卿。でも早く離れてー!
と、心の中で悲鳴を上げていたら、部屋の扉が開いた。
立っていたのは、トイレから帰って来た有利と、来てたのねヴォルフラム。……それから、もう食事は終ったの?
絶句したように立ち尽くしたコンラッドが、フォンウィンコット卿の肩越しに見えた。







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