身体を洗い始めたの後ろに椅子を動かして座ると、その長い艶やかな髪を濡らしゆっくりと湯を含ませる。 「の肌は滑らかで触り心地がいいけど、髪も指通りがよくて気持ちがいいな」 身体を洗うスポンジを泡立てていたは、びくりと震えて少しだけ俺を振り返る。 「……どうしてコンラッドって……」 「ん?」 洗髪剤を馴染ませた手で、手入れには気を遣っているというの手触りのいい髪を緩く擦り合わせていると、は何でもないと前に向き直った。 ただし、口の中で呟いたらしき言葉は、唇の動きで判ったけどね。 「髪を洗うだけでもエッチなこと言うの……」 そう言っていた。 俺としては、取り立ててそちらのことを言ったつもりはなかったんだけどな。 唇から魔法、指先から愛(4) せっかく俺の言葉が艶めいて聞こえるとのことだったので、落ちた染料の色に染まる赤い泡のついた髪をくしけずるよう洗いながら身を乗り出して、の耳元に口を寄せた。 「もう少し後ろに身体を反って。頭皮を洗うのに洗髪剤が目に入るよ」 「ひゃっ」 が石鹸とスポンジの両方を取り落とした。 床に落ちた石鹸の下で、パチンと音を立てて泡が破裂する。 「ん?」 「あれ?」 よく見ると、の足元は細かい泡が山と出来ているがあまり減る様子を見せない。 「……まさか」 は石鹸を拾って両手で擦るとゆっくりと隙間から息を吹き込んだ。 の掌の間から、俺の手くらいの大きさの泡が生まれてゆっくりと空中に浮かぶ。 それを指先で軽くつつくと、泡は割れずに押された方向へ流れた。 「貸して」 の手から石鹸を受け取ると、が石鹸が置いてあった台に気を取られている隙に落ちていたスポンジを拾って泡立てていく。 「やっぱり!この石鹸は女王様の着想の商品だって書いてある。当宿のフロントでも販売しております……だって。普通の石鹸は右側だったよ。それにしてもアニシナさんって商売には興味がない割りに商才はあるよね……」 「そうだな……ひょっとしたらこういう売り込みにはデンシャムが手を出してる可能性もあるけど……ああ、でもデンシャムはカーベルニコフ地方以外にまでは口出ししないかな」 スポンジを充分に泡立てて石鹸を返すと、は新しい泡を作って遊び始める。 「デンシャムさんって、確かアニシナさんのお兄さんで、今のカーベルニコフ領を治めてる人だよね?」 「そう。とても商才に長けている人物だよ……、後ろに倒れて。うん、俺にもたれるように。髪を洗うよ」 目に洗髪剤が流れ込まないように、首を倒してもらって頭皮を擦りながら髪の色も落としていく。 この体勢はの負担になるから急いで、だけど染料を残さないように注意して洗うと、湯で一気に洗髪剤を流した。 「色、落ちた?」 「……うん、綺麗に落ちてる」 の髪を手にとってじっくりと眺めても、艶やかな闇色に混じりけはない。 俺から身体を起こしたがスポンジの存在を思い出さないように、脇に避けて置いていたそれを手にとって後ろから息を吹いた。 割れにくい泡が息に乗って流れると、は楽しそうに笑ってそれを両手ですくった。 「この石鹸で泡風呂とかしたら面白そう。グレタと一緒に遊ぼうかなー」 「あの泳ぐ玩具と一緒に?」 「うん。泡は割れにくいけど美肌効果は抜群だって書いてあるし、泡風呂って一度やってみたかったんだよね」 黙っての背中を洗い始めるけど、石鹸に気を取られているは特に不満を言ってくることもない。 「グレタとも入るなら、大きな泡を作ると喜ぶんじゃないのかな?」 「『とも』って……」 「もちろん、俺と二人でも楽しんでくれるんだろう?」 少し振り返ったに笑顔でそういうと、僅かに顔を赤くして前を向く。 「あ、泡風呂は浴槽を洗うのが大変だから、そんなに何回もしないもん」 「侍女たちに洗わせるのが心苦しいなら、その後の浴槽は俺が洗うから。ね?」 石鹸を手に新たな泡を作って両手を割れにくい泡だらけにして遊んでいるは、俺の手にしたスポンジが背中から前に回っても怒らない。 の気を完全に引いてくれた石鹸を置いていた宿に感謝するべきか、こんな石鹸を開発していたアニシナに感謝するべきか。 「、もうちょっと手を上げて……そう」 脇から下へとなぞり、極力の遊びの邪魔にならないようにしながら首を洗い、その下へと行くと……さすがにバレた。 「え……あっ、ちょ、ちょっと!」 「暴れちゃ駄目だよ。泡で滑りやすくなってて危ないからね」 「だ、誰のせい……スポンジ返して!」 「しょうがないなあ」 が俺の手からスポンジを奪おうと躍起になっているので、椅子から落ちたら危ないという立派な大義名分の元、を俺の膝の上に抱き上げて移動させる。 「コンラッドー!」 「は石鹸で遊んでていいよ。俺が隅々まで綺麗に洗うから」 「い……いい!いらない!自分で洗える!コンラッドは髪だけの約束でしょ!?」 「約束はしてないよ。髪を洗いたいとお願いしたら、いいとが言ってくれただけで」 「そっ……」 絶句したに、そろそろ本気で怒らせる前に止めておこうと耳朶にキスをする。 「ちゃんと普通に洗うよ。いやらしいことはしない。露天風呂でそんなことをしていたら、大事なが風邪をひくからね」 「……それなら普通に自分で洗わせてよ……」 はようやく諦めたように、俺の膝の上で大人しくなった。 俺の手で優しく洗ってあげたかったけど、それは激しく拒絶されてしまったので、仕方なしにスポンジを使って手の指先から足の爪先までを洗い、泡を流すとは俺の腕から逃げ出すようにして浴槽に行ってしまった。 「もう!コンラッドってどうしていつもそうなのよ!」 肩まで温泉に浸かり、浴槽の石に手をついてかなり警戒態勢だ。 今度は普通の石鹸で自分の身体を洗いながら、俺は軽く肩を竦めた。 「心外だなあ。大切なに少しでも触りたいと思うのは正常なことなのに」 「限度があるよ!コンラッドは絶対に異常!」 「そうかな?じゃあは俺に触りたいと思うことはない?」 「ない!」 きっぱりと言い切ったは、目を丸めた俺の顔を見てぱっと両手で口を押さえた。 どう見ても、どう聞いても勢いで言ったと判るそれにはさすがに傷付きはしなかったけど、はどうやら言い過ぎたと思ったらしい。 「あ……の……」 恐る恐ると声を掛けられて、溜息をついてみせる。 「そうか……それじゃあには俺が異常に見えても仕方ないな……」 「あの……コ、コンラッド……?」 もう一度溜息をつきながら、泡を洗い流すと浴槽のの元へ移動した。 ただし、さっきまでとは違って僅かに距離を空けて湯に沈む。 「えっと……コンラッド……お、怒った?」 おずおずと、湯の中から僅かに覗く指先を捏ねながらが困ったように首を傾げる。 その可愛らしい仕草に、俺は触りたいのを必死で堪えるために湯の中で拳を握り、だが顔には苦笑を乗せて首を振った。 「少し自重するよ。に嫌われたくないから」 「き、嫌いになんてならないよ」 「でも、いやなんだろう?」 「い……や……なのは、触りすぎることだけだし……」 「うん。だから自重するよ」 は困ったように口をへの字に曲げた。 俺は笑いたいのを必死で堪える。 じゃあ好きなだけ触っていい、とは言えずどうすれば落ち込んだ俺を励ませるのか考えているのだろう。だが、程度というものを口で説明するのは難しい。 沈黙は長くはなかった。 水滴が湯に落ちた音を聞いて、が後ろを振り返る。 どうしたのだろうとこれには本当に気を取られかけたが、次に俺に向き直ったは、自分から距離を詰めて、湯の中で俺の腕を掴んだ。 「浴槽にいるときは……スタツアしちゃうかもしれないから……」 元々家族風呂を予約した、最初の理由がそれだった。 がそれを本当に恐れたのか、口実にしただけなのかは、微妙なところで判らない。 「……それじゃあ勢いに飲まれた時にはもたないよ」 俺がそう言って両手を広げると、自身でそっと俺の胸に寄り添ってきた。 その細い身体を、腕の中に閉じ込める。 「このヒルドヤードにいる間は、こうやって風呂でも抱き締めていいんだね?」 「ヒルドヤードの、お風呂の中にいるときだけよ」 「ベッドの中は?」 「……バカ」 は真っ赤になって、だけど俺から離れるわけではなく胸に顔を埋めてしまう。 「もしもあっちに帰されそうになっても、絶対に離しちゃいやだよ」 「離さない。それであちらに一緒に流されても嬉しいしね」 ニッポンでも一緒にいられると、俺が洗った黒い艶やかな髪にキスを落とすと、は俺から顔を上げて、それからくすくすと声を立てて笑った。 「うん。わたしはそれでも嬉しいな」 そんなに笑うことを言っただろうかと考えて、ふと今回のとユーリの到着の仕方を思い出した。 ユーリはヴォルフに締め上げられていたし、俺は非常に拗ね、いろいろとごねてを困らせた記憶がある。 もう二ヶ月ほど前のことだから忘れていた。 今回、とユーリは一緒に風呂に入っている時にこちらに流されたんだった。 「スタツアはいつも、行った時と同じ状況で帰るんだよ」 有利とコンラッドとわたしで混浴なんてなったら楽しいね、とは笑った。 |