疲れきってすやすやとベッドで眠る恋人の頬を一度撫でて、コンラッドは服装を整えた。 とはいえ、ベッドの下に脱ぎ散らかしていたそれは皺になっていて、有利の元に戻る前に一度着替えておくべきだろう。 恋人の寝室を後にする前に、涙の跡の残る頬に口付けをする。 こんなにも酷く泣かせてしまった。 他の男に告白されておきながら、その意味に気付かず笑顔で応えた恋人に腹を立てて、そして自分の存在を知っていても、なおに想いを寄せる男の存在に焦りを覚えて、人目につくかもしれない場所でを犯そうとした。 今になって思えば、あれは紛れもない強姦だ。もしあの時、が子供のように大声を上げて泣き出さなければ……今までのように声を堪えて泣くだけなら……あのまま犯していたかもしれないと思うと、今更ながらにぞっとする。 そんなことになっていれば、今度こそ本当にに憎まれたかもしれない。 彼女の過去の最悪の記憶を呼び覚ますような行為だ。たとえ途中で思い止まったとしても、嫌われても無理はないような真似をしてしまった。 反省したからといって、彼女を傷つけたことに変わりはないけれど、は許してくれた。 いや、正しく許したわけではないだろう。 他人に見せつけるために犯されそうになった恐怖と、力で捩じ伏せて身体を暴かれそうになった恐怖を、大切に抱かれることで少しでも打ち消したかったに違いない。 だがそれでも、コンラッドのことを拒絶するのではなく、優しく抱いてとお願いしてくれたことが嬉しい。 うやむやになってしまった話を一から、今度こそ落ち着いて話して注意と、そしてコンラッドは許しを請わなくてはいけないのだが、そろそろ職務に戻らなくてはいけない。 休憩時間はとっくの昔に過ぎている。 今は、有利の護衛を外れて自分の隊の指導をするための時間だったのだが、完全に放り出してしまった。もう有利の側に戻る時間だ。 「めちゃくちゃだな……」 責任のある立場でありながら職務放棄、それも恋人を抱くためで、副官に連絡すら入れていない。こんなことが公になれば、魔王陛下の護衛の任を剥奪されても仕方がない。 自分がしたことを思えば、が目を覚ますまで側にいたいのだが、そのためにはせめて一度有利の元に行き、それなりの理由をつけて抜け出す許可をもらう必要がある。 何度も抱いて疲れきったを一度起こすというのは、以ての外だ。 「ごめん…………陛下に許可をもらってくるから……」 一度職務に戻らなくてはいけない旨をメモに残してサイドテーブルに置くと、リボンで拘束した跡の残る手首にキスをして、寝室を後にした。 精神安定剤(6) 寝室を出てリビングに移動すると、床には途中までを拘束していたリボンと、破り捨て紙屑と化した手紙と、そして稚拙な指輪が落ちていた。 コンラッドは溜息をついてリボンを拾い、申し訳ない気持ちで手紙だった紙を拾い集めて、一瞬だけ手が止まった。 たまたま封筒の破れた部分から覗いた手紙の一部が読めたのだ。 間違いなくの字で、「あなたが好きです」と。 思わず紙を握り締め、寝室に向かいかけた足を止めて深呼吸する。だから、の態度からして、これは臣下からの敬愛に応えただけのセリフだ。その危うさを説き伏せるためには、コンラッドも落ち着いておく必要がある。そこはぐっと堪えて手紙だった紙を捨てるだけに留めた。 そして最後に、舌打ちと共に指輪も拾った。 いっそこの指輪もゴミ箱に捨ててしまいたいが、それはコンラッドの勝手が過ぎる。これを贈られて喜んでいたの気持ちを思うと、どうか使用は決してせずに机に仕舞っておくようにという交渉をするべきだ。少なくとも勝手に捨てるものじゃない。 リボンと並べて指輪をテーブルに置くと、の部屋を出た。 後ろ手に扉を閉めると、そこに背中を預けて天井を見上げ、溜息をつく。一瞬でも指輪を勝手に捨ててしまおうと思うなんて、まだ反省が足りていないような気もする。 どうしようもない男だな、と自嘲を漏らした所で、コンラッドは凍りついた。 なぜなら。 「あ、コンラッド」 廊下の向こうから、有利に声を掛けられた。 ぎょっとして首を巡らせると、有利が後ろにヨザックを従えてこちらに向かって駆け寄ってくる。ヨザックにしては珍しく顔色は蒼白で、足音がうるさい。有利と二人分の駆け足の音が聞こえた。 「ユ……陛下……」 「陛下って言うな名付け親。それで、になんかあったの?」 「えっ!?」 心臓が跳ね上がった。 彼女に何をしたか、知られたのかと思った。 だがそれにしては、有利の表情には心配そうな色が見えるだけで、怒りの様子はない。 「コンラッドがすごい勢いでを連れて行ったって聞いて心配してきたんだけど……何があったんだ?」 「連れて……?」 どうやら誰かが窓辺でのコンラッドの暴挙を目撃して有利に報告したわけではないらしい。それはそうだ。それにしては、有利が駆けつけるのが遅すぎる。 だが、部屋まで連れて戻ってからも随分時間が経っているはずだが……。 有利の登場に動揺していたコンラッドは、その時初めてヨザックの後ろにもうひとり、人の気配を感じた。そこで気付く。さっき聞こえたのもヨザックの駆け足の音ではなかった。 ヨザックに視線を向けると、青褪めた顔色で脇に避けた。後ろにいたのは、あの栗色の髪の兵士だ。おろおろと落ち着きなくコンラッドと有利を交互に見ている。 殺気を込めた視線を叩きつけたのは一瞬で、すぐに表情をどうにか消した。 「陛下と姫の部屋に続く廊下に差し掛かるところで、ずっとうろちょろしてたらしくてね……陛下がお声をかけたら、今の話を……」 殺気を込めたのはほんの一瞬だったので、当の兵士本人は悪寒を覚えただけで、その理由が判らなかったらしく忙しく左右を見ているだけだが、関係のないはずのヨザックが気付いていて、説明の声も小さい。 一般兵士では有利やの私室に許可なく近づくことはできない。 コンラッドの剣幕にを心配して遠くからずっと様子を窺っていたらしい。 窺っていたのが廊下からでよかった。外からなら、を窓際に拘束したところを見られていたはずだ。もしそのことが有利の耳に入っていたら……想像するだけでも恐ろしい。 「は?部屋にいるんだろ?」 「……ええ、その……は、調子を崩して今は眠っていますので」 「え!調子を崩してって大丈夫なのか!?ギーゼラとか呼ばなくて平気?」 「大丈夫です!そこまでではありませんから!」 もしギーゼラを呼ばれたら大変だ。最終的には合意の下で、愛を確認し合いながらの交渉だったが、が眠っている現状を見られたら、どう好意的に見積もってもコンラッドが無理やりに犯したようにしか見えないだろう。 盛大に泣いたことが判る上に、手首には紐で拘束した鬱血があるし、二の腕にだってここまで引き摺って帰ってきたときに掴んでいた指の跡が赤く付いている。 「眠れば大丈夫だろうと、思います」 「そう?あんたがそう言うなら大丈夫だろうけど」 コンラッドがのことではどれほど心配性なのか判っている有利は、その言葉であっさりと引いた。良心が非常に痛む瞬間だった。 だが安心するのはもちろん、まだ早い。 「それで、なんでを連れてったの?」 その問題が残っている。 「ちょっといいですかー?」 ヨザックがそっと手を上げて有利に注進する。臣下が主君の話を遮るなどありえないことで、一緒にいた兵士は目を見開いて驚くが、有利は何か意味があるのだろうかと気軽に頷く。 有利の許しを得て、ヨザックは半ば祈るような目で親友を見た。 「……隊長は姫に急ぎの用事があったんだよな……?この『迷子の親』と姫の会話に問題があったわけじゃなくて」 ヨザックは迷子の親と強調して、兵士を指差す。 迷子の親……? 「さっきからこの『迷子の親』はそれを気にしててさー、先に聞いておこうかと……」 ヨザックが有利を見ると、有利も頷く。 「そうそう、もうこの人ずっとおっかなびっくりでさ。この間のイベントで、迷子になった子供が優しくしてくれたのことをすごい好きになってて、お礼に手紙書いて、指輪を作って添えたんだって。ほら、きっとグウェンが言ってたやつだよ。恐る恐るに差し出したら、喜んで受け取って貰えたけど、やっぱり子供が作ったから下手だし、何よりコンラッドとか、それなりの相手を通さずに直接渡しちゃまずかったのかって、怯えまくりで。コンラッドからも違うって言ってやってよ」 一瞬、本気で意識が飛んだ。 背中が扉に寄りかかって、倒れかけたのだと判る。 コンラッドが瞬間的に気絶したことに気付いたのはやはりヨザックだけで、そしてそれだけでヨザックは、大体のことを把握したらしい。少なくとも、コンラッドがを連れ去った理由だけは掴んだようだ。 青褪めていた顔に、今にも泣き出しそうな表情が浮かぶ。 かつては尊敬を……今でもそれなりに……していた相手の、あまりの心の狭さに情けなくなったのだろう。あるいは、こんな男を尊敬していたのかと、自分が情けなくなったのかもしれないが。 コンラッドは視線を彷徨わせて、しばらく考えてから咳払いした。 「あー……陛下、やはり臣下が直接物を献上するということは、あまり感心できません」 「え、じゃ、じゃあ……」 有利は心配そうに兵士を振り返った。彼はもう顔色がないくらいに恐れをなしている。 「いえ、もちろん既にしてしまったことを咎めはしません。受け取った本人は喜んでいましたし……ただやはり、これからは注意した方が良いだろうというだけのことで」 「も、申し訳ありませんっ!」 兵士が弾かれたように直角に腰を折り曲げて、有利はコンラッドを取り成しながら兵士も宥めようとする。 「そんな厳しいこと言うなよー……君もさ、もう終わったことはいいって言ってるんだから謝んなくても。ほら、お礼を渡すのは好意なんだし」 「は……はい……ですが申し訳ありません……」 「ところで……」 コンラッドは再び軽く咳払いして、どうしても気になっていたことを兵士に尋ねる。 「……あの子供は母親を呼んでいたが……どう見ても、母親はではない、よな?」 「え?あ、はい!じ、自分はあの日任務についておりましたので、休暇を戴いた医療部の妻が付き添いをしておりました。妻が目を離したせいで、殿下にはとんだご迷惑を……」 そうか、そういうこともあるか。夫婦で揃って血盟城に勤めているなんてことも……確かにあるだろう。 「ですがあの時、閣下が自分に殿下の警護を命じてくださったお陰で、殿下のお手を煩わせてしまった時間が少なくて済んだのが、せめてもの救いです」 言われてようやく思い出した。 そうだこの男は、有利に何かあったのかと思って自分はグラウンドの方に向かい、の警護に向かわせた二人の兵士のうちの一人ではないか。 だからはすぐに親を見つけることができて、さっさとグウェンダルの所に逃げて行ったのだ。 は少しも嘘をついていなかったわけだ。そして、男の好意を勘違いしてもいなかった。 勘違いしたのは、コンラッドだ。 背中に軽く扉が当たって、また倒れそうになったのかと思った。 |
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