昨日のイベントで子供達に野球の楽しさを少しでも伝えることができて、魔王陛下は上機嫌だった。
そうでなくても恋愛の機微には疎い有利はあまり気に掛けなかっただろうけれど、後に彼の証言するところ、機嫌が良かったから何気なく見過ごしたんだということらしい。
何をしたのかは教えてくれなかったけれど、現在有利の背後で気落ちしている名付け親に腹を立てて一日姿をくらますと宣言していた妹が、迂闊にも中庭にいるところを発見した。
一瞬、どうやってコンラッドに見つからないよう誤魔化してやろうかと考えたが、昨日の様子でも本当のところは姿を隠すほど怒っていたわけではなかった。
本人曰くはケジメのためということだったし、見つかったら見つかったでいいのだろうと放置しておくと、何かを話し合っていたらしい栗色の髪の兵士に気安げにひらひらと手を振って別れて、またどこかに行ってしまう。
有利が気を回す必要はなかったように見えた。



精神安定剤(2)



それに最初、遭遇したのはフォンビーレフェルト卿ヴォルフラムだった。
魔王陛下が開催したイベントは盛況のうちに幕を閉じ、しばらく城内でその話題が上がっては陛下の懐の広さを讃える声がそこかしこから聞こえて、婚約者として鼻が高かった。
それも一週間ほどすると廊下を歩く度にその話を聞くようなことはなくなったが、どこか城内の雰囲気は明るくて、やはり誇らしく廊下を闊歩していた。
そこで見つけたのは、中庭の東屋で手持ち無沙汰にぼんやりとしているの姿。
他意はなく、コンラッドも有利も側にいない様だったので、護衛兼話し相手になってやろうというくらいの気持ちだった。

東屋のすぐ側まで近付いてから声を掛けると、はぱっと振り返ってそれから存外に失礼なことを呟く。
「なんだ、ヴォルフラムか」
「なんだとはなんだ!」
「う、ごめんなさい。人を待っていたからつい」
またコンラートか。
が待ち合わせするような相手は、兄の有利か恋人のコンラッドか、未来の義兄のヴォルフラムくらいしかいない。グレタがいればまた話は別だが、生憎と彼女は現在カヴァルケードに行っているし、グウェンダルとアニシナは外で待ち合わせるよりそれぞれが普段いる場所にこちらから訪ねていく。ギュンターならを外に呼び出すこと自体できないだろう。
それ以外の者で王妹殿下と『待ち合わせ』できるような者はいない。『お目通り』を願うことはあっても。
有利は現在執務中だから、消去法でコンラッドになる。ヴォルフラムがそう考えたのも無理はない。
「そうか。じゃあぼくは行くが、あいつが来る前に人気のない場所に一人で行くなよ」
「あいつって、ヴォルフラム知ってるの?」
「わからないわけないだろう」
馬鹿にしているのかと一言残して廊下に戻る。
有利の執務室に向かおうと歩き出し、廊下を走ってくる若い兵士を見つけて眉をひそめた。
「おい、貴様」
「え?あ、はっ!なんでありましょうか、ヴォルフラム閣下!」
呼び止められた兵士は栗色の髪を揺らして左右を見て、廊下に自分しかいないことを確認してから敬礼を取る。
「緊急事態でないときに、落ち着きなく廊下を走るな。血盟城に仕えるものとして、常にあるべき姿を忘れるな」
「はっ!申し訳ありませんっ」
うん、と重々しく頷いて、敬礼する兵士の前を通って歩き出したヴォルフラムは、廊下の角を曲がる前に少し振り返ってみた。
走ってはいないが、早足で廊下を進んでいた兵士はトイレにでも行くのかと思っていたのに中庭に降りて行く。
それにしても、あんなところでを一人待たせるとは。
確かに気持ちがいい天気ではあるが、それなら彼女を部屋まで迎えに行ってから一緒に散歩でもすればいいじゃないか。
未来の義兄として、彼女の為にあいつには一言言ってやらねばならいと考えた。


その稚拙な指輪を見つけたのはフォンヴォルテール卿グウェンダルだった。
幼馴染みの危険な実験から逃走していたグウェンダルは、廊下の角を曲がったところで小さな人影と正面からぶつかった。
「きゃっ」
当然ながらグウェンダルには大した衝撃ではなかったが、ぶつかった相手は廊下に尻餅をつく。同時にカツンと硬い物が石床に落ちた音がした。
「すまん、。怪我はないか?」
「大丈夫です。またアニシナさんから逃げてるんですか?」
事実を言い当てられて微妙に難しい顔をしながら、腕を掴んで軽い身体を引き上げると、足元に赤い小さな石のついた指輪が落ちていた。
グウェンダルが屈み込んで拾い上げる。
赤い石と銀色の台座。
だが赤い石は宝石ではなく、色こそ珍しいがただの石だったし、台座も本物の銀ではなく、おまけに形も少し不恰好だ。
明らかに手作り、しかも相当不器用な者の手作りの指輪は、とてもではないが殿下という身分のが持つようなものではない。
不審そうな顔をするグウェンダルには小さく笑った。
「貰ったんです」
こんなものを?
言いかけた言葉を慌てて飲み込んだ。
目の前の少女は本当に嬉しそうに笑っていて、そこに水を差すような真似はグウェンダルにはできない。
上の弟の手先が器用だとは聞いたことはないが、ここまで不器用だとは思わなかった。
だがそんな物でも恋人からの贈り物なら嬉しいのか、は嫌な顔ひとつしない。
そう言えば今彼女の耳を飾る琥珀のイヤリングは、彼女が歓楽街で弟にねだって買ってもらったものだという。
そちらは石や台座こそ本物の宝石や銀でできているが、やはり分類すれば安物の部類に入る。
そんなものでも遠慮していたという話だから、不恰好でも手作りなら喜びもするだろう。
兄妹揃って質素だと、呆れながらも好ましい思いでグウェンダルはその指輪を彼女の手に返した。
だが、弟には一言何か言ってやらねばなるまい。
本人が喜ぶから手作りの品をプレゼントするにしても、限度があると。
そう決めながら、当面は赤い悪魔の実験から逃れることに専念しなければならなかった。


決定打を知ったのは、グリエ・ヨザックだった。
「ああっ!ヨザックさん、取ってっ」
敬愛する主君の妹君からの要望に、風で飛ばされてきた紙を逃すことなく軽々と掴み取る。
昨夜、親友に捕まった酒の席で聞かされた嘆きは、恋人に昼間は過剰な接触も夜の約束を取り付けるがごとき言動も禁止されたというものだった。
それなら夜に、と会いに行けば彼女はもう眠っていたとか、更にはつい先日怒られたので、もう一週間も禁欲していたとか、酔った男の軽い愚痴に付き合わされたヨザックは、微妙な気持ちで走ってくる少女に自分からも歩み寄った。
「ありがとう、ヨザックさん。昨日、外にいたら気持ちよかったし、今日もいい天気だったから外で書いてたら、急に強い風が吹いて飛ばされちゃって」
可愛い笑顔でお礼を言う彼女は、酔った恋人が友人に夜の話を零したなどと知る由もない。
それでも普段はああいうことをペラペラ吹聴して回る男ではないので、フラストレーションがそれなりに溜まっているのだろうと思うと、どっちに同情すべきかわからない。
「いえいえ、お安い御用ですよ。あれ、手紙ですか?」
手の中の紙を返そうとして、見えた一文にヨザックは非常に背中が痒くなった。
咄嗟に読めたのが一文しかなかったのは、彼女の字がまだ上手くはないからだ。違う文化で育ったというは、文字も常識もまだまだ勉強中だ。
は慌てたようにヨザックから紙を取り上げて、隠すように後ろに回す。
「……見ました?」
「ちょこっとだけ……」
「恥ずかしいから内緒ですよ」
親指と人差し指を僅かに離した小さな円を作って示したヨザックに、も人差し指を唇に当てて静かにするようにという仕種で内緒と示す。
可愛らしい動作に、先ほど見た一文も照れくさいより微笑ましくなる。
「わかりました、内緒ですね?」
ヨザックがの仕種を真似て指を口に当て、二人で笑ってその場ですぐに別れた。
手紙を胸に抱いて走っていく小さな背中を見送りながら、ヨザックは見てしまった可愛い一文を口に出す。
「『わたしもあなたが好きです』かあ」
本当に、可愛らしい。
酔った友人曰くは、愛らしくていとおしくて堪らないから、つい手を出してしまって怒られる……と聞いているが、あれは確かに抱き締めたくもなるだろう。
恋人同士になってから久しいという時に、手紙で改めて告白……。
面と向かうと恥ずかしいから、恋人の過剰な愛情に対してああいう形で応えようということなのだろうと思うと、他人事ながらいじらしい。
「羨ましい男だよな、実際……」
ヨザックの好みはもう少し気の強い感じの美女で、普段のでは面差しが優しすぎるのだが、国では王と並ぶ有数の美貌の持ち主である。神秘的な双黒ということを差し引いたとしても、容姿だけでお釣りがくるのに、あんなに可愛らしいことをしてくれるなんて、彼女の心を射止めた男に改めて羨望を覚える。
彼女の貞操観念が固いと嘆いている贅沢男には、勿体無い純真さではないか。
「最初の恋人が隊長っていうのは、相手が悪かったかねえ」
それでも奥手の可愛らしい姫君の為に、そして友人本人の為にも、もう少し余裕を持って待って差し上げろと一言言ってやるのも友情かと考えた。








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