当代魔王陛下は下々に対してまで気安いことで有名だ。
そんな魔王ユーリ陛下はその日、城内に働く者たちの子供を呼んで特設球場を開放した。
この魔王陛下プライベート球場の開放は急遽決まったことで、残念ながら王都もしくはその周辺に家族が住んでいる者だけ参加可能の催しとなったが、身分の上下に関係なく子供を王城に招けるとのことで、かなりの賑わいを見せた。
球場内で出来る遊びは限定しなかったものの、魔王自らが子供達に投球やバッティングを教える野球教室がもっとも人気が高かったのは当然だろう。
城の警備に問題が出かねないこの催しにフォンヴォルテール卿はよい顔をしなかったが、普段から一生懸命働いてくれている人たちがいるから、城の運営は成り立っているんだ、その慰労だと有利は主張を押し通した。その根底には野球人口、特にスポーツ界の未来を担う子供たちの野球人口が増えてくれればという願いがあったことは内緒だ。
それでも、有利はこの催しの時間を作るために、いつになく真面目に一度も脱走することなく政務をこなし続けたし、おまけに当日、小さい子供達がじゃれ合って遊んでいるという光景を目にして、結局グウェンダルも悪い気はしていないようだった。
自分の子供が来ている者は基本的にこの日は仕事が免除となって、子供達と過ごすことができたのだが、ローテンションの関係上、どうしても任務についている者もいる。
それでも警備に対する信頼はいつも以上に揺らいでいるため、魔王とその妹にはベッタリと護衛がついていた。
それぞれの婚約者が。



精神安定剤(1)



スタンドでベンチに座り、魔王陛下の野球教室を眺めていたは、愛する兄の勇姿を見ているというのに不機嫌だった。
そもそも有利が夢中になるので野球はあまり好きでないということもあるが、基本的に有利が愛しているものを嫌うことのできない彼女にとって、野球は好きではなくても嫌いではないため、見ているだけで不機嫌になるということはない。
では何が問題かというと、座っている椅子に非常に不満がある。
「コンラッドさーん」
「なんですか、俺の姫君?」
「なんですかじゃないよ!なんでこんな態勢なの!?」
王妹殿下の椅子はウェラー卿の膝だった。できるだけ身体を離そうとしているのに、後ろから腹の上に置かれた手が、隙間が空くことを許さないとばかりに抱き締めてくる。
「だって、今日は人の出入りが激しいのに、非番の者も多いから警備が万全とは言えないしね。こうして側にいないと」
「限度があると思う!これじゃホントの人間椅子じゃないっ」
「俺は人間じゃなくて魔族だよ」
「そういう意味じゃなーいっ!」
膝の上から降りようと躍起になっている恋人に、コンラッドは背後で笑いを噛み殺していた。
側にいる限度などと言わず、この態勢では咄嗟の時に対応が一歩遅れるだろうと言われれば、反論のしようもなかったのに。彼女はどうやらそのことに気付いていない。
「そんなに恥ずかしがらなくても、こんな風に座ることだってよくあるじゃないか」
「『よく』はない!それにここには人目が……特に子供の目があるの!」
「そんな風に暴れたら、余計に注目されると思うけど?」
途端にはぴたりと動きを止める。
可愛らしいその様子に、喉の奥で笑いを堪えようとしながら、後ろからそっと耳元で囁いた。
「よくあるよ。昨夜のことを忘れた?もっとも、あれは正面から向き合って、も強く俺に抱きついてくれてたけど。夢中だったから記憶に残ってないかな?」
その囁きに、の頬にかっと熱が篭る。
こんな日の高いうちから!
情事の話をするなんて!
それまで腹の上で硬く指が組まれている両手を解こうとしていたは、方針を変えた。
鋭い肘鉄が右胸に入り、コンラッドは呻いてつい手を解いてしまう。
「まっ……!」
ほぼ密着状態で、あまり距離がなかったのが幸いした。おかげで少し息が詰まっただけで済んだ。充分なスペースがあれば、彼女は胸ではなく鳩尾を狙っていただろう。それではいかにルッテンベルクの獅子とはいえ、悶絶してしばらく呼吸困難に陥ることは免れない。
それほど容赦のない一撃だった。
自由になった途端にスタスタと歩いていく恋人を慌てて追いかける。
、待ってくれ。言っただろう?いくらヴォルフがついているとはいえ、今日の状況では俺は陛下のことが目に届く位置からは動けない。でもの警備も俺がしたいから、側にいて欲しいと……」
「結・構・で・す!警備する人が一番危険なんて話、本末顛倒。そんな護衛はいりません!
ゆーちゃんの警護をど・う・ぞ!しっかりなさってくださいな、ウェラー卿」
腕を掴むと、乱暴に振り払われる。
「ごめん、反省したよ。ちょっと調子に乗りすぎた。昼間からの側にいられる口実ができたのが嬉しくて」
スタンドを出て行こうとしたを、今度は後ろから閉じ込めるようにして抱き締める。
上から覆い被さるように抱き締めてくる恋人の甘えた様子に、少しは怒りが収まったのかはその腕に手をかけて少しだけ斜め上を振り返った。
「わたし、エッチなことばっかり言う人キライ」
「本当に悪かった。今夜はこうやって後ろからがいいかと思ったんだけど、こういう話は夜、ベッドの中で言うべ……ぐっ」
顎を無理やり押し上げられて舌を噛む。
「しばらく触るの禁止!」
「そんな手厳しいこと言わなくても……」
噛んでヒリヒリする舌を冷やすように息を吸いながら恋人を宥めようとすると、近くから子供の泣き声が聞こえてきた。
「マーマァー!」
とコンラッドが同時に首を向けると、小さな子供が両手で目を擦って泣きながら歩いている。
母親と逸れたのだろうと考えていると、恋人に閉じ込めていた手の甲をつねり上げられた。
一瞬のことでつい痛みに力を緩めると、は腕の中から逃げて子供の方に行ってしまう。
「どうしたの、ママとはぐれたの?」
人間で言うところの三歳くらいに見える子供だが、恐らくそう見た目と年齢は離れていないだろう、というのがコンラッドの見立てだ。ヴォルフラムのような純血の魔族は本当に成長も緩やかだが、一般市民であの年頃ならまだ成長速度は人間の三分の二程度のはずだ。
血の濃さによれば、混血でもないのに人間とまったく変わらないこともある。
赤茶色の髪の子供は、目の前にしゃがみこんで視線の高さを合わせたに驚いて一旦泣き止んだが、すぐにまた涙を浮かべての首に腕を回して泣き始めた。
「ママがいなぁいっ」
耳元で大声を上げて泣かれると頭に直接響く。
うっと顔をしかめたは、けれどすぐに宥めるように子供の背中を軽く叩いた。
「大丈夫、お姉ちゃんが一緒に探してあげるからね」
「え、待ってくれ、迷子なら警備の者を呼んで親を捜させるから……」
「大丈夫だよ、こんなに小さい子なら一人で遠くまで歩いてきてないと思う。きっとこの辺りにお母さんもいるって。ちょっと行ってくるから、コンラッドはちゃんと有利のこと見ててね」
冗談じゃない。これだけ人目が多いなら、有利の方がまだ心配はない。
は小さな掛け声で力を込めて子供を抱き上げると、外へと階段を降りて行ってしまう。
後を追おうとしたら、グラウンドの方でわっと大きな騒ぎが起こった。
反射的に振り返って血の気が引いた。有利が地面にうつ伏せに倒れていたのだ。
コンラッドの目に、ちょうどスタンドを巡回していた兵士が二人映って、慌てて遠ざかりつつあるの背中を指差した。
「殿下を追え!迷子の親を捜していらっしゃる!子供ごとでいいから保護して絶対にお側から離れるな!」
「はっ!」
慌ててを追う二人の兵士に背を向けて、グラウンドに出るのに近道だと正規の道ではなく、スタンドを駆け下りてフェンスを飛び越える。
「ユーリっ!」
「いてて……ヴォルフ、お前なっ」
有利が頭を押さえて勢いよく起き上がったのは、コンラッドがグラウンドに足を着けるのとほぼ同時だった。
「おれを攻撃してどうする、おれをーっ」
「お前がそんなところに座っているのが悪いんじゃないか」
「スィングでキャッチャーに当たるとしたら普通はグローブだろ!?なんで後頭部にバットがくるんだよ!フルスィングだったらやばかったぞ!?」
……ヴォルフラムが側にいながら、と一瞬思ったのに……ヴォルフラムがいたからだったらしい。
「立ち位置がおかしいんだよ!バッターボックスの中に入れ、中にっ!……あれコンラッド、は?」
スタンドにといると言っていたはずの護衛がすぐ側で情けない顔をして立っていることに気がついて、有利は婚約者に悪態をつくのをやめてコンラッドの周りを見回した。
「……は迷子になっていた子供の親を捜しに……」
「なんだそりゃ。付いて行かなきゃダメじゃん。野球を教えるのを手伝ってくれたら助かるけど、どうせの護衛がしたいんだろ?あいつも暇だろうし、ついててやってよ。おれにはヴォルフ……は不安でもヨザックもほら、あそこにいるから大丈夫だよ」
「ぼくの何が不安だというんだ!」
「今おれに攻撃したばっかだろ!?」
コンラッドは額を押さえて軽く溜息をつくと、王のお言葉に甘えて護衛隊の指揮を副官に任せてから恋人を迎えに戻った。


ところがはどこにもいなかった。迷子の親を探しているのかと球場周辺をぐるりと見て回ったが、本人に会うどころか目撃情報すらない。城の中なので髪も目も染めてはいないから、見過ごされたなどということは絶対にありえない。
有利の方の騒ぎが身内の不始末だったので、賊が入り込んでいたわけではないと気楽に構えていたのが甘かったのかと身が凍るような思いが駆け抜けたちょうどその時、の護衛を言いつけた兵士のうちの一人が呑気に城から球場に向かって歩いてくるのを発見した。
「殿下はどうした!」
駆けつけてくるウェラー卿の剣幕に、普段あまりウェラー卿と接することのない部隊違いの兵士は飛び上がった。
栗色の髪の兵士の方が見当たらないが、まさかたった一人での護衛をしているわけではないだろうな、絶対に離れるなと言いつけていたのにどういうことだ、と口ほどにものを言う眼光で見据えられて、先ほどまでのんびりしていた兵士は震え上がる。
「ほ、報告しますぅ!」
兵士の声が奇妙に裏返って捻れて震えていたが、コンラッドは睨み据えたままだ。
「聞こう」
「殿下は子供を親元にお返しになった後ぉ、城に戻ると申されましてぇ、我々の説得空しくグウェンダル閣下の執務室に向かわれましたぁ!じ、自分はグウェンダル閣下の執務室までお送りした後、もう大丈夫なので持ち場に帰れと殿下の命を受けて戻るところでありまぁす!」
「グウェンダルの?」
意外な報告に驚いた。迷子を見つけた寸前まで怒っていたから部屋に戻ってしまったというのならまだ判るが、なぜグウェンダルのところに行っているのだろう。
ギュンターが有利にべったりとくっついて仕事をしないので、確かにグウェンダルは球場に一旦顔を出して警備状況をコンラッドと打ち合わせただけで、戯れる子供達の姿に頬を緩ませながら執務室に戻って行ったが。
「わかった、お前はもう戻れ」
「はっ!」
兵士は涙目でもつれる足を懸命に動かして転びそうになりながら、千鳥足でスタンドに昇る階段まで駆けて行った。階段を昇る途中で足を踏み外して下まで転げ落ちた音がしたが、コンラッドは振り返ることなく城に向かう。
親を探してからグウェンダルのところまで送った兵士がここまで戻ってきたということは、本当に親はすぐ側にいたのだろう。子供から目を離した顔も判らない親に舌打ちしたい気分で足早にグウェンダルの執務室に向かう。
そしてそこでも入れ違いになった。
ならアニシナと出て行ったぞ」
「アニシナ!?どうしてそれを見過ごしたんだ!」
「連行されたわけではない!の方からアニシナに助けを求めたのだ!」
「……助け?」
呆然と呟いた弟に、グウェンダルは書類から顔を上げて胡乱な目を向ける。
「一体お前は何をしたのだ。しばらくお前の顔も見たくないからどこかに匿ってくれと頼み込んでいたぞ」
だがおかげでグウェンダルは幼馴染みの恐怖の実験から免れることができたのだ。
何しろ女性の味方のアニシナは、男の魔の手から逃れたいと頼ってきた女性を突き放したりはしないから。
が自力で逃げ隠れしているならすぐに見つける自信はある。だがそこに赤い悪魔の手が加わっていると、通常ならありえない場所だって探して回る必要がある。
「……グウェンダル」
「なんだ」
「どうして引き止めてくれなかった」
「手を組んだあの二人を相手に、私にどうしろというのだ!」
小さくて可愛い二人組だ。おまけにがその気なら、勝利に甘えるときの技がある。
グウェンダルではひとたまりもないだろう。本人が言ったのはそう意味ではなくとも。
役立たず、と心の中で罵る弟の心情など知りもしないで、兄はそれでも成果があったことだけは教えてくれた。
「黙って、しかもアニシナと城を出たとなると陛下がどれほど心配するかと説き伏せて、城からは出ないと約定だけは取り付けておいた」
「城からって……」
王妹のが城から抜け出すのなら、いくらなんでも供にアニシナだけというのは問題がある。そこまで無茶はしないだろうと思っていたが、協力者はマッドマジカリストなのだということを失念していたと、まざまざと思い知らされた。
「地下の研究室には、アニシナの発明した魔動空間移動筒がある。実験室からカーベルニコフ領内のアニシナの部屋まで直通だ」
「……グウェンダル、感謝する」


結局コンラッドはその日、を見つけることはできなかった。
しかも彼女は有利にはアニシナを通して居場所を教えていて、恋人だけシャットアウトするという徹底振りだった。
翌日にはひょっこりと戻ってきたのだが、その際に前日のセクハラを許す条件として、昼間からの性的言動の全面禁止を言い渡された。








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