「おやー、えらく早いですね姫」 夜明け前のまだ薄暗い中、任務を終えて血盟城に到着したヨザックは地下へ降りる階段に向かっていたを見つけて声をかけた。 「あ、ヨザックさん。コンラッド見ませんでした?」 「隊長ですか?いやー、オレは今着いたとろこなんで。それより、いくら城内とはいえ人の少ない早朝からお一人だと隊長が怒りますよ。おまけに地下なんて。お供しますよ」 「え、でも今着いたばかりって」 「城内のお供くらいは平気ですって。それでどこまで行かれるんです?」 「アニシナさんの研究室に。昨日コンラッド、アニシナさんの薬を食べちゃって……昨日は大丈夫って言ってたけど、やっぱりちょっと心配であんまり眠れなかったの。それで部屋に様子を見に行ったら、こんな時間なのにいないの。もしかしたらと思って」 密かにマッドマジカリストが好みのストライクである諜報員は、殿下に忠実なオレに降ってきた幸運だと喜んで従った。 幸せについて各々の考察(4) だが今、心の底から不運を思った。 何が悲しくて、自分の好みの女性と幼馴染みの浮気現場になどに踏み込まなくてはならないのか。 おまけに幼馴染みの婚約者である王妹殿下も一緒にいるのだ。自分の目前で固まっている少女をそろりと見て、これから始まる修羅場を思うとそのままこっそりと逃げ出そうかとすら思う。 凍りついたような空気の中で、最初に動いたのはだった。 ぱたんと扉を閉めてしまう。 「って、姫!閉めたって何の解決にも……」 「ヨザックさん、ドア押さえて!」 命令につい従ってしまったのは眞魔国の軍人としては合格だろう。 だが、押さえた次の瞬間に中から体当たりでもされたように扉が轟音を立てたことに驚愕して己の失敗を悟った。 「!違うんだ、聞いてくれっ」 「聞きたくないっ!絶対に聞かないのっ」 ウェラー卿コンラートは大慌てで婚約者に下手な言い訳をするつもりだったらしいが、はそれを聞きたくないと突っぱねる。 つまり、コンラッドが部屋から出てこないようにするための手伝いをさせられてしまったのだ。 後が怖い。 「ヨザックさん、このまましばらく押さえてて!すぐにコンラッドを出したら後で酷いからね!」 そんな恐ろしい命令を下して、は一目散に地下から逃げ出してしまう。 「ええー!?ちょ、ちょちょちょっと待ってくださいよ、姫ぇー!!」 がこの場にいれば研究室から飛び出してきたコンラッドに差し出して逃げることも可能だが、置いていかれるのが自分の方なら命の危険が。 あっという間にの背中が廊下の向こうに消えたかと思うと、強烈な一撃が扉越しに伝わってきた。 「ヨザ!どけっ!」 が怒ると怖いことは既に知っている。 だが、コンラッドの怒りは本当に命に関わるのだ。 たとえ命令としての強制力は王妹であるの方が上であろうと、身の危険の度合いは圧倒的に違う。 ヨザックはあっさりと扉から下がった。 「!」 飛び出してきたコンラッドはいまだシャツの釦も全開で乱れに乱れた服装のままだ。 既に恋人の姿がないと知るや否や、壁際に飛んで逃げていたヨザックの胸倉を掴んで壁に押し付ける。 「はどこだ!」 「ししし、知りませんよ、オレを見捨てて逃げちゃいましたから!」 「ちっ、役立たずっ」 舌打ちと共にかなり厳しい評価を幼馴染みに叩きつけると、コンラッドは恋人の後を追って駆け出していった。 その背中は当然、よりも早く見えなくなったので、追う方向さえ間違わなければすぐに追いつくだろう。ただし、あの乱れた格好のままで追いつけば恋人の怒りを助長するだけだと思うけれど。 これで下手にとの仲がこじれたら、彼女を捕まえておかなかっただとかなんとか、言いがかりをつけて憂さ晴らしに使われる危険がある。 徹夜明けだがこのまま城下に逃げるか、あるいは兵士の詰め所や仮眠の部屋などではなく物置で寝るか、どちらがいいだろうと本気で考えていると、自慢の上腕二頭筋を掴む手が。 「グリエ・ヨザック」 コンラッドと争って僅かに乱れていた服を既に調えていたアニシナが、水色の瞳でまっすぐに見上げてきていた。 この角度で見上げられると、好みの容姿なだけに弱い。 「なんでしょう、アニシナ様」 「ウェラー卿の捕獲に付き合いなさい……と言いたいところですが、今彼を連行するのは殿下がお気の毒です。よってあなたが代わりに、もにたあにおなりなさい」 「は……え……で、ですがオレもウェラー卿も魔力は皆無……」 「そうです。あなたはウェラー卿と同じく魔力がないでしょう。症例が同じかどうか確かめる必要があります。いいから入りなさい!」 ああ、浮気じゃなくて実験に付き合わされるのを逃れようとしていたのか、なーんだ。 徹夜明けのヨザックは、ギュンターが嘔吐と痙攣を繰り返した薬の実験台として研究室に引きずり込まれた。そんな薬だとは知る由もないが。 が逃げた先を推理しようとしても、ここだという場所が出てこない。とにかく足を止めることができなくて、無意識に向かった先はの自室だった。 ショックな出来事に有利に泣きつく可能性もゼロではなかったが、そんなことをすれば確実に別れさせられる。何しろは間違いなくコンラッドが浮気したと思い込んでいるからだ。 そんな真似を有利が許すはずがない。 あるいはそんなことを考えるだけの余裕もないのかもしれないが、どちらにしてもの部屋と有利の部屋は近いから、向かう方向は同じだ。 まだ夜の明けない薄闇の城内を駆け抜け階段を一足飛びに上がったところで、扉の開く音が聞えた。 この辺りは既にや有利の部屋が近いので、別の人間が出入りしている可能性は極めて低い。そうして、やはりが部屋の扉を開けている姿が見えた。 「!」 呼びかけても、逃げている相手が止まってくれるはずもない。 慌てて部屋に逃げ込んだが扉を閉めてしまう寸前に手を間に入れ込んだ。 捻じ込んだ手を扉と壁に挟まれる寸前に、無理やり力任せに抉じ開けると、ノブを握っていたは廊下に引きずり出されるようにしてコンラッドの腕の中に収まる。 「離してっ!」 「違うんだ、聞いてくれ!」 「……聞きたくないっ」 「、あれは……」 「コンラッドの馬鹿!エッチっ!最低っ!!」 抱き締められて手が動かせないので、はつま先で向こう脛を蹴り上げた。 「っ………!」 痛みに息を飲んで言葉を失うが、それでも恋人を抱き込んだ手の力は緩めない。充分に距離がなかったので、蹴りの威力が半減していて助かった。 「う、浮気なんて……アニシナさんと浮気なんてっ!」 「だから……誤解なんだ。あれは事故なんだ」 コンラッドは恋人を抱き締めたまま、痛む足を引き摺って身体を反転させて部屋に入って足で蹴ってドアを締めた。このまま部屋の前で騒いでいたら有利が起き出してくる可能性がある。今の状況でそんなことになったら、収まるものも収まらなくなってしまう。 「う、浮気じゃないなら……」 上擦ったの言葉に、わかってくれたのだろうかとホッとしたのも束の間。 「わたしに……飽きちゃった……?」 どうしてそうなるんだろう。 「アニシナさんは美人だし頭もいいし、わ、わたしが敵わないことわかってるけど!でもっ……でも……」 恋人が唖然としていることにも気付かずに、は震える声で首を振った。 「好きなの……別れたくないよ……」 誤解だと、事故だと言っているのに、浮気でないなら本気だと思い込んでしまったらしい。 今、とても大変なことになっていると判っていながらも、あんな場面を見ても別れたくないと言ってくれるそのことに喜んでしまう。 「別れるなんて、俺の方こそ絶対に嫌だ。とにかく話を聞いてくれ」 息も出来ないだろうほどに強くきつく抱き締めると、苦しそうにくぐもっているのに、返ってきた言葉は離せというものではなかった。 「……ホントに、別れ話じゃないの?」 抱き締められた力の強さか、それとも温かさがよかったのか、は逃げることを中断して震える指でコンラッドの服を握り締める。 「絶対に違うよ。俺がを手放したりするものか。さっきのあれは事故だと話を聞いて欲しいんだ」 「………事故?」 「アニシナに取り押さえられそうになったのを、跳ね除けたところだったんだ」 「……嘘」 「嘘じゃないよ」 「だって……じゃあ……」 の手がシャツを引っ張った。うっかりしていたが、釦をすべて外されてしまっていたからすっかり肌蹴て素肌を見せている。 コンラッドは僅かに逡巡したものの、真実を話す決心をつけた。下手に誤魔化したり嘘を重ねたりして、それが発覚すると今度こその信用を本当に失ってしまう。 「あのね。アニシナの研究室に行ったのは、あくまで昨日の薬のことを聞きたかったからなんだ。そうしたら、アニシナが研究に協力しろと服を脱がせに掛かってきて」 「昨日の薬って……な、なにか変な症状が出たの!?」 思った通りは蒼白になっておろおろとコンラッドの頬に両手を当てて泣きそうな顔で覗き込んでくる。 「どこか苦しいの?痛いとか、吐きそうとか?」 「いや、そういうのじゃないんだけど。のせいじゃないから」 「でも……」 「本当に。そんなに悲しい顔をされたら、その方がつらいよ」 頬に当てられた両手を握り締めて苦笑で返すと、は眉を寄せたまま背伸びしていた踵を絨毯に下ろした。 「……じゃあ、一体どんな症状が出たの?」 アニシナと違って心の底から心配だけで訊ねられて、その愛情には嬉しくなると同時に出来れば症状は言いたくなかった。 なんと言っても、薬のせいとはいえ肝心なときに役に立たなかっただなんて話、恋人に聞かせたいとは思わない。とにかく言いたくない。 「苦しくはないって言ってたけど、どこかに違和感があるとか?」 「……まあ、そんな感じかな」 わずかにから視線を逸らしながら、外されていた釦をすべて留める。 「それって手とか、足とか?それとも頭とかお腹みたいな内臓の方とか?」 「あー……足に近い……かな?位置的には」 「わたしに何かできることはない?」 「いや、。本当にそんなこと気にしなくていいから」 できることと言われても。アニシナによると時間が解決してくれるらしいから……と言おうとして寸前で思い留まった。 アニシナの分析が正しければ、そして症状が薬のせいならば、今日の午後には身体機能も元に戻るはずだ。確実に薬のせいと決まったわけではないが、十中八九は間違いない。 そうすると今夜にはもうを抱ける。 今は無理かもしれないが、夜に向けて布石を打っておくのは悪くない。 責任を感じているなら、きっとは協力してくれる。 例えば、普段なら絶対にしてくれないことだとか。 こうなると、強固なプライドは果てしない下心にあっさりと席を譲った。 「でもやっぱりわたしのせいなんだし……コンラッドのために少しでもできることがあるならしたい。気にする、しないじゃなくて、本当にできることがないならそう言って」 コンラッドは一度天井を見上げ、どう話を運ぶかシミュレートする。 数パターンの会話が浮かんでは消えたが、あまり考え込んでいるとが不安になるだろう。 「……こんなこと言うのは、男として情けないんだけど」 「薬のせいだもん。どんなことでも情けなくなんてないよ。ひょっとして力が抜けて剣が持てないとか?」 「そういうことじゃないんだ。その……昼間の生活にはなんの問題もない。いや、俺自身と以外には関係もないことだ」 「コンラッドと、わたし?」 そこまで対象が限定される不調というものが想像できなかったのだろう。他の誰にも影響はなく、なのにコンラッドだけならともかく、も困る対象に含まれているということで症例の候補がすべて消えてしまったらしい。 「………昨日の昼を覚えてる?」 「お昼?クッキーを食べたときの?」 「その後。が俺に付添って部屋まで送ってくれた後だよ」 「その後……」 ぽかんとコンラッドを見上げていたは、部屋に帰ってからの時間を順に追ったようだ。 すぐに顔を赤く染めて、俯いてしまった。 そこだけ思い出してくれれば後のことは構わない。 「あの時、本当はを抱きたかった。の中に入りたかったんだ」 「あああ、あの、今、そそそ、そういう話をしているわけでは……」 「……だけどその……役に、立たなくて」 「……え?」 まだ僅かに赤いままで顔を上げたに、困ったように、そして少し恥ずかしそうに複雑な表情を見せる。 「勃たなかったんだ」 その時のの表情は、まさに見ものだった。 驚いたように口を開け、だけど話題が話題なので恥ずかしそうに頬を染め、困ったように眉を寄せながら、視線を彷徨わせて最終的には俯いてしまった。 「え……えっと……」 何をどう言えばいいのか、両手の指先を合わせてもじもじと動かすと、やがてそろりと視線だけを上げる。 「そ、それって薬そのもののせいっていうより、体調が崩れちゃったせいじゃない?」 「部屋に帰る頃にはもう元気だったよ。に証明してみせたように」 「う、うん……」 かあっと赤く染まった頬がますます愛らしい。 抱き締めて押し倒してしまいたい衝動で、怪しく蠢いた指先がの目に留まらないように両手を後ろに回す。 「俺の指で淫らに喘ぐにはものすごく興奮したよ。それに……」 「あ、あの!」 は今にも泣き出しそうに眉を下げながらコンラッドの話を遮る。 「ア、アニシナさんはなんて?」 「薬の分析を続けると言っていた」 「そ……そっか……え、えーと……じゃあ、わたしにできること…ないね」 ことがそっち方面でどういう態度を取ったらいいのかまだ決めかねていたは、コンラッドが押し黙ったままのことに困惑をさらに広げた。 「え?な、なにか……ある?」 「……アニシナは、反応が鈍くなってるだけの可能性もあると。もし解毒薬が必要だとすると、まったく反応しないのか、鈍くなっているだけなのか、はっきりした方が症例に合わせて薬を作れるとね」 至極真面目な顔で語る恋人がまったくのデタラメを口にしてるなどと気付くこともなく、はしばらく考えるように俯いて、軽く握った拳を口に当てた。 反応が鈍くなっているだけかもしれないとして、そこからにできることがあるという理由がいまいち掴めなかったのだ。 だが、軽く一分ほど考えてようやく思い当たる節ができたらしい。 さっと顔から血の気が引いた。 「そ、それでアニシナさんは服を脱がせようとしたの……?」 しまった、そういうことになるのか。 が直接なり、視覚的方向なりで刺激してくれるという方向に話を持って行くつもりだったコンラッドは墓穴を掘ったかと僅かに焦る。 「絶対ダメ。治療じゃなくて実験ならアニシナさんに触らせないで。見せるのもヤダ」 「ああ、だから俺もどうにか逃げようと……」 「わたしがする」 予定とはちょっと狂いが生じたが、当初の目的地へたどり着けそうな気配に、コンラッドはほっと内心で胸を撫で下ろす。 「そんな、にそんなことをさせるなんて」 「だって、じゃあアニシナさんに触らせるの?治療じゃなくて刺激に反応するのかって?そんなのいやっ!」 ぎゅっと唇を噛み締めたに、寝室の方へ引っ張られて驚いた。 「え、いや。今すぐはちょっと……」 「だってぐずぐずしてたらアニシナさんが追いかけてくるかも」 「心配しなくても、俺もそれは嫌だからちゃんと逃げるよ。だから夜にゆっくり……」 「グウェンダルさんだっていつも捕まっちゃうのに?ね、お願いコンラッド。わたし以外の人に触らせちゃいやだよ」 「、その……」 どう言えば晩にじっくりしようと説得できるかと焦っている間に、寝室まで引っ張られる。 まだカーテンも引いたままの薄暗いベッドルームに、の方から招いてくれるという事態に、うっかりフラフラと誘惑されてそのまま踏み込んでしまった。 |