有利は最後にわたしの頭を撫でて帰った。
お風呂から上がって、明日に備えて早々に眠ろうとしてはたと気付く。
コンラッドが明日この部屋に来てくれる保証なんてないよね……?
むしろ顔を合わせたくないから、有利には適当に言い訳するつもりでスルーするかもしれない。
少し考えて、クローゼットからパジャマじゃなくてワンピースを取り出した。
さっき傷つけたばかりで、コンラッドはわたしの顔も見たくないかもしれない。
もし部屋の前で追い返されたとしても……有利にロードワークの中止をお願いしたことだけでも伝えておかないと。
勝手なことをと余計に怒らせるかもしれないけれど……。



熱に溺れる(7)



夜も更けた城の廊下は、しんと静かで寒々しい。
ワンピースの上から羽織ったショールをかき合わせて、廊下を小走りで進む。
等間隔で設置してある燭台でロウソクが燃える音、廊下を走るわたしの足音、それからコンラッドに拒絶されたらという緊張と怖さでいつもより少し早い鼓動だけが聞こえる。
コンラッドは顔も見せてくれないかもしれない。
そう考えてしまうたびに段々と足元だけを見るように俯いてしまう顔を何度も上げ直して、ようやくコンラッドの部屋の前に立った。
胸に手を当てて唾を飲み込む。心臓が痛いくらいに脈打って、胸に当てた手を握り締めて拳をドアに近づけた。
ノックひとつにひどく勇気が必要だった。ゆっくりと深呼吸を繰り返し、今度こそと視線を上げてドアを叩こうとした瞬間、その前に内側からドアが開いて拳を跳ね除けた上に額にまでぶつかった。
ゴツンと鈍い音が廊下に響く。
「……………っ」
額を押さえて後ろによろめくと、驚いた顔でわたしを見下ろしているコンラッドと目が合う。
き、気まずい上にカッコ悪い。
どうして……?え、い、今ぶつけたのか!?」
コンラッドは慌てたようにわたしの手を取って額を確認すると、顔をしかめた。
「赤くなってる。すま……」
「だめっ!」
コンラッドが謝ろうとしたのを察知して、慌てて背伸びして飛びつくように両手でコンラッドの口を塞いだ。
「コンラッドは謝まらないで。何も悪くない。わたしが、わたしが謝りに来たの!」
コンラッドは驚いたように目を瞬いて、それから苦笑してわたしの両手を口からどける。
「謝りに?だから怒ってないから」
「でも傷つけた」
絶句するコンラッドに、両手を取られたまま身を乗り出す。
「わたしが考えなしのせいでコンラッドを傷つけた。コンラッドがわたしを大事にしてくれていること、わかってるつもりでわかってなかったの。勝手な理由で勝手に焦って……」
焦っているせいで段々早口になってきて、一度言葉を切った。目を丸めているコンラッドに取られたままの手で服を握り締める。
「ごめんなさい。待つと言ってくれたのに信じ切れてなかった。コンラッドに喜んで欲しいって、でもそれはわたしが安心したいだけだった。コンラッドがしたいはずのことを少しでもできればって……せっかく、コンラッドが待っててくれたのに」
唖然としていたコンラッドは柔らかく笑って。
……」
そっとわたしを抱き寄せてくれた。
「あのね、俺は傷ついたというか、自分が情けなかったんだ。君の無理に気づけなかったことも……それ以前に、君に無理をさせたのはきっと俺の普段の行動のせいなんだと。それが悔しかった。大切にしたいなんて口ばかりで、君に無理をさせるほど不安にさせていたんだと」
「ち、違うの。コンラッドのせいじゃないよ。だって、わたしが何でも拒んでばかりだから」
コンラッドに喜んで欲しいと安易に思いついた行動で、こんな後悔をさせていただなんて。
「……わたし拒んでばかりだから……女の人と仲良く話しているコンラッドを見ててもやもやして……それで焦って……」
「浮気を疑ったのか!?」
驚いたような裏返った声に、慌てて否定する。謝りに来てまた傷つけたら大変だ。
「違うよ!コンラッドはそんなことするはずないってそう思ったよ!でも…その、なんだか嫌だったの。きっとコンラッドのために何もできてないからだって……コンラッドが喜んでくれることができたら、こんな気持ちはなくなると思ったの……」
「それはそれで微妙に浮気を疑っているような……でも、が嫉妬してくれたのは嬉しいかな」
「し、嫉妬!?」
コンラッドは小さく笑ってわたしの肩を抱くと部屋に招き入れてくれる。
「だってそうだろう?他の女性と仲良くしているように見えたのが嫌だったんだ」
「そ、それはその……で、でももうそんな無茶なこと言わないから!」
「それもまた微妙だね。嫉妬してもらえないと、もう俺に興味がないのかなんて」
「そんなわけない!」
慌ててコンラッドに詰め寄ると、笑いながら肩を押し返されて椅子に座らされた。
「うん、わかってる。確かに俺みたいに度が過ぎるのは困るだろうしね」
じ、自分で言うのはどうなの?


わたしが返答に困っているのを察したのか、コンラッドは笑いながら額にキスを落としてくる。
「でも、あまりいい子でなくていんだよ。嫌なことは嫌と、したいことはしたいと、はっきり言っていいんだ」
「こ、これ以上わがまま言ったら、恋人じゃなくて親子みたいになっちゃうよ」
「それは困るな」
全然困ってなんかいない笑顔で上着を脱いで、わたしの肩に掛けてくれる。
「せっかく入浴したのに、こんなに冷えて。この季節の夜にそんな格好だと薄着だろう。風邪でも引いたら大変だ」
そう言ったコンラッドの暖かい手に両手を包まれて、初めて手が冷えていることに気がついた。さっきまでは不安と緊張で、それどころじゃなかったんだ。
「あ、上着……どこか出かけるところだった?す、すぐ帰るね」
「待って。帰るならせめてちゃんと暖まってからにしてくれ。別に目的があったわけじゃないんだ。ただ城の見回りでもしておこうかと気まぐれで」
「ほんと?気を遣ってない?」
「……頭を冷やしておこうかと思って。だから本当だよ」
「ご、ごめんなさ……」
わたしのせいだと思わず椅子から立ち上がると、コンラッドは人差し指をわたしの口に置いて首を振った。
「もう謝らないで。は違うと言ったけれど、やっぱりを焦らせたのは俺のせいだ。俺が、との触れ合いで満足していないと思ったから不安になったんだろう?」
「でも……」
コンラッドはそっとわたしの目尻を親指で撫でた。
「こんな風にをたくさん泣かせた。怖がらせてしまったね」
しまった……あれだけ大泣きしたんだから、目が充血してたんだ。慌てて泣いた理由はコンラッドに触られたことではないと否定する。
「ち、違うよ!これは怖くて泣いたんじゃなくて!……あ…でも……ううん、怖かったのかもしれない。馬鹿なことして、コンラッドに嫌われたと思ったの。もう許してもらえないんじゃないかって、それが怖かったの」
「じゃあやっぱり俺の態度のせいだ」
「だから違うってば!コンラッドを傷つけた自分が嫌になったの!考えが浅くて、それでコンラッドに嫌な思いをさせたって……わたし、コンラッドはわたしが怯えたから傷ついたんだって思い込んでて……」
「でも今はもうわかってくれた。……このままお互いに謝っていたら夜が明けそうだ。もうやめよう。仲直りだ」
「……うん」
肘掛けに置いていたコンラッドの手にわたしの手を重ねると、コンラッドはそれを裏返して下から指を絡ませてきた。
嬉しくなってわたしも握り返して、お互いに顔を見合わせてそして小さく笑い合う。
嬉しい。
コンラッドと、こんな風に小さなことで笑い合えることが、こんなにも嬉しい。
「……もう少しこうやっていたいけど、明日も朝が早いしね。部屋まで送るよ。冷えるから上着はそのまま脱がないで。……そうだな少し酒を飲んでいくといい。身体が温まる」
握り合っていた手を離して、何でもないことのように戸棚からワインとグラスを取り出してくる……けど。
「お……お酒……?」
お酒ではつい最近失敗したばっかりだ。わたしの顔が引き攣ったので、そのときの一番の被害者だったはずのコンラッドが苦笑する。
「少しだよ。グラス一杯も飲む必要はないから」
「え、えーと、えーと……で、でもコンラッドの上着だけでもう十分暖かいから!」
コンラッドは知らないけど、わたしはあのときとんでもないことを有利相手に口にしている。
実際にはわたしも覚えてないわけだけど……だからこそ、もしも酔ったら一体どんなことを口走るかわからない。
お酒を飲みたくなくて、とにかく何かいい口実はないかと考えを巡らせる。
「あ、あのね、それに明日は有利、ロードワークを休んでくれるって。だからまだ夜更かしできるから、部屋でもう一度お風呂に入って暖まり直すし!」
「え?陛下がロードワークを休むって、いつそんなこと言ったっけ?」
「さっき。わたしがお願いしたの。コンラッドが帰ったあと、有利が部屋に来てね。有利はわたしが調子が悪いと思っていたから、様子を見に来たの。それでコンラッドに謝りたいから時間が欲しいってお願いして。結局朝じゃなくて今謝りに来たんだけどね。でも有利も明日はゆっくり起きるつもりだと思うから。このことも伝えておこうと思ってたの」
「………待ってくれ。俺に謝りたいって……陛下にどんな理由で話したんだ?」
「水着でお風呂に入ってたから、コンラッドと一緒に入ったことがばれちゃって。だから、あったことそのまま全部」
「そのまま全部!?」
コンラッドが頭の天辺から抜けたような大声でグラスを取り落として、そのまま一直線に床まで落ちて派手に砕け散った。
「コ、コンラッド怪我は!?」
「あ、ああ、すまない。い、いや……だけど、陛下はさぞお怒りだったんじゃ……」
「うん。ものすごく怒られた」
今度はワインの瓶を取り落とす。それはテーブルに乱暴に落ちただけで済んだけど。
「だ、大丈夫?」
「あ……ああ………」
わたしがしゃがみ込んで床の砕け散ったグラスの大きな破片だけを拾い集め始めると、コンラッドは慌てたように手を掴んで上に引き上げてくる。
!怪我をするから……」
「あのね、本当のことを言うと、有利に怒られて初めてコンラッドを傷つけた本当の理由がわかったの」
引き上げられて、見上げながらそう言うとコンラッドは戸惑ったように口を閉ざした。
「さっきも言ったけど、わたしは怯えたことが原因だと思い込んでたから。そう言ったら有利がすごく怒って、コンラッドが今まで待ってくれてたことを、全部無駄にするつもりだったのかって。ちゃんと謝れって、そう言ってくれたよ」
「謝れ?……近付くなじゃなくて?」
「どうして?コンラッドは全然悪くないのに。わたしが誘って、何度も確認してくれたのに嘘ついて平気って言ったんだもん」
首を傾げると、コンラッドは言葉に迷うように少し視線を逸らした。
「だってその……俺はの胸を揉……堪能したし……」
途中で言葉を変えたけど、それって結局どっちでも恥ずかしいんですけれど!
「そ、そこまで具体的に説明したわけじゃないから!」
「そうか……そ、それはそうだろうね……でないと今頃ユーリは……」
コンラッドが何か口の中で呟いたけど、わたしはわたしでそれどころじゃなくなっていた。
……お、思い出したら恥ずかしくて顔から火が出そう。
わたしの手首を握り締めるこの指一本一本が、直接…さ、触ったんだ……よね?
あの時はとにかく早く終わってほしいとそればっかりだったから、どんな風に触られてたのか怖くてよく覚えていなかったけど……。
………怖くて?
自分で思い出してびっくりした。
だって、あのときはあんなに怖かったはずなのに、今は思い出してもただ恥ずかしいことしか感じない。
コンラッドに触られて、それが怖くて嫌で早く終わってほしいだなんて思ったのは今回が初めてで、だからこそあのときはすごく強く心に残っていたのに。
それは……初めてのことだから怖いと感じるのは当たり前だけど……でも、あのときはコンラッドの手なのに、恥ずかしさなんて微塵もなくてただ怖いとしか思わなかった。
コンラッドに触られるのはいつだって恥ずかしくて、だから抵抗しているわけだけど、でも心のどこかでは触れ合えることは嬉しくもあった。
それなのに。
………無理に抑えようとしたから?
だから余計に怖く感じたのかもしれない。
コンラッドは砕けたグラスから遠ざけるように、わたしと椅子を引き摺って暖炉の側に移動する。
「………コンラッド」
「なに?」
わたしを椅子に座らせながら気軽に答えたコンラッドの頬に両手を伸ばす。
コンラッドに触れられたことが怖いとしか感じなかったままでいるのって、寂しくてそっちの方が嫌。
座らされたばかりの椅子から軽く腰を浮かして、頬にキスをしてみた。
「……?」
まだ物足りない。
だってあのときは、もっとくっついていたから。
くっついて、それが怖かったから。
コンラッドだから、怖いはずなんてないよね。怖いだけのはずなんてないもの。
お風呂……はさすがにさっき失敗したばっかりだし、水着も持ってきてないし、あんなエッチな入り方はもう懲りました。
「座って」
椅子から立ち上がって位置を入れ替わると、コンラッドに座ってもらって向かい合うようにその膝に上がる。
……?」
戸惑う声が上から聞こえたけれど、そのままコンラッドの広い胸板に抱きついてみた。
コンラッドの鼓動がすぐ近くで聞こえて、怖いとか緊張とかよりもただ安心感だけがある。
これもちょっと違う。
……どうしたんだ?」
コンラッドはぎゅっと抱きつくわたしの髪を撫でながら苦笑する。
片方の耳をコンラッドの胸に押し付けて鼓動を聞きながら顔を上げると、優しい茶色の瞳は微笑みながらわたしを見下ろしていた。
「……あのね……さっき、怖かったの」
髪を撫でる手がぴたりと止まった。
「……ああ、そうだね。まだには早かったね」
「そういうことじゃなくて」
早いというのはその通りなんだけど、言いたいことはそうじゃなくて。
「コンラッドの手が怖いだけなのは嫌なの。だってわたし、コンラッドに触られるの好きだよ?」
コンラッドの大きな手をとって、わたしの頬に押し付けてみる。
温かな掌はやっぱり心地良くて、こんなにも大好きな手が怖かったなんて、怖いとしか思えなかったなんて、わたしのやり方がどれだけ間違っていたか、よくわかる。
「……今夜はもうあまりに触らない方がいいかと思っていたけど」
コンラッドはわたしの頬をゆっくりと撫でながら、片手を腰に回して膝から落ちないように抱き寄せる。
「もう少し触っていい?」
頬を撫でる手も、腰を抱く手も優しくて、きっとわたしが無理に我慢していなければ胸を触っていた手もこんな風に優しかったとわかったはずなのに。
「うん……怖かったこと……忘れさせて……」
コンラッドが身を屈めて、わたしは背を伸ばして、そっと唇を重ねてみた。








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