後にフォンクライスト卿はこう語る。 「アニシナの実験?……はて、そういえばここ二週間ほどの記憶がありません……なんてことでしょうか!せっかく陛下と猊下と殿下がお揃いの素晴らしい至福のときだというのに、その記憶がないなんてー!!」 矛盾の配分(6) コンラッドの言葉一つで、あんなにグラグラしていた気持ちが落ち着いた。 一番嫌だったのは村田くんにときめくことじゃなくて……それもちょっとあれなんだけど……コンラッドがそのたびに悲しそうな顔をするのがつらかったんだと判った。 薬のせいだとしても、薬の効果になんて負けて、他の男にフラフラするなんてと嫌われたらと。 それが怖かった。 でも、そんなことはないとコンラッドが言ってくれたら……。 悲しくて苦しくてじゃなくて、嬉しくてちょっとだけ零れてしまった涙を拭くと、枕を置いてベッドを降りる。 リビングに行ってしまった有利たちに、もう大丈夫だと顔を出しておこうとして、通り過ぎ様にドレッサーの鏡を見たら騒動で髪がぐちゃぐちゃになっていた。 濡れた髪をほったらかしにして、全力疾走したりいろいろあったから。 ほぼ乾いていた髪を櫛で梳かしながらコンラッドの言葉を思い出して、鏡に映ったわたしの唇は知らず知らずのうちに弧を描く。 「我ながら現金……」 コンラッドに嫌われないなら、後はアニシナさんが効果を打ち消す薬を作ってくれるのを待つだけだし、ひょっとしたら他の薬みたいに時間が経つだけでも解決するかもしれない。 それに基本は、それまでの間できるだけ村田くんに会わないようにすればいいんだ。 薬のせいだとしても、コンラッドだって気分が悪いだろうし、わたしだって……その……ええっと……気分が悪い……ことはなんだけど……変な感じはするし。 だって村田くんだよ? 今まで有利を連れて行っちゃうとあれだけライバル視して、喧嘩を売っていたのに……。 わたしは邪険に扱って、最初の頃なんて名前も呼ぶななんて言っていたのに、そういうことに恨み言とか全然言わなくて、わたしが弱気になったら励ましてくれて、有利のことも大事にしてくれるし、前世からの因縁があるからそっちの悩みも判ってくれるし、ここでだって、地球でだって一緒にいられるし……。 「……あれ?」 村田くんを好きになるなんてことはありえないという根拠を考えていたはずなのに、いつの間にか「村田くんのいいところ」を列挙している。 「あー!違う違う!間違えてるっ!いいところを挙げてどうするのよ!」 鏡を見ると顔が真っ赤に染まっていて、慌てて櫛を放り出すと両手で覆って見えないようにする。 「なあ……」 「落ち着かなきゃ!違う、絶対に違う!」 そうして、取り乱して大声を上げていてから、気付かなかったんだけど……。 「村田くんなんて似非笑顔だし、人のことからかって遊ぶしっ……けど……本当に大事なことは判ってるから心から傷付くようなことはしないし、意地悪に関して鋭いけどその分、気遣いも優しくてさり気ないし……笑顔だって意地悪してるときじゃなければ、結構爽やかで嫌味がないし……一緒にいて楽しくないわけじゃないんだよね……」 「!」 「はいっ!」 有利に怒鳴りつけられて、思わず背筋を伸ばして顔を覆っていた両手を膝に降ろすと、鏡にドアを開けた有利が真っ青な顔色で映っている。 ……いつの間にドアを開けたんでしょうか……。 ギギっと小さな音を立てて、開きかけていたドアが動いて、有利を浮気者と責めるときのように目を吊り上げた怒りの表情のヴォルフラムも鏡に映って。 反対側の扉が動くと、真っ青な顔色のコンラッドと、満面の笑顔の村田くんが、有利の横に立っていた。 「いやー、嬉しいなあ。にはいつも邪険にされていたから、ひょっとしたら本気で嫌われていたりしてって、結構悩んでいたんだよ?」 とっても楽しそうに村田くんがカップを手にして明るく喋る中、わたしたちは誰一人口を開かなかった。 大声を上げて、おまけに顔を両手で覆って視界を塞いでいたせいで、寝室のドアが開けられたことに気付かずに独り言の内容をコンラッドたちに聞かれてしまって……あまりの居たたまれなさに、わたしは両手を膝の上に置いてじっとそれを見ていた。 隣に座った有利は二人掛けのソファーの肘掛に完全に伏せていて、わたしの正面からはヴォルフラムの怒りの空気を感じる。イライラしているようにさっきから足が床を叩いてるし。 コンラッドはヴォルフラムの横、有利の正面に座っているけれど、わたしの独り言に 「気にしてないから」 と言ったきり一度も口を利かない。 そして、有利とコンラッドの隣にあたるテーブルの角の一人掛けソファーで村田くんだけがとっても上機嫌で喋り続けていた。 「……あの、村田くん……」 とにかく、何か言い訳をしたくて絶好調の村田くんの言葉を遮ると、有利が勢いよくこちらを振り返って、テーブルの向こうで床を叩いていたヴォルフラムの足が止まった。 うう……コンラッドがどんな反応したのか、怖くて顔を上げられない。 「なに、?」 一人だけ、無駄に爽やかな村田くんが恨めしい。 けど、これはわたしの落ち度であって村田くんに責任はないんだよね……。 「わ、わたしがさっき……なんか、その……いろいろと言ってたのは、村田くんは友達だということを再認識していたところで……」 「ああ!大丈夫、心配しなくてもそれは判ってるよ」 視界の端で村田くんが紅茶カップをソーサーに戻しているのが見えた。 「今は薬のせいで感情が混乱しているだけで、の恋人はウェラー卿だし、僕に対する感情は一時的、そしてまやかしなんだって、僕もウェラー卿も渋谷もフォンビーレフェルト卿もちゃーんと判ってるよ。な、渋谷?」 「も、もちろんだ!」 「そうですね」 有利の声は上擦って、ヴォルフラムの声は腹の底からというような低い声で。 「……ええ、もちろん承知しています」 コンラッドの声は、抑揚もなく平坦だった。 「あ、やだなウェラー卿。まるで怒ってるみたいな反応」 「怒ってません。……猊下、俺を揺さぶって遊ぶのは構いませんが、に負担をかけるような方法はやめてください」 「おや、人聞きが悪い。僕だってを……友達を困らせるような趣味はないよ」 ……友達、と聞いて胸が痛かったのは錯覚。それは薬のせい。だって本当に友達だし! ズキズキと痛い胸を押さえて強く目を瞑る。 「ああー……そう、そうだね、友達と言えることが嬉しいだけなんだよ。ほら、さっきも言った通りには嫌われてるんじゃないかなーって心配してたからさ」 村田くんは明るい声で笑って、軽く、本当にごく軽く言った。 「感情はともかく、評価自体は嘘じゃないだろ?大事な人に嫌われてなんかないと判ったら、誰でも嬉しいものじゃない?」 「大事ってなんだ!?」 有利が立ち上がって、わたしは目を瞑ったまま汗が滲んできた手でスカートを握り締める。 嬉しいと思っちゃダメ。村田くんの言っている意味は友達、友達、友達という意味。 え、でも友達という意味なら嬉しいでいいのかな? でも友達だと自分に言い聞かせようとしたら、胸がまた痛い。 「ええ?渋谷ったら過剰反応。僕にはさー、渋谷だって大事だよ?」 「猊下!ユーリとに同時に色目を使わないでくださいっ!」 ヴォルフラムまで立ち上がった。 「色目って……ウェラー卿といい人聞きの悪いことばっかり言う兄弟だなあ。大事な友達って言ってるだけなのに。ねえ、渋谷」 「え!?いや、でもなんかここはヴォルフの気持ちも判るっていうか……ああ、でも友達!おれとは村田とただの友達から!」 「ぼくの気持ちが判る!?ユーリ!お前まさか、大賢者とよからぬことを……っ」 「だから友達だってっ!」 ヴォルフラムがテーブルに乗り出して有利を引っ張って、テーブルの上でカップが音を立てて倒れる。 巻き込まれないようにソファーから逃げ出したせいで、閉じていた目を開いて顔も上げることになって、同じくソファーの後ろに逃げていた村田くんとばっちり目が合ってしまった。 あ、だめだ……心臓がうるさく脈打ってる。 きっと顔も赤くなってるだろう。 判っているのに目が離せなくて、ぎゅっと心臓の上を押さえると、村田くんは目を瞬いた後に優しく笑って手を振った。 「大丈夫だよ、落ち着いて。それは薬の効果だ。君とウェラー卿の絆の強さは本物だし、僕もそうと判っているからほんの少しウェラー卿に意地悪しただけだよ。薬の効き目があろうとなかろうと、僕と君は友達。だから今感じている気持ちも、友人としての好意だと捉えればいい。僕はそう思ってる」 友人として、思っていると。 村田くんの言葉はとても優しくて、とても残酷だ。 もしも、わたしが本当に村田くんを好きだったのなら。 だけど友人と言われて感じるこの胸の痛みも錯覚だから、それは優しい言葉なんだ。 「うん……ごめん」 これは心の問題なんだから、わたし自身がしっかりしなくちゃいけない。 胸を押さえて深呼吸をして。 大丈夫だよ、落ち着いて。 村田くんに言われた言葉を頭の中で何度も繰り返して、有利とヴォルフラムの騒ぎを聞きながらそっと顔を上げると、笑顔の村田くんを見てドキドキしても……友達だと思って胸が痛んでも、今度こそうろたえることなく笑顔を返すことができた。 そうしてコンラッドを見ると、同じように何も言わずに頷いてくれた。 どうにかこうにか、折り合いをつけることが出来た頃に呼び出されて再び訪れたアニシナさんの研究室で薬の分析結果が発表された。 「結果から申し上げますと、解毒薬は失敗作ではありませんでした」 「え!?で、でも……」 これにはさすがの村田くんも絶句して、有利が代表するように呟くと、わたしとヴォルフラムと村田くんとコンラッドを等分に見る。 「ば、馬鹿なことを言うなアニシナ!ぼくにとっては……い、い、い、妹で!」 「落ち着きなさいヴォルフラム。解毒薬は失敗作ではありません。ただ、本薬より解毒の効きが遅いというだけのこと。どうやら本薬は人間用に濃度を調節したというのに、解毒薬は鳥類向けのままの濃度で調合してしまっていたようです。効果が現れるのは遅くなりますが、必ず本薬を打ち消しますからご心配なく」 「濃度が足りないのなら、今から追加投与はできないのか?」 コンラッドが首を傾げて訊ねると、アニシナさんはこれだから素人は困ると溜息をつく。 「もちろん、解析結果がわかった時点でそれも試してみました。ですがそうするとあのような結果に」 アニシナさんが指差す方向は、誰もが見ようとしなかった一角。 研究室の隅でギュンターさんが、恍惚の表情で真っ赤な着物を着た日本人形を涙ながらに頬擦りしている姿があった。 「ああ素晴らしい!この滑らかな肌!つぶらな瞳!控えめな唇!」 かなり異様……。 「……以前のオキク生活を思い出して、愛着が戻っただけじゃないのか……?」 ヴォルフラムは引きつりながら目を逸らした。 オキク生活というのがよく判らないけど、いつものギュンターさんなら少なくとも有利を見たら、有利に駆け寄るはずだよね……今は日本人形一直線だ。 「追加投与すると、薬の効果が打ち消されるどころかなぜか強くなってしまいました。殿下とヴォルフラムのほうは時間が経てば必ず解毒薬が効果を発揮します。ですがギュンターのほうはどうなるか判りません。わたくしは新しい症例に向き合わなければ」 「待ってくれアニシナ。あれはさすがに困るから大人しく待つ。それで、とヴォルフから薬の効果が切れるのはどれくらいの時間がかかるのかだけ教えてくれ」 「そうですね、わたくしの試算ですと」 アニシナさんは指を2本立てた。 二時間?それとも二日? 二日は長いなあと思っていたら、そんなものは甘いとばかりに、とても無情な答えを突きつけられた。 「二週間ほどです」 沈黙の研究室には、日本人形に愛を叫ぶギュンターさんの声だけが響き渡った。 |