後にフォンカーベルニコフ卿はこう語る。 「反省ですか?なぜわたくしが反省などと。偉大なる発明の前に失敗はつきものです。そもそも一時のことで、ああも激しくうろたえるウェラー卿の精神が弛んでいるというだけのことです。まったく、殿下の愛情の上に胡座をかいているから、ほんの少し普段と違う行動をしただけで心が乱れるのです。これだから男というものは惰弱な精神しか持っていないと……」(以下、女性と強い精神についての論説に発展) 矛盾の配分(5) 濡れた服を着替えて部屋を後にすると、これからどうしたものかと考えて溜息が漏れた。 もちろんユーリの護衛に戻らなくてはいけないが、恐らくユーリはの側にいるだろう。 今のに近付けば、風呂に押し入ったことが原因で嫌な顔をされる。 ……あんなに本気で嫌がられるなんて……。 に嫌な思いをさせるのも、それを改めて思い知るのも重い苦行で、アニシナの研究室に戻る足も重い。 というより、果たして俺は本当にの前に出ていいものだろうか。 アニシナが解毒剤を作り上げるまで大人しくから離れているほうが、俺にとってもにとってもいいのではないだろうかと迷いながら歩いていると、何かを叫んでいるヴォルフラムの声が聞こえた。 ……の部屋のほうから。 ついうっかりと猊下のことばかりが気になっていたが、考えてみればヴォルフラムも薬を飲んでいた。おまけにに効果を発揮する形で。 ヴォルフラムのことだから、の意思を無視するような真似はしないだろうと心配はしていなかったが、ヴォルフラム自身がかなり混乱していたから、引き離しておいたほうが色々面倒がなくていいだろう。 ヴォルフラムを連れ出すつもりだけで訪れたの部屋で見た光景は、想像以上に俺を打ちのめした。 が猊下を庇ったことにも……猊下がよりによっての寝室に、それもベッドの上にいることも……かなりつらい状況だったが、それ以上にと猊下が同じように気まずそうな表情を俺に見せたことが、何よりもつらかった。 部屋にはユーリもヴォルフラムもいて、決して二人きりではなかったけれど、まるで通じ合っているかのような、同じ表情がただ悔しい。 「コンラッド!薬のせいだから!」 真っ先に声を上げたのはユーリだった。 後ろから抱えるようにしていたヴォルフラムを放り出し、駆け寄ってくると俺を後ろに押し返しての寝室から追い出そうとする。 「だから、暴力はいけないと思うんだよ、暴力は!」 「暴力?俺が、猊下にですか?まさか。猊下に手を上げたりしませんよ」 「そ、そう……?いつもギュンターとかヨザックに容赦ないからさ……」 俺を押し返すユーリの視線を追うと、確かにいつの間にか拳を握り締めていた。 ああ、本当に気付かなかった。 込めてしまった力を抜くように意識しながら拳を開くと、硬直しかけていた指が滑らかに動くように何度か握ったり開いたりを繰り返す。 どうやらそれが余計にまずかったようで、ユーリは必死になって俺を寝室から押し出した。 「村田は文系だから、コンラッドに殴られたらホント吹っ飛ぶって!危険、かなり危険!」 「だから俺は猊下に手を上げたりしませんと……」 「渋谷渋谷、大丈夫だって。ウェラー卿はそこまで理性を吹っ飛ばしてないから。ねえ、ウェラー卿?」 ユーリの焦りとは正反対に、猊下はもう気まずそうな表情を一変させて、笑みさえ浮かべてのベッドの上に座り直す。 取り乱されたほうがまるで間男みたいで、猊下の態度が正解だと判っていてもどこか癪に障った。……恐らく今の俺は、猊下がどう対応しても気に食わないに違いないけれど。 はで、悪いことをしたかのように目を逸らしていて、それが気に食わない。 「……猊下、女性の寝室には長居するものではないかと思います。ヴォルフラムも出ろ」 「お前を今のと二人きりにできるか!」 「心配しなくても、俺も出る」 なるべく感情を表に出さないように抑揚を押さえて言うと、まるで不機嫌が漏れたような口調になってしまった。 枕を抱き締めていたが真っ青な顔色で俺を見る。 「ああ、違う。、怒ってないから。ええっと……何と言えばいいのかな……俺も、少し戸惑っているだけなんだ。大丈夫、陛下のおっしゃるとおり、薬のせいだとわかっているから」 「でも……」 俯いたは、一層強く枕を抱き締める。 「でも、コンラッドもつらそうなんだもん……」 内心が全部顔に出ていたのだろうか。 を傷つけたり苦しめたりするつもりはなかったのに、自身の戸惑いよりも、俺の態度がに負担をかけているみたいだ。 「……、側に行ってもいいかな?」 「え……?」 「心配しないで。決して今のには触れないよ。ただほんの少しだけ言っておきたいことがあるだけなんだ」 「コンラート!さっきと話が違うじゃないか!お前が一緒に出て行かないなら、ぼくだってここから、てこでも動かないからな!」 「ヴォルフ……お前ね」 ユーリが溜息をついて、ヴォルフラムの元に戻ると肩を叩く。 「頼むからこれ以上話をややこしくするなよ……」 「ではユーリはこいつの言うことをそのままに鵜呑みにする気か!?コンラートが今までにしてきた数々の行為を忘れたわけじゃないだろうな!?」 「そ……それを言われると……」 ヴォルフラムを連れ出してくれそうな雰囲気だったユーリが、ちらりと俺を振り返り、それからを見て唸り声を上げる。 ……少し傷付きましたよ、俺は。 「日頃の行いだねー、ウェラー卿」 猊下は心底楽しそうに笑って、勢いをつけてのベッドから飛び降りた。 「では、俺はここから動かないと約束します。陛下もヴォルフラムとそこにいてくださっても構いませんから」 「ウェラー卿、僕は?」 「……どうぞご随意に」 「ちょ、ちょっと待って、わ、わたしの意思は?コンラッド、どんな話をするつもりなの!?」 「そんなに慌てるような話じゃないよ。ただ、薬の効果が持続しても俺の気持ちは変わらないから、も焦ったりしなくていいということを言いたかっただけなんだ」 「あ、なんだ意外とまとも」 ユーリが小さく呟いた声は、しっかりと俺の耳に届いた。 本当にに関してはまるで信用がないようで、その言葉はかなり辛辣なんですが。 「で……でも……あの……」 が悪いわけではないのに、今にも謝りそうな雰囲気で視線を彷徨わせている。 ここでが謝る必要はない。 謝られてしまうと、まるでが悪いことをしたみたいじゃないか。 だから、謝らないでほしい。 だけど謝るなと言うのも、またの負担になるだけだ。 焦った俺からとっさに出たのは、たった一言。 「今は俺の気持ちだけを知っていてくれたらいい」 は、はっと驚いたように顔を上げる。 この一言でが気付いてくれた。 何気ない、会話に埋れてしまいそうな言葉なのに。 そう思うだけで、俺はようやく無理をせずにに笑いかけることができた。 「……待つよ。それは俺にとって無意味なことじゃないから」 これはずっと以前、まだが俺を振り向いてくれなかった頃に言った言葉。 そう、まだが俺を愛してくれていなかったときに告げた想い。 どうしてあのときの言葉が出たのか、すぐには判らなかった。 謝らなくていいのに、謝ろうとする今と。 まだ出会って少ししか経っていなくて、俺がユーリに敵う要素がまるでないときに、決して俺を好きにはならないと結論を出そうとしたあの時と。 状況が似ているのかもしれない。 そう気付いたのは、が涙を滲ませて、だけど確かに微笑みながら頷いてくれたときだった。 俺が欲しかったのは、謝罪じゃなくて、君のその笑顔なんだよ、。 「わっ……って、!?え、ええっと、出ろ!表に出ろっ」 が泣き出したのは、悲しくてではないとは雰囲気と表情ですぐに判ったようだったけれど、ユーリは俺とヴォルフラムをまとめてリビングの方へと突き飛ばして追い出した。 「村田!村田も来いって!」 「はいはい、慌てなくても泣いてる女の子をじっと観察するほど悪趣味じゃないって」 最後に猊下を引っ張り出すと、ユーリは寝室に続く扉を閉めて番をするように張り付く。 「ユーリ!は泣いていたんだぞ!?」 「お前だって見たら判るだろ!?あれ、嬉し泣きだったじゃん!せっかく元気になったんだから、ここは余韻に浸るべき……っていうか、何あの言葉!?コンラッド、あれなんて魔法!?」 「やだなあユーリ、この世界にあるのは魔術であって魔法じゃないですよ。それに俺は魔力の欠片も持っていないから、魔術も使えません」 「基本ボケで返してくるなよ!」 薬を飲んでから初めて、が俺を見ても困ったり怯えたり悲しんだりしていない表情を見ることが出来て、俺は上機嫌だった。 アニシナの薬の効能を信じるなら……の態度を見たところは信じるべきだろう……今のの気持ちは俺には向いていない。 なのに、俺の言葉で涙を浮かべるほど喜んでくれた。 それはつまり、を憂鬱にさせていたのは、猊下に対する想いそのものではなくて、俺との間に出来た距離だったのだという証拠じゃないか。 「……ふーん……二人だけに通じる話か何かだったってことかな」 寝室のの側に行きたそうにしながら堪えているヴォルフラムと、そのヴォルフラムを扉に貼り付いて牽制しながら俺に不審な目を向けるユーリとは別に、さっさとテーブルに移動して、息をつきながらソファーに座った猊下が呟いた。 その声にどこか面白くないといった感情が含まれていたように聞こえて、少しは浮上した気分を上から抑えられたような錯覚を覚える。 猊下は水差しの水をグラスに注ぎ、それを一口飲んでから振り返った。 「ねえ渋谷、映画だか小説だかで、昔こんなフレーズを見たか聞いたかをしたんだけど、それが何か思い出せないんだよね。君は何の作品か判る?」 「いきなり何の話?で、どんなフレーズ?」 突然、まったく関係のないことを言い出した猊下に目を瞬いて、ユーリは俺に向けていた不審そうな視線を猊下に移した。 「いつもいつも夫持ちとか彼氏持ちとかの女の子を好きになる主人公に、友人がどうしてお前は他人のものばっかり欲しがるんだってからかってさ、それに別の友人が主人公に代わってこう答えるんだよ……『決まってるだろ、恋する女が可愛いからだ』って」 部屋に沈黙が降りた。 俺が恐る恐ると振り返ると、猊下はにっこりと何かを含んだ笑顔でユーリから俺に視線を動かす。 「僕との繋がりは、決して恋には発展しないものだけどね。疑似体験になるかな?……は、させてもらったよ。ふーん、ウェラー卿はいつもあんな風に彼女に見られてるんだねえ……羨ましい」 「猊下!はぼくのものです!」 「フォンビーレフェルト卿のものは渋谷だろ」 「そ、そうですが!その、で、ですが……い……妹で……」 「おれが誰のものだって!?怖いこと言うなよ村田!それにいつもの勢いはどうしたヴォルフ!?のことを『ぼくの妹』だって言い切ってるくせに!」 「う、うるさい!判ってる!」 「渋谷、フォンビーレフェルト卿にとってが妹になるのは、君と結婚したときだよ?へえ、渋谷は覚悟を決めたんだ。よかったね、フォンビーレフェルト卿」 「ぐあっ!そうだった!ち、違う!それはその……けどヴォルフラムがに惚れてんのもマズイだろ!こう……なんか色々とさ!」 まずいというか、冗談じゃないという話なんですが……。 「今、無性にカラオケに行って槙原の『彼女の恋人』を歌いたい気分になってきたなあ。フォンビーレフェルト卿にとっても、僕にとっても、ウェラー卿は友達じゃないけど」 「それ横恋慕ソングだろ!?なあ、冗談だろ村田!冗談なんだよな!?」 「さあーねぇー?」 混乱するヴォルフラムと、悲鳴を上げるユーリを楽しそうに見比べて、猊下は最後に俺を見て微笑んだ。 「冗談か本気か、ウェラー卿はどう思う?」 これほど性質の悪い笑みを見たのは初めてかもしれない。 |