後に渋谷有利はこう語る。 「こんなに気疲れすることなんて滅多にないよ。まあでも、改めて判ったことが一つあるんだ。これは収穫かな。……コンラッドのことはの恋人として信頼できると思ってたんだけどね……」(深い溜息。後、長い沈黙) 矛盾の配分(4) 「とはいえ、はどこ行ったんだろう……」 地下から駆け上がったところで、まず右に行くか左に行くかと廊下を見渡して迷う。 「日本でのの行動なら予測できるけど、こっちの世界で落ち込んでいるときに行くといえばどこだ!?」 日本でなら、落ち込んでいたらおれのところに来るか、おれと喧嘩しているときならお袋のところか自分の部屋に篭る。 でも今はおれはここにいるし、コンラッドのところには行けないし、お袋はいないし……。 「あ、自分の部屋か」 泣いていたことも合わせて考えると、あまり人と会わないように自分の部屋に帰っているのが一番ありえる気がしてきた。城内をふらついてたら、コンラッドに出くわす可能性もあるわけだし。 そうと決まれば、まずの部屋に行ってみようと走り出したところで、担架でギュンターを運ぶダカスコスたちに出くわした。何故ギュンターがうつ伏せなのか非常に気になる。 「お疲れさん、ダカスコス。なに、今から医務室行き?……じゃないな。そういや、村田がグウェンダルの代わりにギュンターをアニシナさんの実験に捧げるとかなんとか……」 「はあ、そうです。猊下のご命令でギュンター閣下を地下へお連れするところで……その、閣下は大丈夫でしょうか……床で大の字になって倒れていらしたのですが」 「え、倒れてた?」 「はい。猊下のご命令で、猊下がお呼びだと……そのぉ……閣下を騙す形でお連れするようにとのことでしたが、部屋に行ってみると…頭を打って気を失っておられたようで……先に医務室にお連れしたほうが良いかとも思ったのですが……猊下のご命令ですし……」 「頭……ってあのときか!」 がアニシナさんの薬を飲んだと聞いて気絶したギュンターの胸倉を掴んで揺さぶった後、おれはギュンターを放り出した……ような気がする。後頭部を打ったからうつ伏せなのか。 だけどグウェンダルが帰ってきてくれないと困るのも事実で。 「……ついでだから、実験前に打った頭もアニシナさんに診てもらえばちょうどいいんじゃないかなーと思うよ?心配ならギーゼラにも来てもらうとか……」 「軍曹殿をアニシナ閣下の実験室にお連れするんですか!?か、勘弁してください!」 ダカスコスともう一人の兵士は同時に震え上がり、ものすごい速さで地下へ担架を抱えて走り去ってしまった。アニシナさんは治療の心得もあったはずだから、きっとたぶん大丈夫だろう……うん、きっとたぶん。 ギュンターを生贄にすると約束したのは村田だから、責任を持って面倒を見るだろう。 むしろ村田の足止めになってちょうどいいかもしれない。 前向きに捉えて考えることにして、おれは当初の目的通りにの部屋に向かった。 部屋に到着してノックをしたけど返事がない。勝手に入ってみたけど、リビングにその姿はなかった。 寝室に移動しても、ベッドには想像したようなシーツで丸まった蓑虫もいない。 間違ったかなあと頭を掻いて、次に行くところを考えながら寝室を出ようとしたら、少しだけ風が吹いた。 危うく見逃すところだったじゃないか。 はソファーにもベッドにもいなかったけど、やっぱり部屋には帰ってた。 寝室のバルコニーに出て、手摺りに両腕をついてそこに顔を伏せて立っている。 その背中は泣いているように見える。 そんなに村田の前でコンラッドが恋人だと言ったことがショックだったんだろうか。 もちろん薬のせいだからは悪くないけど、なんだかコンラッドが可哀想な気がする。 を驚かさないように注意して、わざと音を立てて薄くだけ開いていたバルコニーに続くガラス戸を押し開けた。 「、大丈夫か?」 「……ゆーちゃん」 は手摺りに顔を伏せたまま、憂鬱そうな声で尋ねる。 「……コンラッドは……どうしてる?」 「え?あ、コ、コンラッド?部屋に帰って着替えてるよ。心配するな、村田に止められてたから、今はこの部屋に来ないよ」 途端に振り返ったは、悲しそうにぎゅっと唇を噛み締めていて、ひょっとしておれじゃなくてコンラッドに来て欲しかったのかと思った。 「そう……」 けど、次に呟いた言葉には安心したような様子が見える。 「あ……あのさ、そんなに気にするなよ。薬のせいだってコンラッドも村田も判ってるしさ。仕方ないってコンラッドも言ってたよ」 「……ホント……?」 言ってないけど、コンラッドなら判ってくれてはいるはずだ……たぶん。実際惚れ薬だと聞いてるわけだし。 歯切れの悪いの肩を叩いて、できるだけ気楽に聞こえるように能天気を装って笑い飛ばす。 「ホントだよ。それにだって、村田のことが気になるのは今だけだから!」 「そっ……」 は驚いたように顔を上げて、それから言葉を飲み込むように口を閉じて俯いた。 「うん……そうだよね……そうでなくちゃ……」 「……?」 今、否定しようとしなかったか? え、は村田が好きでいたいのか、いたくないのかどっちだ? いつものならもちろん、村田とは友達付き合いしかしたくないだろうし、コンラッドのことが好きだろう。けど今は村田が好きで……えー、コンラッドのことは好きじゃなくて、でも恋人はコンラッドで、村田は友達で……。 頭が混乱してきた。 「……ひょっとしてさ、コンラッドと別れたいとか、村田とお付き合いしたいとか……そんな感じ?」 思わず訊ねてしまったその直後、聞くんじゃなかったとひどく後悔することになる。 「わかんない……」 は泣きそうな顔で、心細い小さな消え入りそうな声で呟いた。 即座に否定されることを期待して訊ねたことだっただけに、逆に否定できなかったことがおれだけじゃなくて、にもショックだったらしい。 ますます青褪めて、バルコニーの手摺りにもたれるように背中を預けて座り込む。 「だってアニシナさんから薬の話を聞いたとき、最初に見たのは村田くんだったのに何も感じなかったの。きっとコンラッドのことを想う気持ちは薬になんて負けないんだって……そう思ってたのに………」 は自分を抱き締めるように両手でぎゅっと両腕を握り締める。 「コンラッドがお風呂に飛び込んできたとき……怖かった」 「それは……」 急に男が風呂に飛び込んできたら、怖くて普通だろう。いくらコンラッドとはいえ。 思わずそんな感想を持ったのに、は青褪めた顔を膝に埋めてとんでもないことを口にした。 「今まで怖いなんて思ったことなかったのに……恥ずかしいから嫌だとか、腹が立ったりしたけど、怖いなんて思わなかったのに……」 「……ん?……え、なんか今、おかしなこと言わなかったか?」 今まで……恥ずかしいから? それはつまり。 「コンラッドが風呂に乱入したのってこれが初めてじゃないの!?」 「違うよ。だからきっとコンラッドもすぐに判ったんだ。わたしが恥ずかしがって怒ったんじゃなくて、怖がってるんだって、すぐに判ったんだよ。きっと傷付いた……」 待て。 待て待て待て! 今、とてつもなく重要な証言が飛び出しているんじゃないのか!? ああ!でもは今すごく混乱していて、問い詰めるどころじゃない。 く……くそ……コンラッドめ。あれだけ清く正しいお付き合いをとおれが言い聞かせていたのに、と一緒に風呂を楽しんでいたりしたのか!? 急に同情心が失せた。 だけどコンラッドに対する同情が失せたからと言って、このまま帰るわけにはいかない。 コンラッドはともかく、が泣きそうなのに置いてはおけない。 説教は後で落ち着いてからするとして、今はを宥めないと村田が登場する。 ああ、今は非常にマズイ。今ならおれも村田を応援してしまうかもしれないじゃないか。 「……最初はそんなこと思わなかったのに、さっき村田くんを見たら、ドキドキしたの。こんなの違うと思うのに、判ってるのに、村田くんの顔を見たら嬉しくなるの……」 ……大丈夫だ。村田を応援することもなさそうだ。 判ってる。村田は悪くない。 村田は悪くないんだけど……なんかむかつく。 「コンラッドが怖いなんてやだ……村田くんを好きだなんて変なのに……でも、村田くんのことばかり考えちゃう……」 「く……薬のせいだよ、。薬さえ抜ければ……」 コンラッドを怒ればいいのか、村田を恨めばいいのか、引き攣りながらそういうと、は首を振って顔を上げた。 「でもコンラッドは傷ついた!」 今にも泣き出しそうな表情が痛々しい。 うう……判ってる。シスコンを爆発させてコンラッドや村田に怒っている場合じゃないんだ。 「こ……怖がるなんて……怖がるなんて形で、コンラッドを拒絶しちゃった………それがこんなにつらいのに、わたしはすぐに村田くんのことばっかり考えちゃう!コンラッドのことを考えても、村田くんのことを考えても、同じだけ胸が苦しいの……っ」 「ああ…………」 ボロボロと涙を零すを抱き締める。 おぼろげながら、村田が言いたかったことが判ったような気がする。 はアニシナさんが言ったみたいに、村田の前でコンラッドのことを恋人宣言したことがつらかったんじゃなくて、それをつらいと感じたことがより苦しかったんだと……たぶん、そういうこと。 薬のせいだとしても、コンラッドを裏切っている気持ちになるんだろう。 「あんまり難しく考えるなよ。いっそ眠っちゃえばどうだ?起きていろいろ考えるからつらいんだよ。寝ちゃえばさ、村田を見ることもないし」 村田の名前を聞いて、腕の中のが震えた。くっ……禁句だった。 いっそ村田にはしばらく眞王廟に篭ってもらうのがいいかもしれない。 コンラッドを恋人と感じられなくてつらいのはどうしようもないけど、村田の顔を見て好きだと感じてしまうほうは、村田がいなければまだどうにかなるんじゃないだろうか。 側にいなくても村田のことを考えてしまうらしいが、それでも二人が顔を合わせるよりはマシだろう。コンラッドの精神衛生上も。 の肩を抱いてバルコニーから寝室へ移動する。 真昼間だけどもう寝てしまえと片手で肩を抱いたままブランケットをまくったところで、荒々しく扉が開けられた。 驚いて一斉にリビングに続く扉のほうを見ると、肩で息をするヴォルフラムが濡れた髪の奥からおれを激しく睨みつけてくる。 「ユーリ!貴様ぁっ!」 「な、ななななんでヴォルフがくんの!?」 ヴォルフラムは部屋を見回して、ギリリと音を立てて歯軋りすると素早く駆け寄ってきておれを掴み上げた。勢いで振り回されたが小さく悲鳴を上げてベッドに倒れる。 「コンラートを遠ざけておいたことは評価してやる……とでも言うと思ったか!?を昼間からベッドに連れ込んで、一体なにをする気だったんだ!?」 「イカガワしい言い方すんなよ!単に疲れきってるから寝かせようとしただけだろ!?」 「ね、寝る!?ぼくのに……違う、ぼくという者がありながら、妹と!?ぼくだってまだにろくに触れたこともないのにっ!」 「混乱してるぞ、お前!おれがに触っちゃ駄目なのは、おれが婚約者だからか!?それともを好きだからか!?」 「……っ……ど、どちらにしても駄目なものは駄目だ!ぼくの婚約者でありながら、ぼくのにいかがわしい真似をするなっ」 「お前の主張の方がイカガワしいだろ!?」 「……君達ねー……レディーの寝室で痴話喧嘩しないの」 ぜーはーと息を乱した村田の声が聞こえてはっと気が付くと、膝に手をついてずれた眼鏡を押し上げながらよろよろと部屋に入ってきた。 「フォン……ビーレフェルト卿が……風呂から上がった途端……の姿が見えないって飛び出したから、慌てて追いかけてきてさ……はあ、疲れた」 そのまま「よっこらしょっと」なんてじじくさい掛け声でベッドに腰掛けた。 「ああ、疲れた。僕は頭脳労働担当なのにさ。結局、の部屋に着くまでに捕まえられなくてここまで来ちゃったよ……ああもう、渋谷なにやってるのさ。を泣かせるなって言ったのに」 枕を抱き締めて呆然とするの泣いた跡を見て、村田は学ランのポケットからハンカチを取り出して、の涙を拭いて……ようやく気が付いた。 「しまった……やっちゃった……」 の顔が一気に真っ赤に染まったのを見て、今は一番してはいけないことだったと思い出したらしい。……気付くのが遅い。 「くそ、村田お前、コンラッドみたいな紳士な真似するなよな!」 「猊下!に触れないで下さいっ」 ヴォルフラムが村田に掴みかかった……というか、から少しでも離そうとして突き飛ばしたのを見て、が悲鳴を上げる。 「やめて!村田くんに乱暴しないでっ」 普段ならからは絶対に聞けないような村田を庇う発言に、ヴォルフラムはまだいまいちピンとこなかったようだけど、おれと村田とは一斉に固まった。 おかげで、村田は突き飛ばされた勢いのままでごろりとのベッドに転がる。 「………渋谷」 「え、な、なに?」 ベッドに転がったまま、村田が小さく呟いた。 「ちょっと今、感動したかも」 「お前まで何言っちゃってんのー!?」 「冗談だよ、じょうだ……あ」 村田が笑いながらベッドの上を更に転がってから離れて行く途中で声を上げた。 その視線はリビングへと続く扉のほうに向いている。 「うっ……」 は、つい自分のベッドの上にいる村田に意識が向いてしまうんだろう。おれの呻きを聞いてようやく赤く染めた顔を枕で半分隠しながら上げて、硬直した。 「あっ、コンラート!の部屋に入ってくるなっ!」 実兄の手の早さを知っているヴォルフラムが、蒼白な顔色で戸口に立ち尽くすコンラッドを激しく威嚇した。 |