後に村田健はこう語る。
「いやあ、さすがに今回は参ったね。僕も案外不測の事態には弱いんだなあって思ったよ。フォンカーベルニコフ卿の実験の被害って、被験者以外にも飛び火するんだね。僕はねえ、面白い事態は好きなんだけど。当事者になるのは好きじゃないんだ……」



矛盾の配分(3)



風呂場から出てきたは、すぐにおれの後ろに駆け寄ると、盾にするように背中に貼り付いてきた。
「ユーリ!から離れろ!」
「お、おれに言うなよ、おれにっ!」
さっそく噛み付いてきたヴォルフラムが強引にの腕を取っておれの後ろから引きずり出すと、そこにはコンラッドもすぐ目の前にいる。
怯えたように震えて視線を逸らしたに、コンラッドも再びショックを受けたようでぎゅっと唇を噛み締めた。
そんなの様子に気がついたヴォルフラムが、大丈夫だと肩を抱く。
にある薬の影響はコンラッドと村田に対してだけだから、元から仲が良いヴォルフラムのそれくらいの接触は大丈夫らしい。振り払いはしなかった。
だけどヴォルフラムの熱心な視線には困惑しているみたいで、助けを求めるようにが見たのは、おれじゃなくて村田だったりする。
……頭が混乱してきた……なんだろう、今どうなってんの?
に救いを求められた村田は、気を取り直したようにごほんと咳払いした。
「えー……まあみんな、ちょっと落ち着こうよ。ウェラー卿はまず着替えてくるといいよ。フォンビーレフェルト卿はに続いて風呂を借りてさ」
「それで猊下がを独り占めにする気ですか」
ヴォルフラムに威嚇するように睨み付けられて、村田は溜息をついて首を振る。
「違う、そうじゃなくて、そこで混乱して役立たずに突っ立っている渋谷に預けるといいと思うんだよ。渋谷はのお兄さんだから中立だし、シスコンだから僕がに近付くのを良しとしない。それなら君達も少しは安心して席を外せると思う。もちろん僕もには指一本触れないと誓うよ」
「え、なにその端々に漂う言葉の棘。村田さん、なんかおれに含むところある?」
「………の兄で、ウェラー卿の主で、フォンビーレフェルト卿の婚約者で、その三人に対して一番影響力を持つくせに、ぼーっと突っ立ってることに苛立ちなら感じているね」
「コンラッドは着替え!ヴォルフは風呂!はい、を返せ!」
怒っている村田は怖い。口は笑ってるのに、眼鏡の奥の目が笑ってない。
本気モードの村田は滅多にお目にかからないけど、おれより魔王に向いてるよ、絶対。
ところがコンラッドもヴォルフラムも、おれの命令でもなかなか動こうとしない。
が肩に置かれたヴォルフラムの手を外して、困ったようにそっと見上げた。
「お風呂、先に譲ってくれてありがとう。今度はヴォルフラムがちゃんと薬を洗い流したほうがいいと思うの……ね?」
としては仲のいい友達の心配をしただけなんだろうけど、惚れてる女の子にあの至近距離で心配そうに見上げられて、平気でいられる男がいるならお目にかかりたい。
平気な可能性を持つ男なら目の前にいるが、今はショックで口も聞けない状態だ。
そしてその弟は、当然ながら平気じゃない。
「あ……ああ、がそう言うなら……」
顔を真っ赤に染めて、浴室に駆け込んだヴォルフラムは、思い出したように顔を出して、最後におれに指を突きつけた。
「ユーリ!に猊下を近づけるなよ。コンラートもだ!そいつは手が早いからな。
それから……ぼ、ぼくはその、今は少し混乱してるが、お前も浮気はするなよ!」
「へ?」
照れ隠しなのか急いでいるからなのか、乱暴にドアが閉められた。部屋の持ち主であるアニシナさんが嫌そうに顔をしかめる。
驚いたのは、おれだけじゃなくてコンラッドもだ。
「アニシナ、ヴォルフは今いつもみたいに陛下のことも言っていたが……」
ヴォルフラムのいつものセリフが出て、ようやく活動停止状態から復帰したらしい。
「当然です。マージョルノキケーンはあくまでも心理的変化に影響を及ぼす薬であって、記憶に混乱をきたす薬ではありません。二人とも記憶ははっきりしていますよ」
「え、でも……」
記憶がはっきりしてるのなら、のコンラッドに対する態度は何だ?
ヴォルフラムが風呂に入ってしまうと、はおれの背中にまた貼り付いてコンラッドへの盾にしている。
「な、なあ、記憶がはっきりしているなら自分の恋人が誰か判ってるんだろ?そんなに怯えることないじゃん」
「え……あ……う……うん………」
首を捻って後ろのに確認すると、は困ったように俯いて、それから入り口にいる村田を見る。
ぎゅっと唇を噛み締めて、目に涙まで溜めて頷いた。
「うん、判ってる……」
「え、ちょっと待った、なんで泣いて……」
「……ごめんなさい」
は小さく呟くと、おれの後ろから離れて入り口へ向かって駆けて行く。
俯いてよく見えなかったけど、確かに泣いていた。
!」
一瞬ひやりとしたけど、は村田に向かって走っていたわけじゃなかったらしく、村田が道を空けるとそのまま部屋から駆け出して行く。
だけど村田は、すぐにまた入り口に立ちはだかって、追いかけようとしたコンラッドには足止めをした。
「猊下!どいてくださいっ」
「今、君が追いかけたらは困るだろうね」
「ですがが泣いているのに!」
「だーかーらー、君が追いかけたらますます泣かせるって言ってるんだよ」
「そうですねえ、今の殿下にとっては、好いた男を目の前にして、好きでもない男を恋人だと宣言したようなものですから、さぞおつらいでしょうね」
「アニシナ!」
グウェンダルが縛り付けられた椅子を鳴らしてアニシナさんを非難する。
気持ちは判る。格好が格好だけに決まらないけど、その気持ちはよく判る。
……コンラッドが真っ青な顔色で立ち尽くしているから。
こんな状況なのに、アニシナさんは相変わらず容赦がない。
「そもそも恋愛感情というものは一種の錯覚による作用でしょう。記憶がはっきりしているとはいえ、感情が伴わない記憶に従うのは義務でしかありません」
「いい加減にしろ!元はといえばお前の研究がこのような事態を引き起こしたという自覚はあるのか!?いいからお前は無駄口を叩かず―――」
「……猊下、着替えのために部屋に戻りたいと思います。よろしいですか?」
グウェンダルの怒り心頭の言葉を、コンラッドの静かな声が圧倒した。
村田はコンラッドをじっと見上げてから、もたれていたドアから離れる。
「あの……コ、コンラッド………?」
どう言えばいいのか、謝るのも慰めるのも違う気がして、声をかけたけど後が続かない。
「……すみません、陛下。頭を冷やしてきます」
おれが何も言えないまま、コンラッドは静かに研究室を出て行った。


「ああ〜どうしよう〜……エライことになった……」
そうじゃなくても、コンラッドは村田のことをずっと気にしていたのに、よりによってなんでが惚れちゃう相手が村田なんてことになったんだろう。
頭を抱えてうずくまるおれに、上から特大級の溜息が降ってきた。
「あのさあ渋谷。この状態で動けるの、君しかいないんだけど。なんでここで頭を抱えているだけなのか、理解に苦しむよ」
いつの間にか目の前まで歩いて来ていた村田に腕を捕まれて引き上げられる。
「う、動けるったって、解毒剤ができなきゃどうしようもないんじゃ……」
「違うだろ。ウェラー卿が側に行くのが、今は一番マズイんだよ。だからって、僕が行っても彼女はつらいし、フォンビーレフェルト卿も薬の影響があるから、冷静に彼女の相手はできない。君しかいないの。ほら、混乱してる彼女をひとりにしない!」
「いや、それはそうなんだけど、だけどなん言やいいんだろう!?あ、く、薬のせいだからしばらく待っとけば大丈夫って言えばいいのかな?行ってくる!」
「不合格!」
の後を追いかけようとしたら、けしかけた本人のくせに襟首を掴んで引き止める。
「ぐぇぇっ!なんて危険な止め方するんだ!不合格ってなんだよ、不合格って」
「その慰めは不合格。彼女がなんで泣いてしまったのか、ちゃんと理解しろよー」
「え、だ、だってアニシナさんが言ってた通りじゃないの?今は村田が好きなのに、村田の前でコンラッドが恋人だって言ったから……」
「しーぶやぁー」
村田は額を抑えて深く溜息をつく。
なんだろう、おれ、何か変なことを言ったか?
「フォンカーベルニコフ卿の言った情報のひとつひとつを切り離して考えるなよ。は記憶ははっきりしてるんだよ?ウェラー卿が恋人だってことはちゃんと理解してるし……あー、いや、理解してるだけじゃなくて……『覚えてる』」
「それは判ってるよ」
「いや、判ってないね。君もまだ混乱している。いいかい、はウェラー卿が恋人だということも、彼を好きだということも覚えている。でも今は気持ちが伴わない。今は僕のことが好き。だけど僕との関係も、元の僕に対する感情も覚えている」
「だからそれは判ってるよ。それもこれも全部薬のせいなんだから、薬の効果さえ消えたら元通りになるじゃないか。いいから放せよ、行って来る!」
村田の手を振り払って、を探す為に廊下に飛び出す。
「渋谷、フォンカーベルニコフ卿の言葉を忘れるなよ!彼女は『覚えてる』し、恋愛感情は『錯覚』なんだよ!」
村田も廊下まで飛び出してきて、後ろから大声で念を押す。だから判ってるって。
「君が説得に失敗したら、次は僕が代わりに行くからねー!忘れるなよー、今のは僕に惚れてるからー」
「なにぃ!?」
どういうことだ!?
思わず急ブレーキで振り返ったけど、村田は言うだけ言うとアニシナさんの研究室に戻ってしまった。
いや、どういうことだもない。
おれがを宥めるのに失敗したら、村田が代わると言っているだけなんだけど、後半のセリフはなんだ。
は今、村田に惚れてる。
惚れてる男に慰められる……イコール、村田になびくってこと!?
「何考えてるんだよ、村田ぁー!」
絶叫しても返事は返ってこない。
「と、とにかく、おれがを宥めたら問題ない。今のに村田は絶対に近づけさせられない……っ」
まずはを探そうと、地下から階段を駆け上がった。








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