アニシナさんのことは有利に任せて、一刻も早く掛けられた薬を洗い流さなくてはとコンラッドをわたしの部屋に連れてきて浴室に押し込んでから、ふとコンラッドが飲んだという薬の効果を聞き忘れていたことに気がついた。 わたしの時は美容液だったわけだけど、まさかコンラッドにまで美容液を試したわけじゃないだろうし、お風呂から上がってきてから聞けばいいかな、と脱衣所でしゃがみ込んで頬杖をついていると、浴室からいくつかの物を落としたような大きな音が響いた。 薬がもう作用してきたのかもと慌ててドアをノックする。 「コンラッド!どうかしたの?大丈夫!?」 返事がない。 これは恥ずかしいとか言ってる場合じゃないと、取っ手に手をかけたところで、盛大な子供の泣き声が聞こえてきた。 「……まさか」 だって、今お風呂に入っているのはコンラッドだけで、先に入っている人がいないと確認したわけじゃないけど、わたしの部屋の浴室に子供が紛れ込んでいたなんて考えられない。 「コンラッド、入るよ!」 思い切って浴室のドアを開けたわたしの視界に、おろおろと困惑したように辺りを見回して泣いている茶色の髪の子供が映った。 歳の頃で言うと五、六歳くらい? 「……また失敗作……?」 その場にへたり込みたくなったものの、とにかく泣いている子供を宥めないとと、浴室に一歩踏み出したところで、子供が落ちていた桶に足をとられて、転んで湯船に沈んだ。 can I kiss you?(2) 「コンラッド!」 慌てて湯船に駆け寄って、お湯の中で溺れている子供を引き上げて宥める為に抱き締めて背中を擦っているところで、有利たちが駆けつけた。 「あ!有利、コンラッドが大変なの!」 有利はそのままへなへなと脱力したように座り込み、グウェンダルさんは額を押さえて壁際によろけてしまった。 動いたのはヨザックさんで、わたしの手の中のコンラッドを後ろから抱え上げる。 「そう泣かんでくださいよ隊長ー」 子供は……コンラッドは急に持ち上げられて驚いたようにきょとんと目を瞬いた。 ……けど、すみませんヨザックさん。助けてくれたのは判るんですけど、この状況でそんな後ろから抱き上げたら、わたしの目の前にコンラッドの……その、股間が。 ちっちゃい子供なんだと判っていても、相手がコンラッドだとも判っているので、さっと視線を逸らす。 有利以外のを初めて見てしまった……と言っても、有利とは今でも一緒にお風呂に入ってるけど、お互いに相手を凝視したりしないから、記憶に残ってるのは小さな頃の有利であまり大差な……。 「なに比べてるのよー!」 子供、子供!相手は昔の有利と子供のコンラッドだと思っても、なんだか物凄くはしたないことをした気分に……実際そうなのかもしれないけど。 「く、比べるって何が?」 突然叫んだわたしに、座り込んでいた有利が顔を上げて、慌てて手を振って否定する。 「え、あ、違う!違うからね、有利!その、有利のとあんまり変わらないなんて思ってないから!」 「…………待て!今お前、コンラッドのどこ見て言った!?」 「ど……どこって……だから違うってば!」 「ぎゃあぁぁっ!冗談じゃないっ!誤解だぞ、誤解だからな、ヨザック、グウェン!いくらなんでも五、六歳くらいのコンラッドと変わらないなんてことないからな!?は子供の頃の話をしてるだけだから!」 兄妹ふたりして、赤くなったり青くなったり、頭を抱えたり慌てて手を振ったり。 グウェンダルさんが深い深い溜息をつく。 「くだらん話をしていないで、は早く着替えろ。コンラートにも何か服を調達してやらねばなるまい」 ごもっとも。 「くだらんって何だよ!全然くだらなくないだろ!男の股間……じゃない、沽券に関わる話だろ!?」 「大丈夫ですよ陛下。判ってます、判ってますから。こんなかーわいい隊長と同じだなんて、そんなわけ……ナイデスヨネー?」 「なに、その憐れみの眼差し!?見栄張ってんじゃなくて本当に違うんだって!おい聞けよヨザック!違うんだーっ!!」 必死に叫ぶ有利をグウェンダルさんが引き摺って、とりあえず泣きやんでくれたコンラッドをタオルで包んでヨザックさんが抱き上げて、寝室を出て行った。 「……えーと……」 なんか色々ごめんなさい、有利……。 濡れた服を着替えてリビングに移動すると、有利がソファーの上で膝を抱えて小さくなって拗ねた独り言を呟いていた。 グウェンダルさんはその横で、眉間の皺も深く難しい顔で腕を組んで座っていて、ヨザックさんはからかって楽しい有利を言葉でつついて遊んでいる。 コンラッドはヨザックさんに抱き上げられて大人しくタオルにくるまれたまま、じっとしていた。 「あ……」 リビングに入ってきたわたしに気づくとコンラッドは、何故か怯えるようにしてヨザックさんの服をぎゅっと握り締めて身を寄せる。 え、な、なんかすごいショック。わたし何かした……? 「と……とりあえずヴォルフラムに服を頼んでいたけど、大人のコンラッドの服じゃどうしようもないし、わたしのTシャツ持ってきたんだけど」 この中で一番身体が小さいのはわたしなので、まだマシだろうと思ってのことだ。 訓練用の釦も紐もない半袖のそれは、コンラッドに着せるとシャツ一枚で全身がすっぽりと覆えてしまった。 こんなTシャツでも引き摺るくらい小さいコンラッド……半袖が長袖になっちゃうなんて……ど、どうしよう……それどころじゃないって判ってるのに……可愛い。 両手を握り締めて小さなコンラッドに胸をときめかせていると、それまで拗ねていた有利がぎょっとしようにわたしの握り合わせた両手を叩いた。 「その感動の目はなんだ!お前、少年趣味じゃなかっただろ!?っていうかこれじゃ幼児趣味だ!」 「でも有利……わたし、今ならお兄ちゃんの気持ちがよく判る……」 「よせ、やめろー!あのプチ変態の気持ちが判っちゃ戻れなくなるぞ!」 「……陛下と姫の兄君に一回お会いしてみたいもんですねー」 「今はコンラートをどこへ匿うかの話だ!」 グウェンダルさんがこめかみの青筋を痙攣させながらテーブルを叩くと、一瞬部屋が静まり返った。 全員で慌ててコンラッドを確認したけれど、怯えた様子で、だけど泣くのだけはぐっと堪えてヨザックさんの服を握り締めていた。 ヨザックさんずるい。小さいコンラッドを独り占め。 「って、それどころじゃない。でもグウェンダルさん、アニシナさんから匿うといっても、こんな症状が出てしまった以上はアニシナさんの診察を受けた方がいいんじゃないですか?」 「いや、とにかく二、三日は様子を見るべきだ。アニシナの計算によれば、その程度の期間で薬が抜けるはずだという。ならば、その間コンラートがどのような実験をされるか知れたものではない。アニシナに診せるのはそれ以上時間が経過しても元に戻らなかった場合だけで充分だ。以前、お前も一日で戻ったことだしな」 「………ということは、元々子供になる薬だったんですか?これで正しい効果?」 「あれ、言ってなかったっけ?」 有利が目を瞬く。聞いていない、聞いてないよ有利。 「アニシナさんの発明って、ときどきよく判んない……」 美容液とかなら需要はあると思うけど、記憶も思考も何もかも子供の頃に戻ってしまう薬に意義があるんでしょうか……意識が今の自分なら、ちょっとしたお楽しみにはなるかもしれないけど。 「あいつの発明は常に理解不能だ!」 グウェンダルさん、力説。 握り拳でテーブルを叩いてからヨザックさんの腕の中で怯えているコンラッドに気がついて、慌てて眉間の皺を伸ばそうと試みる。 「こわくないでちゅ……い、いや、我々はお前に危害を加える者ではない」 「そんな難しい言い回しじゃ子供にはわかりませんよ。コンラッド、この人怖くないからね?」 コンラッドの頭を撫でようと手を伸ばすと、びくっと大きく震えてヨザックさんにしがみつく。 「……わたし、嫌われてる?」 出会ってから今まで、コンラッドにこんな反応されたことなんてなかったから、かなりの衝撃。 「そりゃ、知らないお姉さんだとは思うけど、嫌われるようなことしたぁ?」 「落ち着け、知らない人間に囲まれて緊張してるのかもしれないし」 「人間?」 コンラッドは驚いたように部屋にいる自分以外のわたしたち四人を見回し、それから自分を抱き上げているヨザックさんを振り仰いだ。 泣いている以外の小さなコンラッドの声を初めて聞いた。当たり前だけど子供のその声は、声変わり済みの大人のコンラッドの甘い響きなんかじゃなくて、でも子供特有の高く可愛い声で……。 落ち着いて、本当にお兄ちゃんと同類になってしまうわ。 だけどそんな的外れた喜びはすぐに吹き飛んでしまった。 「だって、双黒は魔族にしか現れないって……尊い方だと、そう聞いて……」 ガツンと後頭部を殴られたような衝撃だった。 コンラッドがわたしや有利の髪や瞳を好きなのに、色なんて関係ないと言っていたのに。 当たり前だ。今ここにいるコンラッドにその頃の……大人になってからの記憶なんてありはしない。 「人間なの!?どうして!ここはどこ!?父上はどこ!?」 「あ……」 部屋の全員がはっと息を飲んだ。 有利を見ると青褪めた顔で困ったようにグウェンダルさんとヨザックさんを交互に見ていて、きっとわたしも似たり寄ったりの様子だろう。 コンラッドがこんなに小さいということは、まだコンラッドのお父さんは健在だったんだ。 「大丈夫、落ち着いてくだ……落ち着いて、コンラッド。いや、コンラートの方がいいか?」 ヨザックさんはお父さんの姿を探して暴れるコンラッドを、ソファーに降ろして肩を掴んだ。 「大丈夫だ。ここは人間の土地じゃない。血盟城だ」 「血盟……城?」 血盟城を知らなかったんじゃなくて。 コンラッドがさっと青褪める。 「父上は……」 「ダンヒーリー様は今はここにおられない。ああ、心配しなくても数日でお前さんを連れに戻って来られるよ」 「ヨザッ……」 そんな嘘をついてどうするのだろうと困惑するわたしたちを振り返ることなく、ヨザックさんは気楽な様子で続ける。 「風呂場で溺れてショックで忘れたかねえ?ダンヒーリー様は近くを通ったついでに、久々にコンラートを陛下にお見せしようと血盟城に来たのさ。けど陛下は現在政務で血盟城を留守にしておられて会えなかった。おまけにそこにきてちょっとしたトラブルが起こったから、ダンヒーリー様が解決に向かわれた。それまでここにお前さんを預けていかれたんだが」 「トラブルって?」 「そりゃあ、お前さんが大きくなったらダンヒーリー様もお教えくださるだろうけどね。こんなお子ちゃまに勝手に話したと知られたらオレが怒られちまう」 「子供じゃない!」 おどけて溜息をつきつつ首を振るヨザックさんに、コンラッドが眉を吊り上げる。 あの不安そうな表情が一気に吹き飛んでしまった。 ヨザックさんすごい。 「ほお?父上ー父上ーって姿が見えないだけで半べそかいて、子供じゃないって?」 「泣いてない!」 小さなコンラッドは、ぐっと腕で目の端に滲んでいた涙を拭ってヨザックさんを睨みつける。 「よしよし、さすがダンヒーリー様のご子息だよな」 ヨザックさんが乱暴にコンラッドの頭を掻き混ぜるようにして撫でると、コンラッドはそれを嫌がって手で払った。 「あんた、父上を知ってるのか?」 「オレか?オレは―――」 ヨザックさんは腰を伸ばし、コンラッドから目を離して窓の外に視線を転じた。 「……以前、ダンヒーリー様にこの命を助けてもらった。それ以来、この国にずっといる」 「……この国にいる前は?」 「オレは人間との混血でね。人間の国にいるときは酷い目に遭ってたのさ」 「混血……」 ヨザックさんを見上げるコンラッドの目が驚いたように大きく見開く。 「混血がなんで血盟城に?」 「どんな血が混じってようと、オレは魔族だぜ?そりゃあ任務があれば登城も許されるさ。……陛下がそう、国を変えていってくださってるところだ」 「母上が?」 わたしは息苦しさに、ぎゅっと両手を握り締める。 グウェンダルさんは痛みを堪えるかのように眉間に皺を寄せて目を閉じて、有利はわたしと同じで言葉もなく眉を下げていた。 コンラッドがまだこんなに小さな子供だった頃。九十年近く前のこの国が、一体どんな様子だったのか、わたしと有利は知らない。判らない。 「ははぁ、血盟城にいると肩が凝るのか。なるほどね、いっそダンヒーリー様がお帰りなるまで、城下町で過ごしてみるのも手だな。どうです、グウェ……フォンヴォルテール卿」 「あ、ああ、うむ。望むようにするといい」 「フォンヴォルテール卿?……兄……グウェンダル様のお父上……?」 「む?あ、いや……まあ……う、うむ」 グウェンダルさんは散々に迷ってから、結局それで通すことにしたようだった。 実はコンラッドが薬を飲んで子供になっているだけで、ここにいるのはそのお兄さん本人ですよーというより、そっちの方がずっと信じられる話だと思う。……後から聞いた話では、子供のわたしは有利がタイムスリップしたという話をあっさり信じたそうですけどね……。 「あ、で、あのさコンラッド!……あー、コンラートの方がいいんだっけ?」 「い、いえ……どちらでも……」 有利が身を乗り出すと、コンラッドは気後れしたように逆に仰け反った。 「えっとじゃあコンラッド。おれはユーリね。渋谷ユーリ。で、こっちは妹の」 「ユーリ様……様……?」 「様はいらないって!ただのユーリとでいいんだって!」 「で、でも……」 「あー、だから気にするなよ。おれはただの居候なんだからさ!……ってことだよね?」 有利が振り返ると、ヨザックさんは苦笑して、グウェンダルさんは肩を竦めるだけだった。 今のコンラッドにとって魔王はツェリ様で、となると確かに有利とわたしはよく判らない珍客でしかないわけで。 わたしはコンラッドを驚かさないようにできるだけゆっくりとその前に膝をつき、下から覗き込むようにしてコンラッドの茶色の瞳を見詰めた。当たり前だけど、その銀を散らした輝きは変わっていない。 「仲良くしてくれる?」 コンラッドは差し出したわたしの手をじっと見詰めた。 「……いいの?」 何が、とは聞かなくてもいい。ヨザックさんが混血だと聞いて、どうして血盟城にいるのかと驚いていたのだから。 「もちろん!」 にっこり笑って更に手を進めると、コンラッドはおずおずと握手を返してくれた。 小さくて温かくて、そして。 まだろくに剣を握ったことのない、柔らかい掌だった。 |