それは不幸な事故だった。
おれが仕事に疲れて逃走……じゃなくて、コンラッドの協力の元の自主休憩から帰ってきたときのことだ。
「うー……グウェンダル、怒ってるよなあ……」
「そもそもユーリの立場なら、グウェンに『黙れ』と一喝しても問題ないんですけどね」
「そんなことおれにできるかよ!おっそろしい!」
グウェンダルに「黙れ」と言われたことなら何度もあるが、その逆だなんて恐ろしい。
どんな目で睨まれるんだと想像だけで怯えながら、当面の問題として現在のフォンヴォルテール卿の怒りを考えて憂鬱に執務室のドアを小さくノックした。
「あーの〜……」
返事がない。というよりドアの向こうで騒ぎが起こっている気配がする。
何だろうとコンラッドを見上げると、名付け親はおれを庇うように前に出て、下がっているように指示してくる。
おれが二歩ほど下がったのを確認してから、コンラッドが執務室のドアを開けた。
「グウェンダ……」
「観念なさいっ!」
聞き慣れた女性の怒声が聞こえて、おれも全てを悟った。またアニシナさんのモニターにとっ捕まりそうなんだろう。
それならおれに危険はないと判断して、コンラッドにどんな様子か聞くこともなく、その脇からひょいと顔を出して室内を覗いてみた。
「ユーリっ!」
「へ?」
コンラッドが叫ぶのと、グウェンダルがアニシナさんの持っていた瓶をこちらに向かって弾くのが同時だった。
たぶん、コンラッドだけなら余裕で避けられたんだと思う。
おれを庇ったコンラッドは、まともにその瓶の中身を被ってしまった。



can I kiss you?(1)



「コンラッド!」
「コンラート!」
「あら、不幸な事故が」
蒼白になったグウェンダルが駆け寄ってきて、膝をついたコンラッドに触ろうとしたおれの手を弾いた。
「よせ!この液体に触るな!」
「え、触るなってなに!?飲むんじゃなくて触るだけでもヤバイの!?」
グウェンダルの言葉を聞いて、コンラッドまで液体を落すまでは俺に触らないでと離れてしまった。
「いや、内服薬だという話だが念のためだ。コンラート、一滴も飲んでいないな!?」
「……いや」
薬が苦かったのか、どんな症状が襲ってくるのかという気がかりからか、コンラッドは顔をしかめて首を振る。
グウェンダルは眉間に皺、こめかみに青筋を立ててアニシナさんを振り返った。
「アニシナ!私の弟には手を出すなとあれほど言っただろう!」
「ウェラー卿に向かって薬を飛ばしたのはわたくしではなく、あなたでしょう」
「くっ……」
「なあコンラッド、大丈夫か?吐き気は?眩暈とかしない?」
「そうご心配なさらずとも大丈夫です、陛下。その薬は特に危険なものではありません。ちょっとした子供の悪戯程度のびっくり現象が起こるだけです」
「悪戯程度って……」
「コンラートを連れて逃げろっ」
「に、逃げ!?」
「何を言うのですグウェンダル!こうなった以上は仕方がないでしょう。諦めてウェラー卿にはわたくしの実験に付き合ってもらわなくては」
「ふざけるなっ」
おれなら飛び上がって平伏して謝りそうなでっかい怒鳴り声にも、アニシナさんはこれっぽっちもビビらない。
「崇高な実験に協力するのは、世の為になることですよ、ウェラー卿」
「子供の悪戯程度の実験のどこが崇高だ!いや、子供の悪戯ですむか!もしコンラートが……あああ、とにかく行けユーリ!早くコンラートを連れて逃げろっ!アニシナは私が引き止める!」
「一体なんの薬なわけ!?」
果敢にもアニシナさんの正面に立ちはだかり、両手を掴んでコンラッドとの間に割り込んでいるグウェンダルは振り返らずに叫ぶように……というか叫んだ。
「以前、が服用した若返りの薬だ!」
「いいえ、正しくは子供返りの薬です。そもそも殿下がお試しになられたものは美容液でしたが、あの失敗を元に改良を加えてみたものですから。成功していれば、十歳程度の子供になるはずです」
「またかよー!?」
「二、三日で効果は切れるという!それまでコンラートを逃がせ!」
「すまない、グウェン……」
アニシナさんの実験に使われる恐ろしさは有名だ。
コンラッドも素直に兄貴にこの場は任せて、おれと一緒に執務室から逃げ出した。
顔色が悪い。どうやらやはり薬を飲んでしまっていたらしい。
「どうしよう、逃げるって言ったってどこに行けば……コンラッドの部屋なんて意味ないし、おれの部屋とかの部屋とかも当然探索されるよな!?」
それにできれば隠れる前に薬は洗い流しておくべきだ。
「だれかヘルプー!」
「なに廊下で叫んでるの、有利?」
目を瞬いて、ひょっこり廊下の向こうから顔を見せたのはだった。
「コンラッド!どうかしたの!?」
気分も悪そうに口元を押さえているコンラッドに気がついて、が慌てて駆け寄る。
後から一緒にヴォルフラムもついてきた。そういや、今は魔術の勉強時間だったっけ。
「大丈夫だよ、……」
「大丈夫じゃないだろ、アニシナさんの薬を飲んじゃったんだから」
「アニシナの!?」
ヴォルフラムまで青褪めて悲鳴を上げる。
「なぜだ、アニシナは今までコンラートのことは標的にしなかっただろう!?」
「それは不幸な事故で……それより早く隠れないと。今はグウェンが身を呈してアニシナさんを押さえててくれてるけど、見つかったらきっとコンラッドがモニターとしてあんなことやこんなことをされてしまう!」
それがどんなことか具体的に想像できたわけじゃなかったけど、実験後のグウェンダルとギュンターの様子を思い出して、おれたちは全員で危機感を募らせた。
は少し考えて、すぐにおれからコンラッドを引っ張って離した。
「とりあえず、わたしの部屋で薬を洗い流そう。ヴォルフラムはコンラッドの着替えを持ってきて。有利はアニシナさんをかく乱して」
「えええ!?おれ?おれがアニシナさんにどうやって対抗するの!?」
「対抗しなくていいんだってば。逃げた先の嘘情報を流してくれたらいいから」
「でも、の部屋なら探索の手が伸びるだろ!?」
「わたしが入浴中なら、まさか浴室にまではこないよ」
「え……」
男三人で揃って絶句する。
「………駄目だ!駄目だ駄目だ駄目だぁ!」
コンラッドとの間に身体ごと割って入ったおれに、が目を瞬く。
「だめって」
「一緒に風呂に入るなんて駄目だ!」
「まったくだ!いくら非常事態とはいえ、そんな破廉恥な真似をさせられるか!」
おれと、を妹のように可愛がっているヴォルフラムが大反対している後ろで、コンラッドがうっとよろけて壁に手をついた。
「気分が……」
「大変!大丈夫?もう、有利もヴォルフラムもコンラッドが大事じゃないの!?それどころじゃないでしょ!」
は憤慨して、おれとヴォルフを掻き分けてコンラッドの背中に手を添える。
「だれも一緒に入るなんて言ってないわよ!わたしは脱衣所で待機して、もしもアニシナさんが来た時に対応するって言ってるの!」
「あ、なんだ」
おれとヴォルフはほっと息をついたが、おれたちを振り返っているの後ろでコンラッドは明らかにがっかりとした顔を見せた。あんた……今よろけたの、演技かよ。
本当は今度の薬も失敗作で大丈夫なんじゃないのか、という気がしてきたのはその表情を目撃したおれだけで、ヴォルフラムは仕方がないとコンラッドの部屋に着替えを取りに行って、はコンラッドの手を引いて自分の部屋へと向かってしまった。
「……ま、何事もないのが一番……かな?」
とにかくおれはアニシナさんの探索区域をの部屋から少しでも遠ざけなくては、何をやっていたのかと妹に叱られることになりかねない。
でもなんて嘘をついたらいいんだろうと、廊下であっちを見たりこっちを見たりして唸っていると、馴染みの男に声を掛けられた。
「おーや、陛下。なんでこんなところにお一人で?隊長はどうしたんですか?」
「ヨザック!いいところにっ」
諜報員としてあっちこっちで潜入捜査しているヨザックは嘘と変装と隠れることはお手の物のはずだと慌てて事情を説明すると、軽く眉を上げて溜息をついた。
「ありゃりゃ、とうとう隊長までマッドマジカリストの餌食になっちゃったんですねー」
「コンラッドが逃げた先をどう言えば、アニシナさんを納得させて遠ざけられると思う!?」
「そりゃあ、簡単ですよ」
「え……」
さすがお庭番だとその言い訳を伝授してもらおうと思った矢先。
「陛下!見つけましたよっ、ウェラー卿はどこです?」
「もう見つかったー!グウェンダルは何してるんだよ!?」
「いやーだって陛下、グウェンダル閣下は女性に乱暴な真似は出来ない方でしょ」
片やアニシナさんは容赦なくグウェンダルをぶん投げることもできるわけだ。
それは元々勝ち目がない。
どうしよう、何て言おうと慌てるおれの前にアニシナさんが駆けつけると、ヨザックが間に入ってくれた。
「それが、ウェラー卿の行き先は陛下もご存知ないんですよ。ええ、もちろんオレも」
「なんですって?」
「陛下のお側にいると、アニシナ様の追跡に巻き込んでしまうからと言って、陛下の護衛を偶然行き会ったオレに任せて、あっちの方へ行ってしまいました」
そう言ってヨザックが指差したのはの部屋へ向かうのとはまったく正反対の階段下だった。
「なるほど……ウェラー卿らしいこと。ではあなたは、もしまたウェラー卿を見つけることができれば、捕獲するなり、わたくしに連絡するなりなさい。いいですね」
「はーい」
ヨザックの従順な返答に頷いて、アニシナさんは素直に階段を降りて行ってしまった。
「すげえ、ヨザック!さすが!」
「いやー、それほどでも。アニシナちゃんを騙すのは気が引けるんですけどねえ」
「え、なんで……」
「ユーリ!コンラートはどうした!」
アニシナさんが現れた先の廊下から、顎を赤くしたグウェンダルが駆けつけてくる。
アッパーカットを食らったのか。
「コンラッドならの部屋で薬を洗い流してるはずだよ。今、ヴォルフが着替えを取りに行ってる。そんでアニシナさんは、ヨザックが上手く誤魔化して下に向かわせた」
「そうか……よくやった、グリエ」
ヨザックの筋肉も見事な肩を叩いて心の底から褒め称える。よほど弟が心配なんだと言えるし……同時に、よっぽどアニシナさんが怖いのだろうとも言える。
「しかし……薬が本当に効けば、コンラートをどこかに隠さねばなるまい」
「え、でも隊長なら自分で……」
「いや、あのさヨザック。あれ、子供に戻る薬なんだってさ……十歳くらいに」
ヨザックは黙ってしまった。
「二、三日で元に戻るという話だが、歳がどこまで戻るかが問題だ。せめてアニシナの記憶が残る年代ならば、自らでも逃げようとはするだろうが……」
「十歳くらいじゃあ、アニシナ様のことは知っていても、マッドマジカリストとまでは知らないんじゃ……」
男三人でうーんと腕を組んで唸る。
「……とにかく、様子を見てみればどうですか?薬が失敗作かもしれないんでしょう?」
「それもそうか……」
ヨザックの提案に同意して、三人での部屋に向かった。
「おーい、入るぞー」
まだリビングだからとノックもなしにドアを開けた途端、子供の泣き声が聞こえた。
「……まさか……」
またもや三人で顔を見合わせて、それから慌てて寝室へ飛び込んだ。
!」
寝室には誰もいなくて、そのまま脱衣場のドアを開けると服のままびしょ濡れになったがタイルに膝をついて、泣いている小さな子供を抱えて途方に暮れていた。
「あ!有利、コンラッドが大変なの!」
にしがみついている素っ裸の子供は、十歳どころか四、五歳くらいにしか見えない。
「……十歳くらいって……純血魔族の十歳くらいってことなんですねー……」
ヨザックが小さく呟いた。








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