その顔を、姿を、見たくなかった。
だから振り返りもせず黙って部屋に入ろうと扉を開けると、後ろから伸びてきた手が扉を押さえて、閉めてしまった。
目の前には閉じた扉。それを押さえる見慣れた右手。
すぐ後ろに立っている彼の気配を背中で感じる。
「……なんのつもりですか」
自分でも、驚くくらいに冷静な声が出せた。震えてもいないし、上擦ってもない。
酷く冷たくて、突き放した声が。
しばらく待ってみても、何の返事もない。
もう一度扉を開けようとドアノブを回したけど、扉を押さえる力は緩んでいなくて木の扉は動かない。
「なんのつもりなの?」
早く部屋に入りたいのに。早く有利に着替えを持っていかなくちゃいけないのに。
……会いたくなかったのに。
「その手を放して!」
ガチャガチャとノブを回して叫んでも、扉を押さえる手が下がることはない。


102.消せない過去(2)


「……船底の奴隷たちの保護と交換できるほど、あなたの価値は軽いのか」
やっと口を開いたと思ったら、そんなこと。
泣きたいのか、笑いたいのか、判らない。
後ろの気配がそっと腰を屈めて、すぐ耳元で低く囁いた。
「身売りのような真似をして」
カッと頬が熱くなって、握っていたドアノブを放して振り返る。すぐ傍にあった端正なその顔に目掛けて平手を振り上げると、叩く前に手首を捕まれた。
「左の頬を平手で打つのは求婚の行為ですよ」
「他に言うことがあるでしょう!?」
もっと他に、重大なことをしたじゃない。
もっと他に、話すべきことがあるじゃない。
有利を……。
「いいえ?特には」
なのに目の前の男は、涼しげな無表情で首を振る。
泣きたいのか、笑いたいのか、判らない。
「……どうして?」
わたしが振り返ったからか、彼は曲げていた腰を伸ばして姿勢を直した。でも、わたしの手は掴んだまま。
手首を掴んだ掌は冷たくて、この人もまだ冷えたままなのが判る。サラレギー王の部屋ではなく、自分の部屋に戻っていたのは、ずぶ濡れだった服を着替えていたためらしい。着ている物が替わっていた。
神族の人たちの中から船乗りを探してきたと有利は言っていたけど、時間的にも一緒にあの船底へ向かったんだろう。
なのにどうして。
「理由を聞かせて。お願い、違うと言って。誤解なんだと」
まだこんなことを言ってる自分が酷く滑稽だった。もう近づかないと有利に言ったばかりなのに。これではいっそ喜劇だ。
真っ直ぐに見上げた瞳は深く暗く濁っていて、あんなに好きだった銀の光彩がよく見えない。廊下のランプの灯りでは薄暗いせいかもしれない。
「あなたも兄上と同じことを仰る。そんなに愚かなはずはないのに」
「………っどうして!」
右手は捕まれていて動かせなかった。でも左手で拳を作ってその胸を叩く。低く鈍い音がした。力一杯殴ったのに、目の前の男はその憎たらしい表情を少しも変えない。
「どう、して……っ」
あんなに何度も有利を守ってくれたのに。わたしのことも守ってくれたのに。
眞魔国でじゃない。大シマロンの闘技場でも、小シマロンの首都でも、そして軍港でも、この船の上ですら、何度も助けてくれたのに。
だから国を離れた今でも、決して有利を傷つけたりはしないと、それだけは信じていたのに。
どうして今になって。
力任せに何度も胸を叩いて、痛くないはずはないのに、それでも彼は動かないし、やっぱり顔色ひとつ変えない。
「あなたこそ、ご自分の身を少しは案じたらどうなんですか」
叩いていた左手も捕まれた。そのままぐんと押されて、後ろの扉に背中を打ち付ける。痛みと衝撃で一瞬、息が詰まった。
「魔王陛下が海に落とされたというのに、その相手に押さえ込まれて、それでも彼の心配しかしないのは、いささか危機意識が低すぎるのでは……」
「わたしを殺すの?」
息を吐いて真っ直ぐに見上げると、初めて彼の表情が動いた。驚いたように目を見開いて声が途切れる。
「殺すの?」
もう一度訊くと、彼はゆっくりと皮肉めいた笑みを浮かべた。
「そんなことをすれば、サラレギー陛下に叱られてしまいます。あなたに好意をお持ちのようだから」
「有利に……ではないのね」
「もうあの方を恐れる理由は、俺にはありませんから。だから気をつけなさいと言っているでしょう。女性が一人でうろつくものではありません。……襲われますよ?」
優しくない笑みを浮かべてゆっくりと近づいてくる、その人から目を逸らさない。
彼はじっと見上げたまま身動きひとつしないわたしに、吐息がかかるほどの距離まで近づいて止まった。
「逃げないんですか?」
コンラッドの息が唇をくすぐる。
すぐ傍でお互いに逸らすことなく目を合わせているのに、それでもあの大好きだった光彩の輝きは、淀んで見えた。
「逃げる?どうして」
至近距離で、彼の目が細められる。きっと笑ったのだろう。また唇に息がかかる。
「それでもまだ信じてるんですか?俺が、あなたを襲うはずがないと」
「いいえ?」
その目に不審の色が浮かんだとき、廊下の向こうから激しい怒声が聞こえた。
「殿下から離れろっ!」
すぐ傍にいた彼は、溜息をついて身体を起こした。唇は触れないままに。
廊下の角からこの部屋まで、少し距離があるのにヨザックさんが駆けつけるまで一瞬だった。
わたしと彼の間に立ちふさがって、刃を突きつける。
「近づくなと言ったはずだ」
「魔王陛下にだろう」
「同じことだ!」
喉元に切っ先があるのに彼はやっぱり平静で、怯えることはもちろん、焦るすらない。
「……止めなくてもよかったのに」
そう呟くと、ヨザックさんが驚いたように振り返る。短剣を突きつけられても澄ましていた彼も、少しだけ眉を上げてまたわたしを見下ろした。
ヨザックさんのことは一度も見ずに、敵である彼だけを真っ直ぐに見上げて。
「せっかく、舌を噛み切ってやれると思ったのに」
二人が同時に絶句したのを、冷めた目で見る。内心とは違って声の調子は乱れることもなく平坦で、まるでわたしが冷静みたいだった。
「もし、もう一度……あと一度でも有利に危害を加えるようなことがあれば……いいえ、そんな素振りを見せたら」
胃の底はグラグラと煮え立つように熱いのに、勝手に口角が上がり笑顔を作ったのが判った。自分の顔なのに、思い通りに動かない。
「わたしの手で、あなたを殺すわ」


廊下に降りた沈黙は一瞬だった。
「あなたが?俺を?」
かつて有利が、国一番の剣豪と評していた男が可笑しそうに笑うと、ヨザックさんが鋭く睨みつけた。
笑われたわたしは笑顔のまま、もう一度繰り返す。
「ええ。わたしが、あなたを殺すの」
「それは怖いな」
馬鹿にした調子で、少しも怖がっていない男は、軽く両手を上げて後ろに下がった。
「では殺されないうちに退散するとしよう」
「お前っ」
短剣を握り直したヨザックさんの右腕を掴む。
「殿下っ」
わたしの手を振り払おうとする腕を、更に力を込めて押さえ込む。
そんなわたしたちを見て彼は軽く肩をすくめて、サラレギー王の私室のほうへと歩き去った。角を曲がった廊下の向こうで扉の閉まった音が聞こえる。
「………姫、もう離してください。斬ってやろうにも、相手が行っちまいました」
「お願いよ」
もう相手もいなくて、離せと言われたのに、更に腕を掴む手に力を込めてヨザックさんを見上げる。
振り返ったヨザックさんの驚いた顔が、何故か歪んで見えた。
「お願いよ、あの人を殺すなら、わたしにさせて」
「姫」
「あなたを恨みたくない」
歪んで見えていたヨザックさんの顔が、痛みに耐えるように眉を寄せる。
そのあとどんな表情をしたのかは、もう見えなかった。
「泣かないでください。……あんなやつのことなんかで」
大きな指が目尻を撫でた。涙でもう何も見えない。
自分の意思に関係なく勝手に笑った顔は、今度は勝手に涙を流していた。
「馬鹿みたい……」
もう笑えない。
「……それでも、まだ、わたしは」
わたしは、まだ。
どうして、なんてあの人に訊ねて。
わたしこそどうして。
どうして、有利を突き落とした人を、まだ。
ヨザックさんが左手で、まだ右腕を掴んでいるわたしの指を剥がそうとする。その指を濡らしているのは、海水じゃなくてさっき拭ってくれたわたしの涙だ。
「有利に、は……言わない、で」
喉の奥が痙攣して、上手く喋れない。それでも途切れ途切れで訴える。
今言ったことを、有利には言わないで。教えないで。
あの人をこの手で殺すと言ったことも、それでもまだあの人が好きなんだということも。
「おね……が、い……ゆうっり……には」
わたしが誰かを傷つけると言ったことにも、有利に危害を加えた相手をそれでもまだ好きなのだということにも、きっと傷つくから。
「言いません……言えません」
自由になった両手が、少し乱暴にわたしの頬を拭った。その掌は冷たくて、せっかく涙を拭いてくれたのに、もっと悲しくなる。
「も……し、あの人、を……」
「言わなくていいです。もう言わなくていい」
「おねが……い……」
あなたを恨みたくない。
有利を守るために、あの人を傷つける必要があるのなら、わたしがする。馬鹿なことを言っていると笑われるくらいに実力差があることなんて判ってる。でもヨザックさんを恨みたくない。
両手で顔を覆って俯くと、肩を掴まれて後ろに下げられた。扉が開いた音が聞こえて、そっと背中に添えられた手に促されて部屋に入る。
締め切っていても誰もいなかった部屋は肌寒くて、煮えるようだった頭が少しだけ冷える。
早く有利に着替えを持っていかないと。
ヨザックさんにだって、絶対に有利から離れないでと言ったのに。
腕で擦って涙を拭うと、もう促されなくても自分の足で歩いて部屋を横切った。借りている服を入れている小さなクローゼットを開けて適当な服を二着取り出して、そのうちのひとつを扉の傍に立っていたヨザックさんのところに戻って押し付ける。
「ヨザッ……クさんは、早く有利のところに、戻っ……て」
まだ泣いた影響が残っていて、変なところで区切りながら言うと、ヨザックさんは押し付けられた服を受け取って、それからわたしの肩を掴んでベッドまで引っ張った。
「い……い。着替えて、すぐ行く」
「駄目です。着替えたらしばらく眠って。もう何も考えなくていい。陛下のことは心配しなくても、オレがずっと傍に貼り付いてしますから。オレが部屋を出たらすぐに鍵をかけて、オレか陛下以外の者が来ても絶対にドアを開けないようにしてください。目が覚めていても、眠っていたことにすればいい」
まだ喉の奥でしゃくり上げていて、鏡がないから判らないけど目だって真っ赤だろうし、このまますぐに有利のところに戻ったら、泣いたことがバレてしまいそうだ。
「ぜ……絶対、に……有利の傍に」
「はい。離れません」
「守って………」
「必ず」
今から着替えるつもりだった服を抱き締めて、振り返ってその長身を見上げる。あの人を見上げるときも、こんな角度だった。
「わたしのことは、最後でいい、から。有利と、あなたを……有利を、必ず」
「安心してください。あなたと陛下が同時に危険に陥れば、オレは陛下を優先します。申し訳ないことですが」
その約束だけがあの人とは違って、やっと自分の意思で笑うことができた。
あの人は、有利とわたしを必ず守ると、いつもそう言っていたから。
けれどその約束が果たされることは、もうない。


ヨザックさんが部屋を出て行くと、言われた通りに扉にしっかりと鍵をかけて、それから少し考えて、机をその前に移動させた。外開きの扉だから必ずしも役に立つとは限らないけれど、できることはしておこう。
凍えて上手く動かない指で濡れた服を脱ぎながら、以前ツェリ様とグウェンダルさんに言った言葉を思い出していた。
傍にいなくても、生きていてくれて嬉しい、と。
あの言葉を後悔したくない。
どうか後悔させないで。
ヴォルフラムとツェリ様とグウェンダルさんの顔を思い浮かべて、胸が痛んだ。
「ごめんなさい……」
例え離れてしまって、それでも大切な家族を傷つけられたら悲しむだろう人たちに、謝ることしかできない。
そして今ここにいるヨザックさんと、有利のことを考える。
「……ごめんなさい」
それでもあの人を決して忘れられないことを、謝ることしかできない。
濡れたシャツを脱いだとき、首に下げていた紐が釦に引っ掛かって切れてしまい、小さな袋が床に落ちた。
「あっ」
咄嗟に拾おうと手を伸ばして固まった。
小さなその袋に入っているのは、わたしの大切なお守り。
船の揺れが再び大きくなってきて、しゃがみかけていた身体がバランスを崩して床板に膝を強打する。
「い……た……」
痛みに涙を滲ませながら、すぐ傍の小さな袋を拾うと固く結んでいた口を開いて逆さにする。
転がり出た片方だけのイヤリングを握り締めて、胸に抱き寄せた。
「……コンラッド」
それでもあなたが好きなの。
あなたと過ごした日々が、大切なの。
「ごめんね……」
それでも好きなの……。
誰に謝っているのか、もうそれすらも判らない。







スタート時とは真逆の気持ちでこれマ編終了です。


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