神族の人たちを保護することが友好の証だ、と。
そう言ったサラレギー王の言葉が本心なのか、嘘なのかは判らない。
それが嘘でも演技でも構わない。大陸に戻るまで、有利を守ってさえくれるなら、本心でなくたっていい。
そして本心だったとしたら、それこそ差し出された手は喜んで握り返さなくてはいけない。
友好を求められたのなら、こちらからも歩み寄って、少しでも心象を良くしなくては。
求められたもので、返せるものはすべて返す。
わたしに出来ることなら、すべて。
だからどうか、有利を裏切らないで。
祈るように両手を握り締め、笑顔で差し出された頬にキスを返した。
どうか、その友情が本当でありますようにと、そう願いを込めて。



102.消せない過去(1)



サラレギー王が護衛を伴って、船室へと降りて行く……その、伴われたコンラッドの顔は見れなかった。
怖くて。
頬と唇を拭ってしまいたい衝動を堪えながらその背中を見送って、船倉へ続く扉が閉まったところで後ろから肩を掴んで思い切り引っ張られる。
「ど、ど、どうなってんの?大丈夫なのか、!?」
「有利こそ大丈夫?唇が真っ青だよ。寒いんじゃないの?」
震えている有利の頬を撫でると、冷えて凍えていた。
小刻みに震えているのは寒さのせいもあるだろうし、恐れのせいもあるんだろう。
海に落ちる恐怖を、わたしはもう知っている。おまけに有利は、今こそ少しは揺れが治まっているけれど、こんな荒波の中に放り出されたんだからわたし以上に危険だったはずだ。
操舵室から出てきたとき、他の人たちとは明らかに違うずぶ濡れの有利を見て、まさかと思った。
まさか、海に落ちたのかと。
コンラッドとヨザックさんと、二人がいたのにそんなはずはないと、そう思ったのに有利はサラレギー王が拾って差し出したコンラッドからもらった大切な魔石をいらないと、首を振った。
驚いてコンラッドを見たら、目を逸らされて。
そしてコンラッドが前に出ると、ヨザックさんは近づくなと剣を突きつけた。
ついさっきまでは、わたしがコンラッドの傍にいることを苦笑いで見ていただけだったのに。
否定して欲しかったことがすべて肯定された瞬間だった。
有利はコンラッドがいたのに海に落ちたんじゃない。
コンラッドがいたから、海に落ちたんだ。そうでなければ、ヨザックさんがあんなに態度を変えたはずがない。
「い、いや、寒いのは寒いけど、こそ……サラと何が……」
「サラレギー陛下はね、有利とわたしが揃ってお願いするなら、神族の人たちを保護してくれるって仰ったの。わたしたちへの友情の証だって。……だったらそれに応えなきゃ」
「それって、サラが自分で保護するべきって思ってくれたんじゃないんだよなあ……」
「それはこれからゆっくり話していこうよ。船の上にいる限りは時間があるんだし」
「……そうだな。でも、お前本当に大丈夫なのか?」
「だからそれはわたしのセリフだって。濡れた服を着替えなくちゃ……それより先にお風呂かな、温かいお風呂」
大丈夫じゃない。でも、大丈夫。こんなことくらいはなんてことない。サラレギー王に友情を示すことで、少しでも有利が安全になるかもしれないのなら、なんてことない。
「いや、おれは操舵室に行くよ。船底の神族の人たちの中から、この海を越えた経験のある船乗りの人を連れてきたんだ。その責任があるから、傍にいなくちゃいけない」
有利が見たほうに視線を移すと、甲板で見た女の子と同じように、布一枚を着ただけのくたびれた様子の神族の男の人がいた。わたしと目が合うと、怯えたように震える。
「え、わたし怖がられてる?」
「あー………その、たぶん、サラと仲が良さそうに見えたからじゃ……ない、かな。どうもサラが閉じ込めた本人だとは判ってるみたいだから」
「そう……」
「本当にお前大丈夫なのかよ!?」
両肩を掴んで覗き込んでくる有利に、苦笑してみせる。
「有利、さっきからそればっかり!……大丈夫、平気だよ」
「おれが大丈夫じゃないよ。心臓に悪いからもう無理してあんなことするのはやめてくれ」
ぎゅっと抱き締められてしまった。
だから心臓に悪いというのも、わたしのセリフだってば。
抱き寄せられた手の力に違和感を覚えて有利を覗き込む。
「右手を怪我したの?」
利き腕なのに右の力が弱かったからそう聞くと、有利はぎくりと強張ってわたしから離れた。
「あ……う、ん」
「海から引き上げた際に右の手首にロープを引っ掛けたんで、半分はオレのせいですね」
「ヨザック!」
横に立ったヨザックさんの説明に、有利が鋭く制止する。
「やっぱり、海に落ちたんだ」
もうほとんど判っていたことだけど、確認として訊くと有利は俯いた。仕方なく横を見上げると、ヨザックさんが頷く。
「すみません。すぐに戻るなんて言っておきながら」
申し訳なさそうに謝るヨザックさんをじっと見上げたまま、どうしても否定してほしかったことも確認する。
怖くても、知っておかなくてはいけない。
「……コンラッドが、落としたの?」
わたしの肩を掴んだままだった有利の手が震えて、ヨザックさんが黙って頷いた。
否定して欲しかった。
わたしと目が合ったとき、コンラッドが俯いたのはきっとみすみす有利を危険にさらしたことでバツが悪かったんだと、そう思いたかった。
ヨザックさんがコンラッドへの態度を変えたのは、別の理由だと思いたかった。
だけど。
「そう……」
小さく呟くと、うな垂れていた有利が弾かれたように顔を上げた。
、おれ」
「もう……あの人には近づかないでね、有利」

「わたしも近づかない。心配しないで」
顎を引いて有利の目を正面から見て、低く強く約束する。傷付いたような顔はしていないはずなのに、有利のほうが泣き出しそうに顔を歪める。
、ごめん……おれ……ごめん……っ」
「どうして有利が謝るの。わたしのほうこそ、ごめんね。あの人が有利を傷つけるなんて考えもしなかった。心配ばっかり掛けてごめんね……もう近づいたりしない。だから有利も近づかないで。お願いよ」
「ごめん……っ……おれがっ……」
「有利が謝ることなんて、何もないわ」
泣きそうなのに、涙を零さない有利を抱き締めて、背中を擦りながら繰り返す。
有利が悪いことなんて、何もない。
悪いのは、有利を裏切ったあの人だ。
……そして大切なことを黙ったまま、有利をこの航海に入らせた、わたしだ。


有利が悪寒を感じたように大きく震えて、抱き締めていた身体を離す。そうだ、濡れてるんだから早く着替えないと風邪を引いてしまう。
「このまま操舵室に行くなら、わたしがサラレギー陛下から借りてる服があるから、それを持ってくるね」
有利が借りた着替えを持ってくるためには、サラレギー王のいる部屋にいかなくてはいけない。そこにはあの人がいるかもしれないからとそう提案すると、有利は頷いてからヨザックさんを見上げた。
「一緒に行って来てやってよ」
「了解しました」
「いい、大丈夫。有利の着替えと、それから毛布も持ってくるね」
「いやでも……」
「わたしも着替えてくるんだけど」
有利に抱きついたり抱き寄せられたりしたせいで、あまり濡れていなかったはずのわたしまでびしょびしょになっていた。服を見下ろしてそう言うと、有利とヨザックさんが顔を見合わせる。
「じゃあオレは着替えてる間は外で待ってますから……」
「駄目!ヨザックさんは有利についてて!」
大声で強く言ったせいで、有利とヨザックさんだけじゃなくて、それぞれ持ち場に散ろうとしていた小シマロンの船員の人たちまで振り返ってしまった。
慌てて有利を押してヨザックさんに押し付けると、船室へ降りる扉に向かって走り出す。
「姫!危ないから走ら……」
「絶対に有利から離れないでくださいね!」
振り返って念を押してから、返事も聞かずに急いで扉を閉めた。
甲板と扉で隔てて誰もいない空間になると、途端に堪えていた震えが込み上げてくる。
この航海に入るとき、大切なことを有利に話さなかった。
いつもならすぐに帰ってくるはずの有利が、五分待っても十分待っても帰ってこない。そう村田くんから聞いた話を、言わなかった。
その話をしても、有利は絶対に聖砂国へ行くと言うと思ったから、悩みを増やすだけのことなら言わないほうがいいと勝手に判断した。
けど、わたしは間違えたんだ。
有利が帰らないと言っても、無理やり連れて帰ればよかったのに。
話さないと決めた時点ですら、一緒に行くのはヨザックさんとヴォルフラムとギュンターさんの三人だけだったのに。小シマロンの船に乗って、国交すらない国に行くというのに、たった三人しか連れて行かない。それがどれほど危険なのか、理解するべきだった。
「もし……もしも……遅れてるだけじゃ、なかったら?」
震える足で階段を踏み外さないように、手摺りを握って慎重に降りる。
有利が海に落ちて、それがコンラッドに落とされたのだと判ったとき、ようやくその可能性に気が付いた。
でももう遅い。遅すぎた。
もしも、帰りが遅れているだけではなくて、帰れなくなったのだとしたら。
……この旅で、命を落としたのだとしたら。
「そんなことない!」
首を振って、手摺りを握っていない手で拳を作って壁を殴る。
そんなことない。そんなこと、あっていいはずがない。そんなことはさせない。
止まらない震えを止めようと、壁に押し付けた拳を強く握って、どうにか震える足でも無事に階下まで降りることができた。
有利は絶対に守る。絶対に、死なせたりしない。
後悔しても、もう戻れない。だからせめて、わたしに出来ることなら何だってする。
わたしに出来ることなら、何だって。
ここは小シマロンの船の上で、ヨザックさん以外に信用出来る人はいない。ならヨザックさんには有利に貼り付いていてもらわなくてはいけない。
サラレギー王の心象も良くしておきたい。その友情が本物ならもっと身近に感じてもらえるように。あの人がその気になればこんな逃げ場もない船の上で、いくらヨザックさんが強くても有利を守りきれない。
それに、相手には……。
宛がわれた部屋が見えて、握っていた拳を引いて足を速める。そうだ、有利が濡れて震えているのだから、早く着替えを持っていかなくちゃ。
部屋の前について扉を開けようとしたとき、後ろで扉が開いた。
息が詰まって、ドアノブを握ったまま目を閉じる。
向かいの部屋の持ち主は。
ヨザックさん一人で有利の守るのは難しい。ここは逃げ場なんてない船の上で。
相手には、ウェラー卿がいる。







もしかしたら有利を失うかもしれない。そうならないためなら、何だって出来る。
彼女を知る人を驚愕させた行動は、強い恐怖と決意の表れでした。


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