時化にぶつかった船はかなり大きく揺れていた。
それはもう、台風が近づいているときにハンモックで寝ようとしているんじゃなかってくらいの大揺れだった。酷いときは座っていても右へ左へと大きく振られ、気をつけていないと壁に激突してしまう。
そうでなくてもずっとブランコに乗っているような揺れ方で、乗り物に弱くなくてもこれはつらい。
「ヴォ、ヴォルフラムがいなくてよかったね」
「ま、まったくだ」
わたしと有利は、壁にしがみつきながらしみじみとそう頷き合った。


103.永遠なんて(1)


船が時化の海に入ってからもう随分と経った。
大きく揺れた船の船底にいる神族の人たちは、せめてもう一段上の船倉まで上がってはどうかという有利の説得にも応じず、水に浸った船底から動かなかった。もっとも、言葉は理解できていないのだから、ジェスチャーでしか説得の方法がないのがもどかしい。
サラレギー王は有利の要請に応えて、神族の人たちが船倉に上がることまでは許してくれたので、後は彼らの問題だ。
最初に甲板で見つけた少女だけは、有利が伸ばした手に恐る恐る掴まって、今一緒に操舵室に篭って、有利に抱えられている。
サラレギー王は約束通りに毛布や食料を神族の人たちのところに運ばせてくれた。
けれど浸水した船底で毛布に包まっても寒いだろうし、この揺れでどこまで食事を取れているのかも判らない。
揺れが酷すぎて、わたしたちでもほとんど何も食べられないし、眠ることもままならないような状況だし。
今は揺れが酷いときで、わたしも有利も操舵室で椅子じゃなくて床に座り込んで足を突っ張っていた。それでも大きく揺れたときはどうにもならず、壁に叩きつけられそうになるとヨザックさんが庇ってくれる。
「ひゃっ……」
船が大きく右に傾いて、張り付いていた壁から吹き飛ばされそうになったところをヨザックさんが手を掴んでくれた……ら、その次には揺り返しで左に傾いて、肩からヨザックさんに突っ込んでしまった。
「げふっ」
「ご、ごめんなさいっ!」
慌ててわたしが離れると、今度は女の子を抱えていた有利が揺れで床を滑る。
「陛下っ」
有利を掴んだヨザックさんは、また次の揺り返しで有利のタックルをまともに食らった。
「ぐふっ」
「うわー!ヨザック、ごめん大丈夫かー!?」
「ま、任せてください」
こんなことの繰り返し。ヨザックさんはきっと青痣だらけになっていると思うと申し訳ない。
「つ、次に揺れがちょっと収まったら、わたしは下に戻ることにする」
「え、でも、この揺れの中、ひとりで部屋にいるのつらいぞ?」
「そーですよ姫、オレのことなら大丈夫ですよ」
有利とヨザックさんが同時にそう言ったけど、このままここにいてヨザックさんの負担になるのはさすがに忍びない。なにしろ有利が抱えている彼女も含めてた三人分も体当たりされながら守っているんだから。
「大丈夫、部屋まで戻っちゃえば、あとはもうクッション抱えてじっとしてるから」
有利は操舵室から動かない。それは今そこで舵を取っている神族の人をここまで連れてきた責任があるからだ。小シマロンの操舵手さんたちは、隅で抱き合って揺れに耐えている。
「眠れるようならいっそ寝ちゃうし」
「いや、お前それは危険。ベッドに寝てたら落ちそうだし、床に寝てたら家具が滑ってきそう」
ベッドや棚なんかはほとんど固定されてるけどね。小さなテーブルと椅子が怖いかも。
「ま、まあとにかく降りてるよ。大丈夫大丈夫」
手を振って、軽く言うと有利とヨザックさんは顔を見合わせて溜息をついた。
だって、ヨザックさんには有利を守ることに集中してもらうためにも、余力を残せるときにできるだけ残してもらわないといけないんだもの。
「じゃあオレが部屋までお送りします」
「いいですよ……と言いたいところだけど、それは二人とも心配だろうから船室に降りる入り口までついてきてくれますか?」
揺れが少しは収まってからといっても、わたしが一人で甲板を歩くのは、危険すぎるとまず許してもらえないだろう。
「部屋まで送ります」
強く念を押された。わたしの部屋はコンラッドの部屋の向かいだもんねー……ヨザックさん、心配性すぎ。


「さすがにね、あんなことがあった後にウェラー卿に気は許しませんけど」
揺れが少し収まったところで、宣言どおり操舵室を出た。それでも右へ左へと揺れ続ける甲板を慎重に歩く。
空はどんよりとしていて、甲板は荒れる波でびしょ濡れで、湿った潮風が吹き荒れていて、室内から出てもぜんぜん気持ちは晴れない。むしろ早く室内に戻りたい。
片手は手すり、片手はヨザックさんの服を掴んでいるのだけど……ヨザックさんはわたしの握力を信じてくれなくて、わたしのすぐ真横に立って、その前後の手すりを掴んでわたしを完全に両腕で囲んでいる状況。これならうっかりわたしの手が手すりやヨザックさんから離れても、海に転落することなくヨザックさんの胸にぶつかるから安全という寸法らしい。
それは確かにそうなんだけど、手すりにしがみつきながらゆっくり歩くわたしに合わせて、同じ速度でカニ歩きのヨザックさん。なんだか非常におかしな光景。
「そりゃあねえ、オレも姫のことは信じてますとも。姫ってば本当に陛下のことばっかりなんだから。でも相手がどうだかは判んないでしょ?」
「あの人も魔王の有利ならともかく、その妹を襲ったりはしないと思うけど。だから有利から離れないでくださいね」
わたしを手にかけたところで、大シマロンには意味はない。そのはずだと言うと、ヨザックさんは半ばわたしに被さるような距離まで顔を寄せて軽く眉を上げた。
「そういう意味じゃないって、お気づきでしょうに」
少々声を落としても、距離が近いから激しい波の音にかき消されることなくきちんと聞こえた。
ええ、そうですね。ヨザックさんはわたしが部屋のドアに押さえつけられて、コンラッドにキスされそうになっていたところを目撃している。
「だから、そうなったら舌を噛み切ってやるからご心配なく」
べっと軽く舌を出して言った瞬間、船が大きく揺れて自分で自分の舌を噛んでしまった。
……間抜け。
「その宣言はあいつも聞いてますから、口付けなんてすっ飛ばして押さえつけるかもしれませんけどね」
「……ヤなこと言いますね」
噛んじゃってヒリヒリする舌を空気に晒すと、潮風で微妙に痛い上に水しぶきが口に入るので、すぐに口を閉じた。
「そういうときは急所を思い切り蹴り上げてください。蹴り潰してやるくらい強力に。一回目ならたぶん、成功しますよ。油断しているだろうから。ま、姫にそんなマネさせないためにオレがいるんですけどね」
淡々と言うヨザックさんに苦笑する。
「容赦ないですね」
「いらないでしょ、容赦なんて」
まったくだと思わず納得してしまう。
船倉の入り口まで後どれくらいあるかと目を向けて、更にその向こうの船尾に、跳ね上げられたままの床下への入り口の蓋が見えた。
「神族の人たち、一段上がってくれてるかな?」
ヨザックさんもそちらに目を向けて、軽く肩をすくめる。
「さあどうでしょう?多分、最下層で震えてそうですけどね」
「でも、あそこはもう腰くらいまで浸水してるって」
「んー………ですが」
ヨザックさんは少し考えるように空を見上げた。
「慣れっていうのは、姫。たとえどんな状況でも、変化を恐れさせるもんでして」
「慣れ?」
「そう。今より状況がマシになるとしても、それだって間違いなく変化だ。そういうのを恐れるのは本能に近い。耐えることに慣れると、耐えなくていいことが怖い。その後どうなるのか判らないのが怖いんです」
思ってもみない話で、唖然としてしまった。耐えなくていいっていっても、船底から船倉に上がるだけのこと、大した変化だとは思えない。それこそほんの少し現状がマシになるだけで、閉じ込められていることには変わりないし、虐げられていることだって。
「連中は……陛下の考えた正しかったとして、ですよ。国を逃げ出してきたと言うのなら、それがすでに決死の覚悟です。現状をぶち壊そうとしたわけだ。それだけで、気力を使い果たしていたっておかしくない。その覚悟が、全部無駄になろうとしている……これだけでも僅かに残っていた気力を根こそぎ奪い去る条件は十分だ」
「そんな……でも」
ヨザックさんは、空を見上げて軽く息をつく。
「耐えるっていうのは、与えられた物をただ受け入れることです。真に変化を望むなら、自分でことを起こす必要がある。それはただ受け入れるよりつらい。もし良い変化を与えられたとして、それすらもただ流されて受け入れただけなら、次の困難を乗り越えるのは難しいでしょうね。自分の意志で受け入れなければ、今は良くてもいずれ沈むだけだ。陛下も姫も、彼らのために手を尽くした。それを生かすも殺すも、あいつら次第だ」
「でも……っ」
でも。
その後が続かない。
言葉に詰まったわたしに、ヨザックさんは苦笑を滲ませた顔を寄せてくる。
「ところで姫、この距離でももう殴らなくなってくれましたね。護衛としては嬉しい限りですよ」
話題を変えてくれた。ヨザックさんって本当に気配りが細かい。
それに比べてわたしときたら、こういうところでまで気を遣わせてどうするんだろう。
わたしも精一杯の笑顔を作って、ヨザックさんの服を掴む手に力を入れる。
「実は殴るのを我慢してるだけかもしれません」
「我慢してくれるだけでも十分ですよ。オレ、もう姫に何度殴られたことか」
「その件に関しては非常に心苦しく思っております……」
お互いに、ちょっとふざけ合いながら空気を軽くするように努力しているうちに、船室へ降りる扉にたどり着いた。ヨザックさんの服を掴んだまま、一緒に扉をくぐる。
「じゃあヨザックさん、もう有利のところに戻っ……」
「部屋まで送ります」
全然信用されてないし。
ヨザックさんにはあんまり有利から離れて欲しくないんだけどなあ。
そう思っていると、船が大きく揺れて階段を転がり落ちかけて、ヨザックさんに抱き留められた。
「ほーら、危ない。オレがいなかったら今ので姫は一番下まで転がり落ちてましたよ」
「あ、ありがとうございます」
今のは確かにひやっとした。
それにしても、咄嗟に殴ることはどうにか我慢できるようになってきたけど、やっぱり触れて安心とまではいかないんだよね……有利や、コンラッドのようには。
なんて恩知らずなんでしょう。他国に行っちゃったコンラッドの方が安心できるなんて。
「でもね、やっぱりヨザックさんは有利のところに戻って。大丈夫だよ、手すりに掴まって慎重に下りるから」
「ひーめー」
呆れたような声を上げるヨザックさんに手をついて身体を起こすと、、その横を慎重に一歩ずつ階段を下りてすり抜ける。
ヨザックさんは溜息をついて、何度も戻ってと言ってるのに一緒に階段を下りてくる。
「ヨザックさん!」
「姫が陛下優先なのはいつものことですが、今回はいつにも増して、いやに神経質じゃありませんか?」
首を傾げて訊ねられて、ドキリとしてしまった。
今回は、ええそう、神経質になってる。それはわたしも判ってる。
「………今までの旅の中でも、今回はダントツに危険だもの。当然でしょう?」
でもこの不安は説明できない。不吉なことを口にはしたくない。
「この船には、ヴォルフラムも、グウェンダルさんも、ギュンターさんもいないんだもの。ヨザックさんには有利の傍にいてもらわないと」
「理屈は判りますがね、今現在負傷の危険があるのは姫ですよ。陛下は操舵室で大人しくしてくれてますし、姫は廊下でフラフラしてるし」
「フラフラって……」
酷い言われようだと眉を寄せたところで、船が突き上げられるような衝撃と共に大きく傾いた。
「わっ……」
「姫っ!」
あれほど大丈夫だと言ったのに、手すりを掴んでいた手が滑るなんて、馬鹿じゃないの!?
自分で自分を罵りながら階段を落ちかけたその寸前に、ヨザックさんが腕を掴んで引き上げるようにして抱き寄せてくれた。
「だから言ってるじゃないですか!」
「め、面目ありません……」
ヨザックさんにしっかりと抱き寄せられて、久々に殴りたくてわきわきと指が動く。意志の力でどうにかそれを堪えているのだけど、ヨザックさんは珍しく放すどころか、背中に回した手に更に力を込めてわたしを抱きすくめる。
「ヨザックさん!」
「階段を下りきるまでこのままです。我慢してくださいよ!」
「そんなに怒らなくても……」
「怒りもしますよ。陛下が最優先なのはオレも一緒だって言ってるんですから、少しくらいは言うことを聞いてください。はい、姫もオレにしがみついて!」
「は、はい……」
大丈夫とか言いつつ、短い間で二度も階段から落ちかけて、ヨザックさんをひやりとさせたに違いない。これは今何を言っても信用されないと、諦めてヨザックさんの服を握り締めた。
ヨザックさんから離れたければ、有利の元に戻ってもらいたければ、早く階段を下りきるのが一番だと考え方を切り替えたのに、船の揺れがそれを許してくれない。
「もしかしなくても、また揺れが酷くなってる……」
「そうですね。ホントこの海域もう嫌んなりますよ」
背中に回った腕とか、抱きすくめられた胸板とか、感じる熱も、匂いも、感触も、全部、全部違う。あの人と、全部違う。
当たり前だけど、そんなことを思いながら足を踏み外さないように慎重に階段を一段ずつ降りる。
ここは守ってくれてありがとうと感謝するべきところであって、決して我慢に震えたり、ガッカリしたりするところじゃないのに、なんて自分勝手なんだろう。
でも、今のこの状態は自業自得、自業自得と念仏のように頭の中で唱えていないと、身体がついついヨザックさんから離れていこうとしてしまう。
上から特大の溜息が聞こえて、背中に回っていた手にぎゅっと力が込められた。
「仕方ないのは判ってますから、せめて我慢してください」
「ご、ごめんなさい」
ヨザックさんはなーんにも悪くないのに、普通に考えてここまで嫌がられたら嫌気が差すとか腹が立ってもおかしくないと思う。
ヨザックさんの服を握ったまま、一段下の階段だけを見ながら一歩ずつ確実に降りた。
ようやく最後の一段、船室に続く廊下の床板が見えてほっとした目に、靴先が映った。
誰かいるのかと、階段も残りあと後一段なのでもう目を離しても大丈夫だろうと顔を上げて硬直してしまう。
そこには無表情のコンラッドが立っていたから。








歌マ編スタートです。有利のことばっかり心配しすぎて、お庭番を困らせてますよ。


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