頭から海水に突っ込み、視界が真っ暗になったときに、初めて自分が海に落ちたのだと気がついた。 荒れ狂う海上に反して中は静まり返り、何の音も聞こえない。 聴覚が麻痺したわけではない。海中は暗く、しんとしていた。 渦の中央に向かって身体が吸い寄せられても、焦ることもない。こんな海に落ちたら助からないと思ったのは、ほんの数秒前なのに。 まだ死んでない、しかも自分は意外と冷静だ。そう思った途端、右手首が激痛に襲われ海中で悲鳴を上げた。だが水の中では泡を吐くばかりで声が響くことはない。 渦の力に反して、上へと引かれる。体重と、おれを飲み込もうとする力が一気に手首に掛かって来る。 痛い。そう言いかけるとまた口に海水が入ってくる。手首と、鼻と、喉と、それから肺と。 痛みにもう一秒だって耐えられない、いっそこの手を切ってくれと願いそうになる寸前で、音と冷たさが戻ってきた。 101.壊れそうな想い(3) 海上に顔が出たのだ。 死にかけた魚みたいに口をあけ、飛沫混じりの空気を吸う。 波に揺られて何度か海中に沈みかけたが、すぐに浮かびあがった。右手首に濡れたロープがしっかりと絡みついて、誰かが引っ張ってくれているからだ。 「陛下!」 「聞こえ、て……」 聞こえた。はっきりと、力強い必死なその声が、おれがまだ生きていると教えてくれた。 「しっかり掴まってください!縄を固定して、腰に巻いて!」 こんな荒波の中でそんなことできるものかと思っているのに、必死な人間は普段には出ない力を発揮する。これがいわゆる火事場の馬鹿力というやつか。波に揉まれながらロープを腰に回してからその先を掴むと、用意が出来たとロープを引く。 波に揉まれている状態で果たしてこれで通じるかと思ったが、心配に反してゆっくりと上に向かって引き上げられた。 海面から身体が上がって、ロープに締め付けられながら船腹の板に何度もぶつかる。引き上げられながらも咳が出て、こんなに飲んでいたのかと思うほど、後から後から水を吐き出した。 朦朧としてきた意識がはっきりしたのは、乱暴に柵の向こうに引き上げられたときだ。甲板に放り出されるかと身構えたけど、落ちたのは固いけど弾力のある腕の中だった。 乱暴に顎を掴まれて、オレンジ色の髪が視界に映る。 「陛下?陛下!?」 「落ち……着け、ヨザック……大丈夫だ。……髭がないから、女の人かと思って、人工呼吸を期待しちゃったよ……」 「陛下……坊ちゃん、ああ……」 大きく息をついて、ヨザックが空を見上げた。 次におれを見下ろしたときは、もう必死の形相は消えていた。声にはまだ少し深刻そうな調子が残っていたけど。 「よかった、死なせてしまったかと」 「縁起でもない、大丈夫、少し水を飲んだだけだ」 ヨザックの後ろから手を貸してくれたらしい船員が数人、柵やロープに掴まりながら覗き込んでいた。 この荒い波の中で、敵国の者だと判っていながら危険を冒して手を貸してくれた恩人たちだ。 「ありがとう、お陰で助かっ……」 礼を言おうとヨザックの手を借りながら身体を起こすと、また咳が込み上げて一緒に海水を吐き出す。潮水で鼻と喉が沁みて痛い。 「あらら坊ちゃん、鼻水まみれでいい男が台無しね」 「残念ながら、台無しになるものを最初から持ってない」 お互いに軽口を利くだけの余裕が出来たとき、船員たちの傍に立つ男が目に映った。 見上げた瞳は、暗く沈み濁っていて、あの特徴的な虹彩に散る銀の光が見えない。表情からは、まるで心が読み取れなかった。 安心したのか……残念がっているのか。 おれは背中を押された。あのとき、傍にいたのは一人だけだ。 「大体、なんで落ちるんですかね、コンラッドがついていながら……」 悟られまいとしていたのに、不意に名前を聞いて身体が強張る。そしてそれをヨザックは見逃してくれなかった。 獣を思わせる瞬発力で振り返り、おれと彼との間に入って掠れた声を絞り出す。 それは疑問でなく、確信として。 「あんたか」 相手は答えず、ただぐっと両手を握り締めて、顎を引いた。 「陛下のお命を狙ったのか?……あんたどこまで腐っちまったんだ」 抑えた声が逆に怖くて、その腕を掴もうとした手が空を切った。 一瞬で三歩ほどの距離を詰めたと思ったら、どこに隠し持っていたのか、そしていつの間に出したのか、銀に光る刃をコンラッドの顔の横に突き立てる。 「いいかウェラー卿、こいつは警告だ。陛下に二度と近付くな。もしも警告が破られた場合は」 妙に長く重い沈黙の後に、おれには聞こえないくらい低い声が空気を震わせた。 「……その生命、ないものと思え」 ずぶ濡れで重い身体に鞭打って立ち上がる。ヨザックの横に回りこんで腕を掴むと首を振った。とにかく、その物騒なものを収めて欲しかった。 「違うヨザック、おれの勘違いだ……誤解だ、うっかり足を滑らせたんだよ」 ヨザックは眉をひそめて、まだ庇うのかという顔をする。違う、本当に違うんだ。そんなはずないじゃないか。あの揺れの中で起こった事故だ。 背中に残る掌の感触を必死で否定して、同意を求めようとコンラッドを見る。嘘でいい、頷いてくれたら。 だがウェラー卿は、笑みのひとつも浮かべずに、微かに首を振って否定した。 「あなたは……そんな愚かな方ではないでしょう」 「だったら……っ」 冷静になれ、だめだ爆発するな。 心の中で抑えようと何度も繰り返すのに、膨れ上がる感情が抑えきれない。致命的なおれの欠点だ。いつだってこれで失敗してきたのに、今またそれを繰り返す。小シマロンの船員や、神族の船乗りが見ているというのに、感情をコントロールできない。 心臓がまるで別の生き物のように身体の中で激しく活動して、金属音に似た耳鳴りがした。 「だったらあの時、助けなければよかったじゃないか!」 あの時ってどの時だ。心当たりがありすぎて自分でも判らない。 貨物船に飛び移ろうとしたとき、おれを受け止めたりせずに放っておけばよかった。仮面の兵士の奇襲を受けた時だって、あの教会でおれを守ることもなかった。いいや、その後大シマロンの闘技場で、受け止めたりせずに落ちるに任せればよかったんだ! いつだって、ただ放っておくだけでよかったのに。 「なんで今になって!」 胸に触れていた冷たい石を掴み、力任せに革紐を引きちぎる。 「……畜生っ!」 握った石を床に叩きつけた。痺れたままの右手首が衝撃で嫌な音を立てる。 魔石は一度小さくバウンドして、海水で濡れた甲板に転がった。力任せに叩きつけたのに、不思議と割れも砕けもしなかった。陽の光を受けて、おれの胸にあったときよりも心なしか白く見えた。 誰もが次の言葉を待っている。事情を知らない船員たちは傍観を決め込んでいて、船底から連れてこられた神族の男は言葉も判らない揉め事に怯えて後ろに下がっている。 その中心に立つおれたちは、三人ともが次に口を開くのは誰かと牽制し合っていた。 痛く、重い沈黙を破ったのは、誰の声でもない。扉の軋む音だった。 「ユーリ、揺れが少しだけ治まってきたね」 操舵室から顔を出したサラレギーはなぜか上機嫌で、鼻歌でも唄いだしそうな弾んだ声だ。 言ったとおり、いつの間にか揺れが少し緩やかになっていたのが嬉しいのだろうか。 視界の端にいた神族の男は恐怖に目を見開き、壁に背中を押し付けて後退りする。自分たちを閉じ込めた張本人だと知っているのだろう。 だがサラレギーは、震える男に見向きもしない。 転がった魔石とおれの顔を交互に見比べて首を傾げる。 「落としたの?」 長い裾が汚れるのも気にせず石の元へ行き、白い指で躊躇なく拾い上げる。 「有利!?」 サラレギーを追っていた目がまた操舵室に戻った。血の気が引いた蒼白の顔色のが、転がるようにおれの元へ駆け寄ってくる。 ずぶ濡れなのは甲板にいた者全員が同じだったけど、おれはその中でも更に酷いはずだ。おれは『濡れた』じゃなくて『浸かった』だし、塩水で痛めた目も鼻も真っ赤だろう。涙と鼻水で顔面はぐしゃぐしゃになっている。 「どうしたの!?どうしてそんな……」 まるで海に落ちたみたいな様子なのか。 が言えなかった言葉が聞こえてくるようだった。 みたいじゃない。落ちたんだ。……落とされたんだ。 でも言葉にならない。右手首が熱を持ったようにズキズキと痛い。 「ユーリ、これ」 石を拾ったサラレギーが、持ち主にそれを差し出してくる。おれがゆっくりと首を振ると、が驚いたように目を見開いた。 「いらないの?それなら、何かと交換しない?とても綺麗な石だもの。初めて見たときから気に入っていたんだ。何かわたしの持っている装飾品で、この美しい石に見合うような物はあるかな」 遠足に持って行く菓子を選ぶみたいに、サラは無邪気に胸元や懐を撫でて探す。きっと死人みたいな顔色をしているおれの前で、それでも楽しげな様子のサラにはぎゅっと唇を噛み締めて寄り添ったおれの腕を抱き締めた。 欲しいならやるよ。そう吐き捨てたいのを堪えたのは、がここにいるからだ。 服を探っていた手に目を留めて、サラは右手を持ち上げた。 「ああ、これがいい。これはね、小シマロンでしかとれない珍しい石だよ。幼い頃に別れたきりのわたしの母が、絆が永遠であるようにとくれたものなんだ」 薬指にあった薄紅色のリングを外し、おれに渡そうとする。赤というより淡いピンクだ。 「渡すべきではありません」 横で見ていたウェラー卿が一歩前へ出て、その手を掴む。 「どうして?友達の証だよ」 「いや、貰えない。そんな大事なものは貰えないって」 生き別れの母親からの贈り物なんて、ただ気に入っただけの石と交換するようなものじゃないだろうと手を振って半歩後ろに下がった。 そんな大事なものと、交換するようなものじゃない。捨てた石なんて。 「いいんだ、ユーリに持っていてほしい。友情の証だと言っただろう?ねえ」 おれの腕を抱き込んでいたは、急に声を掛けられたからかびくりと震える。 「え……ええ……はい、陛下……」 「?」 「まあ素敵!グリ江にも見せて貸して触らせてぇー」 「いいよ」 様子のおかしいを覗きもうとしていると、ヨザックが割って入って科を作る。 女喋りをしていることより、価値の判る相手が嬉しいのか、サラレギーは大きな掌に薄紅色のリングを落とした。 「本当に素敵。……でも残念ながらグリ江の指には小さすぎるみたい」 ヨザックは興味津々のふりで、あっという間に輪の内側と外側全部に触れた。妙な細工がないか確認したわけだ。改めてヨザックの有能さを思い知る。 サラレギーはそんな事情など気付いていないようで、白い華奢な指でおれの右手を持ち上げて、ヨザックが掌に乗せて差し出した指輪をつまんだ。 内側に何か文字が刻まれているが、細かすぎて読み取れない。表面には絡み合う蔓薔薇といくつもの太陽が掘られていた。個人的な思い出の問題以外にも高価そうな品物だ。 「ああ……小指でないと駄目だね。わたしと違って勇敢そうな手だから」 おれの掌をゆっくりと触って、サラレギーはくすりと笑うとその手でおれの右手の小指にリングを嵌める。指輪なんて慣れないから、根本まで押し下げられたそれに違和感が残った。 「そんなことないよ」 本当に勇敢な男だったら、海に落ちただけでこんなにビビったりしないだろう。おれにしがみつくようにしているにも、震えは伝わってしまっている。 ……違う、も震えているのか? 「こんなに濡れて。早く湯に浸かって温まったほうがいい。寒くて震えているじゃないか」 サラレギーが指輪を嵌めたおれの右手を両手で握って、そっと自分の頬に押し当てた。 言われなくてもそうしたい。むしろ布団を被って今すぐ眠ってしまいたかった。自分でも判るほど疲れて切っていた。 それでも、早くも始まった筋肉痛に耐えながらサラレギーからゆっくりと右手を取り返す。 「そうもいかないんだ。船底にいた神族の中から航行経験のある人を捜してきた」 「奴隷を解放したの!?」 サラレギーが目を見開いて、左腕に抱きついているがまた震える。 「違うよサラ、彼は奴隷じゃない。ベテランの船乗りだ。この難所を越えたことがある人だ。舵を取るのを手伝ってくれる。おれはそれに立ち会わなくちゃならない。責任があるからね」 彼を仲間の元から引き離し、奴隷扱いする連中の直中に連れてきたのはおれだ。責任が、ある。 「その件には私にも……」 「近づくなと言っただろう!」 歩み寄ろうとしたウェラー卿の喉元に、ヨザックが再び取り出した切っ先を突きつける。 が小さな悲鳴を飲み込んだ。 「やめろヨザック!」 左腕に震えが伝わってくる。が震えている。ヨザックの剣幕にか、それとも気付いているのだろうか。さっきあった出来事を、予測しているのかもしれない。 「その人は、小シマロン王の護衛だ。大シマロンの使者だ。手を出すな。この程度のことで騒ぎを起こしたくない。それに」 その後は言わなくても伝わるだろう。 の前だ。たとえこの後、真実を告げるのだとしても、目の前で彼に刃を突きつけられたら、きっとつらい。 ヨザックは浅く頷き、あっさりと剣を引いた。 急に起こった騒ぎに驚いたのか、サラレギーが詰めていた息を吐き出して、二人の護衛を振り返らずにおれに訊ねる。 「何かあったの?」 「いや、ちょっとした行き違いだよ。大したことじゃない」 「ならいいけれど。ところでユーリはこのまま操舵室に行くの?」 「そのつもりだよ」 「そう……わたしはもう塩水に濡れるのはたくさんだ。部屋で打ち身を作らないように枕を抱えていることにするよ。ユーリもあまり無理をしないで」 「ああ、ありがとう」 部屋に戻るというサラにヨザックは如何にも好都合だという顔をした。それを理由にウェラー卿を追い払えるからだ。 「陛下」 護衛を従えて船室に降りようとしたサラレギーに、が抱き締めていたおれの腕を放して一歩、追いかけようとする。 「」 そっちには行くな、彼がいる。 はまだ知らない。予感はあっても、きっとまだ彼を信じていると手を掴んで引き止めると、サラが思い出したように振り返った。 「そうだ、ユーリにも言っておかなくちゃ。船底の奴隷たちのことだけど、毛布と食料を運ばせるよ」 「本当に!?」 急にどうしたんだろう。でも朗報だと喜んで、一緒に喜ぶだろうを見たけど、はサラレギーを見たままで、ぎこちなく笑おうとして、失敗した。 「友誼の証だからね、?」 「陛下のご厚情に感謝いたします……」 楽しげに笑ったサラに対して、は硬い声で腰を折って、深く頭を下げる。 「違う違う、友情だよ、ね?」 サラはリターンして護衛の横を通り過ぎると、頭を下げたの手を取って顔を上げさせる。 そしてそのまま、その頬に口付けを。 「サラレギーっ!」 おれが悲鳴を上げたのは怒りだったのか、混乱だったのか、それとも彼の身を案じたのかは判らない。だがヨザックとウェラー卿が同時に手を伸ばしたのは、確実にとサラを後ろに下がらせるためだろう。 小シマロンの船員たちの目の前で、その王を殴り倒さないように。 だがは、おれたちの予想に反して不意うちとも言えるのキスに耐えた……だけではなかった。 「友情、だよね?」 サラレギーがそう言って笑顔を少し前へ出すと、は躊躇いながらゆっくりと、だが確かに自分から、サラの頬に口付けを返した。 |
それでもまだ信じていた相手からの裏切りに傷付き、更に妹の行動に驚愕。 混乱することばかりで何がなんだか判りません。 |