嵐のような海流に翻弄される船の甲板に出ると、コンラッドはもうすでに船尾に向かって移動を始めていた。 「ウェラー卿!」 どうやらさっき船室から操舵室まで移動したときの速度は、おれたちお子様向けにかなり慎重に歩いていた結果らしい。 押し寄せる横波で全身を濡らしながらどんどん先へ行く背中を追って、手摺りにしがみつくように腕を引っ掛けると、足を滑らせないように気をつけながら追いかける。 「何をするつもりだ、コンラッド!返事をしろよ!」 船倉へ続く階段までたどりついていたコンラッドは、振り返っておれが帰りそうもないと見ると諦めたように溜息をついて、身を乗り出して手を伸ばしてきた。 「人捜しです。……来るなと言ったのに、ここまでついてきてしまったなら仕方がない。一人で帰すほうが危険ですね。もっと近くに」 ためらいもなくその手を掴む、とはいかなかったが、一瞬迷っただけで伸ばされた手を掴むと一気に引き寄せられる。 「自分の乗ってる船のことだ。考えがあるなら知りたくもなるさ」 「お陰でグリエはあなたの妹の安全を確保してから、大慌てであなたを追ってこなくてはならない。相変わらず護衛泣かせの人ですね」 それは常々あんたが思ってたことなのか、と。 聞きそうになって、口を噤んだ。 101.壊れそうな想い(2) 「ヨザックはおれを追ってくるより、そのままの傍にいてくれるんじゃないかな」 おれは曲がりなりにもあんたと行動しているわけだし、と声に出さずにコンラッドに続いて船倉へ降りる。 先に降りきったコンラッドは振り返って手を差し出す。 「気をつけて、濡れて滑ります」 「判ってる」 もう危険な甲板の上ではなかったので、今度はその手を取らない。船倉はさっき覗いたときも湿っぽいところだったけど、今は甲板から降り注ぐ海水で水浸しだった。 濡れて頬に貼り付いた前髪を掻き揚げる。塩辛い水が目にも鼻にも入って、喉の奥まで染みて苦しい。ヒリつく顔を拳で拭うと、目頭がますます痛くなった。 「ああ、擦ると……」 コンラッドの声に顔を上げると、手を引いて踵を返したところだった。その背中を追う。 「グリエはあなたを追ってきます。……これはあなたが心得ておくべきことだと思いますが、彼はあなたとあなたの妹を天秤にかけるとき、必ずあなたを優先します」 「……そういう言い方はよせ」 「事実です。そして、あなたの妹もそれを最善と言うでしょう」 「のことで知った口を利くな!」 床を踏み鳴らすと、濡れた板は思ったような音を出さず、水が跳ね上がった。 がヨザックに、自分よりおれを優先しろと言うのは、おれだって判ってる。 でも、今のコンラッドがのことを判っているように言うのは許せない。聞きたくない。 おまけに「あなたの妹」だって? そんな他人行儀に。 がどんなにあんたを想って泣いているのか、知りもしないくせに! コンラッドは肩越しに振り返って何か言おうと口を開いたけど、すぐに前を向いた。 「……出過ぎたことを言いました」 そうじゃない、そうじゃないだろ!? そう叫びたいのをぐっと堪えている間に船倉の奥まで進むと、コンラッドは更に下へと続く板を持ち上げる。あの下には、サラに奴隷と言われた神族の人々が閉じ込められている。 「ああ!そうだ、彼らを助けないと!」 ここでこんなにも濡れているなら下はもっと酷いことになっているんじゃないかと覗き込んで絶句した。 思った通り酷かった。いや、思った以上に酷かった。 船底は大人の膝くらいの高さまで浸水し、とても座っていられる状況じゃない。おまけに掴まるところがどこにもないので、船が傾く度に壁に叩きつけられる。 それでも彼らは悲鳴を上げることなく、低く呻くだけで耐えていた。 「おーい!大丈夫かー?」 大丈夫なはずがない。 馬鹿なことを訊いたおれの声に反応して、初めに踏み込んだときと同じように、幾つもの金色の灯が上を見上げてくる。ざっと見ても百人以上はいるだろう、神族の人たちの瞳だ。 「どうしよう、言葉が通じないけどどうやって避難させたら……」 コンラッドは船倉を取って返し、壁を探ってランプを手に戻ってくる。こんな水浸しの船倉にあったランプが役に立つのかと疑問に思ったけど、あっさりと灯を入れると下へと飛び降りた。壁にかけてあったから、床に降り注いだ水から免れていたのか。 おれも梯子を伝って下まで降りる。 「この中で船乗りか、海軍で働いていた者がいればいいんですが。聖砂国の海運関係者ならこの難所を乗り越える技量を持っているかもしれない。少なくとも小シマロンの船員よりは海流の知識もあるでしょう」 「なるほど、それを訊きに来たのか!よし、じゃあさっそく」 両手を口に当てて声を張り上げようとしたら、コンラッドがそれを止めた。懐から紙を取り出して、木炭で丸い図を描く。短い線を周りに……。 「発電所のマーク?」 「違いますっ」 「じゃあ何……太陽でもないよな?……ああ解った!舵かよ、それ!ちょ、それじゃ何か解んないよ。簡略にもほどがある!あんたもしかして絵が下手だろ!?」 コンラッドから木炭を奪って裏におれなりの舵を描く。はっきり言ってコンラッドよりマシな程度だけど、マシなだけも充分だ。 「誰かいないか?船の舵をとれる人っ!この絵、これを回せる人だ!」 裏と表、おれ作とコンラッド作の舵の絵を描いた紙を頭上に掲げて左右を見回す。コンラッドが横で絵が見えるようにランプを掲げていた。 最初の内はなにこいつ、みたいな目で見られていたが、そのうち一人の男が貼り付いていた壁から身をはがし、ゆっくりとした足取りで近寄ってきた。彼もまた頬が痩け、今にも倒れそうだが濃金の瞳だけは爛々と輝いている。 掲げたおれの絵と自分を交互に指差した。 「操舵手さん!?やったコンラッド!いたよ、訊いてみるもんだ!」 「ええ」 嬉しくてうっかり昔みたいにバシバシと腕を叩いてしまったけど、コンラッドは怒るどころか少し笑っただけだった。 「行きましょう、こっちだ」 コンラッドが梯子を指差して、男を促しながら先に登って行く。おれも後から続いて伸ばされた手を握って引き上げてもらう。神族の操舵手もついてきているか振り返って、梯子を登る男の後ろに光る金の光に、最初に考えたことに立ち戻る。 「そうだ!この人たちを助けておかないと!」 「今はそんな暇は……」 「けど、もし船が沈んだら?こんな底にいたら脱出することもできない!なあ皆さん、ここ、床板が開いてるから!今は緊急事態で見張りもいない!いつでも救命ボートに乗れるよう、準備だけでもしておいてくれ!」 おれの言いたいことは通じていないのだろう。彼らは不安そうに互いに顔を見合わせるばかりだった。言葉が通じない不自由さがもどかしい。 「いいね、開いてるから!」 「陛下、早く」 コンラッドに引っ張られて、船底の出入り口から引き剥がされた。 「……なあコンラッド、なんであの人たちはあそこから出ようとしないんだろう。せめてここに上がってきたら、床も濡れているだけで浸水まではしてないのに」 「いかなるものであろうとも、命令は遵守するよう教育されてきたのでしょう。……けれど」 おれを立ち上がらせると、手を放したコンラッドが真っ直ぐにおれを見下ろしてくる。 「今後はどうなるか、判りませんが」 どういうことなのかと聞き返す前に、一緒に上がってきた男が仲間にかける声が聞こえて、口を閉ざした。 一言二言、控えめな小声で言うと立ち上がっておれたちと一緒に船倉を歩き出したけど、振り返ってまた何かを告げる。段々と声が大きく熱も入ってくるが、おれには内容はさっぱりだ。 だが大きく船が揺れ、三人揃って木箱にぶち当たったときに、聞き取れる単語を初めて耳が拾った。 「忘れるな、ベネラが!」 「ベネラ……?」 地名か人名かは不明だが、おそらく固有名詞だろうとギュンターが言っていた、ジェイソンとフレディがおれに宛てた手紙の中にあった言葉だ。助けてほしい、と。 「なあ、ベネラって言った!?今、ベネラって呼んだよな?」 思わず男の服を掴んで揺さぶった。ジェイソンが唯一の希望だって、フレディが助けてって言ったのはそれだ。その、人か土地なんだ! 「教えてくれ、ベネラってなんだ?頼む、知りたいんだ!おれは知らなくちゃいけないんだ!」 「陛下、待って!……ユーリ!」 後ろから腹の辺りを掴まれて、神族の男から引き剥がされた。コンラッドの左肩がおれの顎にぶつかった痛みでやっと冷静さを取り戻す。そうだった、言葉が通じない。 コンラッドに手を着いて振り返ると、理由も判らず詰め寄られた男は恐怖と驚きで顔を強張らせていた。急激に罪悪感が込み上げて頭を下げる。 「ごめん……すまなかったよ。あんたを責めるつもりじゃなかったんだ」 伝わっているかどうか判らないけど、もう一度頭を下げる。男が箱からおずおずと離れたところで、甲板に上がる梯子を指差した。 「行こう、船が沈んでからじゃ遅いからね」 三人で揃って甲板に上がると、最初に見えたのは青い空だった。船が左右に揺られて、海に落ちないように慌て手摺りに掴まる。 海はこんなにも渦巻いているのに、空はまるで別世界みたいな美しさだ。 小シマロンの船員たちは至るところで何かにしがみついていた。中には太いロープを使って身体を柱に結び付けている者もいる。 それほど荒れている波間だ。慎重に行かないと……そう思っていた集中が切れたのは、息を吸おうと瞬きした瞬間だった。 甲板の端に寄らないように気をつけていたのに、頭上から襲ってきた波に顔を打たれて、通路にあった手摺りから指が外れた。 「あっ、と」 船の端の柵に腹が食い込み、辛うじて海への転落を免れる。借り物の厨房服の背中もしっかりと掴まれていた。コンラッドの反射神経に感謝だ。 「大丈夫です……か……」 無事を訊ねる声の歯切れが悪く、横に並んだ男の視線を追って海を見る。 そこには渦があった。周囲の波とは異なる、濃紺の円だ。 じっと見ていると吸い込まれそうな、奇妙に明るいブルー。どこかで見たことがあるような、感じたことがあるような、だけど思い出せない。そんな感覚がもどかしい。 今にも渦の中心から白い手が伸びてきて、首を掴んで引っ張りそうな。恐らくそうされても苦しみもなく、自分のいる場所にも気付かないうちに、肺が潰れるほどに深い底まで連れて行かれる……。 遠くで名前を呼ばれた気がして、おれは無意識に半歩だけ踏み出した。 落ちないはずだった。 背中を押されさえしなければ。 |
コンラッドの意図は経験者を連れてくることでした。 操舵手は見つかりましたが、有利が……。 |