操舵室に向かうというサラレギー王の後について、全員でぞろぞろと甲板まで上がってみると、おかしな光景が広がっていた。
波がうねって渦巻き、船は大きく左右に振られてまるで嵐の中にいたときと同じような激しさなのに、空は青く澄み切っている。風もそう強くはない。
ただ海だけが荒れていた。
激しい横波が甲板に降り注ぎ、濡れた甲板で足を滑らせないように慎重に進む。
船室の壁に沿うように歩いていると、一際高い波が船を襲い帆柱をへし折った。
「ひゃっ」
波の飛沫に混じって飛んできた木片から顔を庇って手を掲げたところで、ふっと影が落ちる。
顔を上げようとしたら、その前に影に包まれて、温かい手がわたしの肩を抱き寄せた。
コンラッドが、コートの中にわたしを入れてくれたのだ。
「気をつけて。転ばないように」
「え、ええ、あの……」
「危険なので恐らくヨザックは陛下に付きっ切りです。だから今だけは俺で我慢してください」
これのどこが我慢なんだろう。我慢というのは嫌なことを耐えるときに使う言葉だと思うんだけどな。
温かいコートの中に抱き寄せられながら、船尾のほうに目を動かしてギクリと震える。
まだ、船底にいるあの人たちのことは解決していない。
跳ね上がった心臓が一瞬で落ち着いて、胃に冷たい氷の塊を詰め込まれたような感覚を覚えて、身を寄せようとしていたコンラッドから一歩離れた。代わりにそのシャツを握る。
意地を張って転んで怪我でもしたら余計な手間を増やすだけだし、でもコンラッドの好意に素直に甘えることは、どうしてもできない。
今は自分をしっかり持たないといけない。サラレギー王との交渉はまだ続く。むしろ、船が大変な時期でそれどころではないと一蹴されるかもしれない。今からが正念場だ。
だからこそ、自分の足で立って歩かなくては、きっと痛みで動くことができなってしまう。
今この温かさに寄り掛かったら、もう動けなくなる。つらいことも、悲しいことも見たくなくなる。
コンラッドは苦く笑って、わたしの肩を抱いていた手を放して手摺りを握った。
「しっかりシャツを握っていてください。決して波に攫われないで」
もう二度と。
そう呟いた声が聞こえた気がして顔を上げたけど、コンラッドはもう前を向いてわたしを見てはいなかった。


101.壊れそうな想い(1)


船室の壁についた手摺りを頼りに慎重に甲板を進んでいる間にも、波が更に高くなっていく。
荒い潮流に阻まれて、近くを走っていた護衛艦との間がどんどんと離れて行った。
「タコ……じゃないよな、やっぱり」
有利が荒れる海と穏やかな空を交互に見てそう呟くと、サラレギー王は首を振る。
「もちろん違う。聖砂国の大陸周辺には、天然の防壁とも呼べる特殊な海流がある。この海が凪いでいるのは年に十数日だけだ。その期間を逃したら、どんなに腕のいい船乗りでも彼の国には近づけない。だからこそ何千年も鎖国状態が維持できたんだ」
何千年も鎖国が維持できたこともすごいけど、これから国交を開いたとしてもその通航が大変そう。年に十数日しか行き来できないのなら、恐らく同じ人が通れるのは一年で一回きりだろう。彦星と織姫みたいなご近所付き合いしかできない。
前を歩く有利が水飛沫でずぶ濡れになっているというのに、わたしはコンラッドに庇われて壁との間にいるお陰であんまり濡れていない。
申し訳なくなりながら、ヨザックさんはどこにいるのかと思ったら、船縁のほうの手摺りを掴んで遠くを眺めていた。
「ざーんねーん!巨大ダコ斬りをお見せできそうにないです。陛下ー!やっぱり海流みたいですー」
「いや、判った、判ったから戻ってこいヨザック!そんな端っこに立ってると危ないから!いくらあんたの上腕二頭筋が立派でも、波に攫われたら掴まるところがないだろ!」
「ひどいわ、陛下。実はオレの身体だけが目当てだったのね」
軽く涙を拭く仕草をしながら、大股で一気に壁際まで戻ってきた。
コンラッドのコートの中に匿われるわたしを見て、目を丸めて苦笑する。
「そのまんま、その丈夫な壁にしがみついててくださいね。危なくなったらそれを突き飛ばせば、反動で手摺りにしがみつけますから」
「こ、怖いこと言わないでください」
コートの中からコンラッドを見上げたけど、気にもしていないようだった。
ヨザックさんはコンラッドの前に割り込んで、有利の後ろで片手で手摺りを掴んで片手は常に空けている。有利が手を滑らせてしまった場合に備えているんだと思う。
慎重に、でもできるだけ急いで操舵室にたどり着くと、三人の船員が舵輪にしがみついて、船が転覆しないように船体を真っ直ぐに保とうとしていた。
「花形操舵手は誰だ!」
小シマロンでは主席とか主任とかじゃなくて、花形というらしい。まるで板前さんみたい。
三人のうち、一番髪の色が濃い人が振り返る。
「自分です、陛下!ですができれば船室のなるべく奥で、柔らかい物に寄り掛かっていてほしいです!」
サラレギー王は濡れた外套のフードを後ろに下げて、眼鏡のフレームを押さえながら壁に手を着いた。
「この海域を通った経験は?」
予想もしない質問だったらしく、花形操舵手さんは目を丸めて首を振る。
「もちろんありません、陛下」
「船長はどうだ」
「ございません、陛下。国家に属する貨物船が鎖国中の国に近寄ることなど考えるはずもありません」
「わたしだけか」
サラレギー王は舌打ちをして、軽く爪先を噛んで呟いた。
何がわたしだけなんだろう?もしかして、聖砂国に行ったことがある経験の話……のはずはないか。鎖国を続けている国に、一国の王やその子供が渡っているはずがない。
「頑張ってくれ、とにかく頑張ってくれよ。協力できることがあれば何だってやるし」
有利が両手を握り固めて身を乗り出すと、花形操舵手さんの右で舵を握っていた人が小さく首を振る。
「ありがとうございます……ですが、お客人方は、どうか安全な船室にいらしてください」
絞り出すような声が途切れる前に、隣に立っていたコンラッドが急に船室のドアを開けた。
「コンラッド?」
「船室に戻っていてください。陛下も」
わたしを押し返したコンラッドが外へ出ると、ドアが閉まる前に有利まで後を追って行ってしまう。
「有利!」
驚いて服を掴もうとした手は、一歩間に合わずに空を掴んだだけだった。ドアに手を掛けて飛び出そうとしたところで、後ろに引き戻される。
「姫はここに残って!」
「え、でも!」
「お願いですよ、オレの手は二本しかないんです。後で迎えにきますから、それまでここで待っててください」
わたしが無理をして出て行くと、ヨザックさんはわたしのことも気に掛けないといけないから、有利を追う邪魔になる。
仕方なくしぶしぶと頷くと、ヨザックさんはにやりと笑って片手を上げた。
「すぐ戻ります!」
ヨザックさんが出て行くと、軋みながら閉まるドアが外の荒波の音と操舵室を隔てた。


「ウェラー卿はどこへ行ったのだと思う?」
「判りません」
振り返ると、サラレギー王も護衛のコンラッドの帰りを待つつもりらしく、よろけながら転ばないように壁に手をついた。
「この荒波の中、誰も付けずに甲板に出る気にはなれないね」
わたしの聞きたいことを先回りして答えたつもりらしいけれど、言いたいことは別にある。
一歩前に進み出た。
「陛下、先ほどの話の続きを」
「先ほどの話?」
「船底の神族の人たちのことです」
船長がちらりと視線だけをこちらに向けたけれど、わたしもサラレギー王もお互いだけを見ている。
「ああ……だけど今はそれどころではないと思うけれど?」
「確かに、転覆の恐れがあることは理解しています。ですが、今しがたそちらの方が仰ったように、陛下にも、わたしにもそのことについてできることはありません。あなたの臣下の腕を信じて待つだけです。ですから、陛下には陛下にしかできなことをしていただきたいのです」
サラレギー王は、壁を伝って小さなテーブルに回り込むと、その椅子に座って軽く肩をすくめた。
「今は奴隷の処遇を考えるより、わたしとあなた方と、そしてわたしの部下の安全に集中したいと思っている。それが間違いだと?」
「いいえ、間違いだとは思いません。けれど繰り返しになりますが、そのことについて陛下はただ信じてお待ちになることがすべてかと」
「いいや、違うね。わたしのすべきことは、我々と船員の命を守る術を考えることだ。判るかい?この荒波を乗り切ったとしても、船に破損がでればどうなるだろう。もしかすると航行が困難になるような事態もあるかもしれない。もちろんこの船にも物資は豊富に積んであるけれど、そうなると水と食料はとても貴重なものになる。もしもに備えて少しでも蓄えておくべきだ。それをあなたは、奴隷に分け与えろと?」
今度は操舵手の人も少しだけ顧みた。すぐにまた舵に戻ったけれど。
そんなことは考えてもみなかった。切り替えされた言葉に、答えが詰まる。
もしもの話より、今ある命を優先するべきだと思う。けれどそれを主張して理解を得られるだろうか。
『たかが奴隷』だと考えている人に?
自分の損失にならないようにしろと、説得しようとしたこの口で?
「……っですが、陛下」
「ひとつ、聞きたいのだけど」
船が揺れて、慌てて壁に手をついた。椅子に座ったサラレギー王は、それが滑らないようにと壁際にぴたりと椅子をくっつける。
「あなたもユーリも、どうしてそんなに奴隷のことを気に掛けるの?むしろ魔族は、もっとも神族を嫌うはずだろう?魔族と神族は対極の存在だ」
どうしてと聞かれても困る。魔族が神族と相性が悪いというらしいことは、大シマロンでヴォルフラムも言っていたし、さっきヨザックさんも呟いていた。神族が使うのは法術で、それが魔術と対極らしいから、きっとそういうことなんだと思う。
「まあ、彼らは奴隷だから法力はないか、ないに等しいとは思うけれど、だからといって魔族の長であるユーリが庇い立てするのは判らない」
「……庇っているわけではありません」
自分の心に問い掛ける。
なぜ、と。
心の底にあるのは同情なんだろうか。それとも憐れみ?
ううん、きっとそうじゃない。
「有利の……気持ちもそうだとは言い切れません。けれど、庇っているのはありません。陛下、わたしや有利は、目の前の命を見捨てたくはないのです」
それはきっと、彼らのためのものではなくて、自分のための気持ち。
「彼らが寒さに凍えて震え、空腹に苦しむ姿を見てしまいました。それを見なかったことにはできません。きっと彼らを救いたいのではありません。……自分の心を、救いたいのです」
これが、もう本当に余力なんて無くてギリギリの状態だったとしたら、わたしもサラレギー王と同じ結論を出したかもしれない。その可能性は否定できない。
他の人よりも有利を。それはわたしの中でいつでも揺るぎない想いだから。
けれどサラレギー王の心配は、今の時点ではもしもでしかなくて、そして物資は豊富にあると言っている。分けられるものがあるのなら、どうかそれを彼らにも。
「陛下、どうか慈悲を」
深く頭を下げて、もう一度お願いをする。
溜息が聞こえた。
、あなたは魔族の王族だ。神族のために軽々しく頭を下げるものではないよ」
頬が熱くなった。王の妹としてふさわしくないことなんて、今までだった散々思い知ってきたのに、他国の人に改めて指摘されるとこんなにも恥ずかしいものなのか。
ぎゅっと唇を噛み締めて、更に頭を下げる。
だってわたしには、この身ひとつで他になにもない。今ここで、サラレギー王に返せるものがなにもない。ただ、縋ることだけしか。
……」
床だけを見ていた視界に、白い指が伸びてきて、下から掬うようにして頬に触れた。
促されて顔を上げると、眼鏡越しにサラレギー王の目と視線がぶつかる。
「正直なことろ、奴隷を助けることがあなたの心を救うという意味が、わたしには計り難い。だってあなたはあなたで、彼らは彼らだ。まったく係わり合いのない者たちなのに」
「陛下、わたしは」
「だけど、それであなたを救えるというのなら、考えないこともない」
「では……っ」
「けれど彼らの数は多く、わたしはそのためにわたしの臣下に不満を抱かせることもあるかもしれない」
「陛下、我々は陛下の決定に異を唱えることなどありません」
「当然だ」
控えめに言った船長に、サラレギー王は鋭い一瞥を向けてすぐにわたしに視線を戻す。
外は嵐のような大波で、船は左右に大きく揺れているというのに、にっこりと微笑んだその笑顔は、まるで天使のように朗らかで。
「あなたのためにすることだから、あなたの誠意を見せてもらえたら嬉しいな」
「それ……は、どう、いう……」
「わたしはがとても好きだよ。きっと本当の餓えを経験したことも、寒さに凍えたこともないのでしょう?なのにそんなに必死になって……その甘く優しいところは好意に価する」
喉がカラカラに干上がって、上手く声が出ない。頬に触れた少年の指はそっと添えるだけのものなのに、まるで鷲掴みにされたようで後ろに下がることもできない。
「あなたがわたしのものになってくれたら、とても嬉しい」
まるで落ちてきた重い石を背中に背負ったように、身体が傾いた。
あなたが、わたしのもの、に?
わたしが?
この人の。


わっと外から聞こえた喧騒に、驚いて曲げていた腰を伸ばす。
サラレギー王は目を瞬いて、宙に浮いていた手を引いた。
「どうしたんだろう?何かあったのかな」
椅子から立ち上がったサラレギー王に、思わず一歩後ろに下がってしまった。
彼は口元を押さえて小さく笑う。
「ああ、すまない。さっきのは冗談だよ。言っただろう?あなたのことは、好意に価する、と。好きな人をそんな代価のように扱うことはないから安心して。けれどあなたのために、船底の奴隷たちの件は考えると約束しよう」
「陛、下……」
「揺れが少し収まったね。だが、まだあの海域を抜けたわけではないだろう。天然の要害がこんなもののはずはない。少し外を見てみようか」
「陛下……」
サラレギー王はわたしの横を通り過ぎようとして、そっと肩に手を置いた。
「けれど覚えておいて。わたしが奴隷を保護するのは、あなたとユーリが好きだからだよ。友情と好意の証だ。それを忘れないでね」
彼が通り過ぎて、やっと身体が動いた。
振り返ってドアを開けるサラレギー王の背中を見る。
触られた肩は、コンラッドに掴まれたときのように暖かなものが流れ込んでくることはなく、ひんやりと冷たく凍えるだけだった。







何を考えているのか計り難い人を相手に、望んだ結果を
引き出せたと言えるでしょうか?


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