「ど、奴隷っていうもの自体がちょっと、おれには理解し難いんだけど」 「眞魔国に奴隷はいないの?」 「い、いない」 有利がちらりと返り見ると、ヨザックさんはそれで合っていると頷いた。 一瞬だけでも自信が無くなった有利のその気持ちは判る。 ひょっとしたら、自分の目に映る範囲にはいなかっただけではないかと思ってしまったんじゃないかな。 だってこの船の中でさえ、わたしたちは今まで神族の人たちがあんなところに押し込められていると気付かなかった。 ギュンターさんたちに教えてもらったところの外では、そんな制度があったのもしれないと、少しだけ不安になったんだろう。 「それに奴隷っていったってあんな扱いはないよ!基本的人権ってものがあるだろう!?」 「基本的、人権?」 たどたどしく繰り返したサラレギー王は、それはなにと言わんばかりに首を傾げる。 良心とか言う前に、きっと常識そのものが違うんだ。世界の差なのか、国の違いなのかは、今は判らないけれど。 基本的人権という言葉は地球のものだとしても、こちらの世界で同じ意味に当てはまる言葉はないのか、それも判らない。 どこから説明して、どう説得すればいいのか、有利は途方にくれたように両手で顔を覆う。 「ちょっと待ってくれ。どう言えばいいんだろう……話し合おう、サラ。とにかく、まず話し合おう。彼らをあのままにしておくのは間違ってる」 「どうして?」 意を決したように顔を上げた有利に、サラレギー王は首を傾げただけだった。 100.割れない鏡(5) 「それにしても、眞魔国には奴隷がいないだなんて驚いたな。それなら汚水処理なんかは誰がやるの?」 誰だろう、専門業者の人がいるのかと考えていたら、ヨザックさんが遠い目をして呟いた。 「それはですねえ、下っ端兵士の役で」 「では危険を伴う灌漑工事や、過酷な環境下での開拓作業は?」 「それも下っ端兵士です。うわー、振り返ってみれば兵士って思った以上に過酷な仕事なんですねえ」 ヨザックさんが溜息をつくと、わたしの後ろから苦々しい声が上がった。 「嘆くな。お前たちには訓練も出世もさせていただろう」 「そりゃそうですけどー」 少しだけ振り返ってみたけど、コンラッドは澄ました顔で前だけを見ていた。 有利やわたしよりコンラッドのほうが眞魔国の仕組みをよく知っているのは、わたしたちには当然なんだけど、サラレギー王の目にはどう映っているのか気になる。 肩すくめるヨザックさんを横目で申し訳なさそうに見て、有利はもう一度サラレギー王と正面から向き直る。 「奴隷だとか、そういう形の身分の差をつけるのは……ああ、いや、これは今話すと話が絡まりそうだ。とにかく、凍えそうなところに薄着で放り出していたり、腹が減って食べるパンにも事欠いて、台所から盗ませるような生活をさせておくことはどうかと思うんだ」 「パンがないの?だったら、お菓子を食べればいいじゃない」 有名なあのセリフを、本当に言う人がいるとは思わなかった。まして、日本で普通の高校生だけをやっていたら、まずお目にかかれない。 わたしと有利は同時に脱力して、有利なんかは床に両手をついてうな垂れてしまった。 「ま、マリー様……」 でもここは小シマロンだから、そんなことを言ってもフランス革命は起こらない。 ……それとも、出港間際のあの騒ぎは……あるいは? 「わたしはサラだよ、ユーリ」 違う違う。有利とわたしはやっぱり同時に手を振った。 「陛下、よかったら使って」 ヨザックさんが膝を折ってレースのハンカチを差し出すと、有利はそれを受け取って目尻をわずかになぞる。 「ありがとうグリ江、ボクもう疲れたよ……なんだかとっても眠いんだ」 「サラレギー陛下」 小芝居で精神的再建を図っている有利にはそのまま少し休んでもらおう。代わってわたしが進み出る。 こんな説得は間違っているし、何の解決にもなっていないのも判ってる。有利もいい顔はしないだろう。 でも、とにかく今は目の前の現状を変える、そのことだけでも果たさなくてはいけない。寒さに震えながら、食料を服の下に抱えていた女の子が脳裡をちらつく。 「彼らを放置しておいて病気が発生すれば、狭い船内です。急速に広まるかもしれません。彼らにせめて何か着る物と食料を分けることはできませんか?」 「、それは……っ」 有利が驚いたように顔を上げたのは視界の端に映ったけれど、わたしはまっすぐサラレギー王の目を見たまま視線を逸らさない。 神族の人たちのためではなく、サラレギー王自身や、その部下たちのためになるよう状況の改善を考えてほしいと言っているだけで、これでは意識の改革を願うことにはならない。 それは判ってる。 だけど、さっきからサラレギー王には有利の言うことをまともに取り合う気がないように見えて仕方がない。違う話を持ってきて、のらりくらりとかわして遊んでいるように見える。 これもやっぱり偏見なんだろうか。 薄い色のついた眼鏡の向こうで、サラレギー王が目を細めて笑う。 「病気の者が出れば、可哀想だけど船を降りてもらえば問題は解決するのではないかな?」 「降りてもらうって……っ」 「病気が発生してからでは遅いと申し上げているのです。船から降ろすと言っても、ではその作業を行った『あなたの兵士』にも病気が移る可能性が出てきます。そのあと、その人にも降りてもらいますか?」 嫌なことを言っている。仮定としても、嫌な話で、胃がギリギリと締め付けられるように痛い。 「!」 「なるほど」 有利が咎めるように声を荒げると、逆にサラレギー王は楽しそうに指先で軽く顎を撫でた。 「確かに、の話は判りやすいね」 それは、あなたと感性が似ているということ? それとも有利のような一貫した説得を、さっさと諦めたことを揶揄しているのか。 嫌なことを言っている。 自分の身を守るために、問題が起こらないために、未然に慈悲を施せと、そう。 「違うだろ、!それじゃ意味が違……」 有利が床から立ち上がったとき、一際大きな揺れが起こった。 「おわっ、と!」 不安定な姿勢だった有利が転びかけて、すかさずヨザックさんが後ろから支える。 サラレギー王はすぐ近くにあった椅子にこけるようにして腰掛けて、わたしがどうにか自分でバランスを取ったところで、後ろから支えてくれる手があった。 振り返らない。だけど、掴まれたところから肩に温かい体温を感じる。それだけで、「揺れ」に反応して大きく膨らんだ不安が、少し治まる。 大きな波に乗ったのかと思ったけれど、その後も細かな震動が収まらない。 ぶれのような痺れが徐々に伝わって、揺れが足元から駆け上がってくる。 「海流だ」 「巨大タコだ!」 苦々しいサラレギー王の呟きと、元気のよいヨザックさんの叫びが重なった。大きく違う予想だけど、サラレギー王は表情を硬くして椅子の肘掛けを掴む。 「聖砂国の近海には季節ごとに形態を変える海流があるんだ。だから一年を通して決まった時期にしか海を越えられない。予想ではギリギリで通過できるはずだったのに、もしかしたら潮流の進行が早まったのかもしれない」 震動のような揺れは段々と大きくなってきて、テーブルの上に置かれていた小瓶が倒れて中身を零す。 「……最悪の場合、どうなるんだ?」 有利が少し硬い声で確認すると、サラレギー王は息をついて首を振った。 「確かなことは言えないな。わたしだって赤ん坊の頃に体験したきりだ。でも流れにまともに巻き込まれたら、熟練した船乗りたちでも無事に脱出するのは至難の業だと聞いている。まして経験のない貨物船の操舵手では、どう足掻いても聖砂国まで辿り着けない」 「まだ大ダコの線も残ってますよ!白くてデカくて足が十本ある、皮は固いけど肉は柔らかい奴だ」 それは違う生き物では? またこちらの世界と地球との差なのか、それともヨザックさんの勘違いなのか……ほぼ前者だよね。 「ちょうど良かった。オレ今、若奥様ですもの、ピッチピチに新鮮な創作海鮮料理を陛下と姫に振舞っちゃいますよ〜。足の一本二本ぶった斬ってきますから」 「割烹着で言われると迫力が違うな……」 有利が苦笑しながらドアを開けると、廊下の向こうは大騒ぎになっていた。この航海で初めての緊急事態に、甲板を右往左往している怒号が聞こえる。 「……日数的には、まだ遭遇しないはずだったんだ」 常に無く低く呟かれた声に振り返ると、サラレギー王は左手の細い指が白くなるほど強く肘掛けを掴んで、右手親指の爪を噛むような仕草をする。 珍しい彼の様子に、有利が宥めようと部屋に戻って歩み寄る。 「思い通りにならないときもあるよ、サラ。相手は自然なんだからさ」 「何であろうと!」 顔を上げたサラレギー王は、強い目で窓を睨んだ。 「思い通りにならないものは許せない」 初めて彼の本心を聞いたような気がする。 穏やかな笑みで、いつも煙に巻かれたような気分だった。 もしかしたら……ううん、きっと信用していなかったのはお互い様なんじゃないだろうか。 肩を掴んで、船の揺れで転ばないように支えてくれる手を振り返ると、わたしの視線に気付いたコンラッドが、サラレギー王の怒りの様子を見てそっと頷く。 今は緊急事態で、それどころじゃないと思っていても、悲しくて俯いてしまった。 サラレギー王を疑えと言われて、言われるまでもなく疑っていた自分に嫌気が差した。 嫌な自分を鏡で見せられたような気分になってイライラしたのに、結局こういう結論になるんだ。 神族の人たちのことでも、有利の言うことは判らないと首を傾げた彼が、わたしの話なら判ると、そう言って笑った。 わたしはたぶん、有利よりもずっと低いところに妥協点があるんだろう。理想のために努力を続けることより、結果を優先してしまう。 だからきっと、サラレギー王には有利よりもわたしのほうが理解しやすいに違いない。 有利よりはまだ、自分と似ているから。 胸が痛い。悲しくて、つらくて、目眩がしそうだ。 有利のように強くなれない。楽になるために、どこかですぐに妥協してしまう。 判り難い自分のことも、こうやって人に映して見ると良く判る。 こんなこと、知りたくなかった。 泣きたくなって、剥き出しの床板を見つめる目を両手で覆う。 もしかしたら、見たくないものを見なくて済むように……したかったのかもしれない。 自分の心から目を逸らしても、無駄なことなのに。 そこからは、決して逃れられない。 |
船自体にも何やら大きな問題が起こっているようですが、 自分の問題もまた重く圧し掛かり……。 |