有利とヨザックさんに続いてコンラッドまで船倉に降りてしまって、ひとり甲板に残された。 待っていなさいと言われたものの、有利が大丈夫なのか気になって仕方がない。甲板を振り返ってみたり、空を見上げたり、そわそわとあちこちを見回して、もう一度そろりと船倉への入り口を覗き込む。 薄暗い湿った空気と潮の強い匂いが漂ってきた。 けど。 「大丈夫、ここは、海の中じゃ、ない」 肩に掛けられたコンラッドのコートを握り締めて、目を閉じて何度も繰り返す。 大丈夫。 あのとき、海から引き上げたわたしを抱き締めて、コンラッドが言った言葉を何度も。 もう大丈夫、と。 「………怖くない」 コートにはまだコンラッドの温もりが残ってる。 まるで、優しく包み込むように。 100.割れない鏡(4) 少し湿った感じのする木の梯子を握り締め、目眩を起こして踏み外したりしないように慎重に降りた。 薄暗い船倉に足がついて周りを見渡す。下に降りてくると、一層に潮の匂いが強い。 ようやくコンラッドが言っていた、わたしが海を怖がっているということを実感した。血の気が引くような悪寒と、目眩を覚えるほどの拒絶感。 海の中にいるような強い潮の匂いと、大きな揺れ。掌と背中に嫌な汗が滲む。 どくどくと早く動く心臓を落ち着けようと、コンラッドのコートを握り締めた。 できるだけ潮の匂いを嗅がないように首を縮めて、コートの中に顔を隠すようにしながら、有利たちを捜して奥に踏み出す。 暗い中、人の声のするほうへと。 先へ進むほど甲板への出入り口の光が遠くなって、天板の隙間から差し込む明かりしかなくなる。 「怖くない、大丈夫」 コートの中で息を吸うと、強い潮の匂いが混じっていても、コンラッドの匂いがした。 背中を撫でて、もう大丈夫だと何度も宥めてくれた、あの暖かな腕を思い出すだけで、少し勇気付けられる。 そんな気がする。 波の音と混じり合って、人の声がどこからするのか聞き分けるのが難しい。床にはところどころロープや何かの小物が置いてあって、それらに引っ掛かって転ばないようにじりじりと進んでいると、今度は少し大きめの声が聞こえた。 「どう……たくさん………密航……っ」 有利だ。それに、何か怒ってる? 怒っているようだけど、元気そうな大声が出せるなら危ないことにはなっていないんだろう。少しほっとして、足を速めてコンテナを避けながら奥まった場所まで足を踏み入れる。 とたんに、脇に避けてあった何かに足を引っ掛けた。 「ひゃっ!?」 くるまるようにコートを巻きつけていたのが悪かった。手がコートから出ない。 顔から床に転ぶ!と咄嗟に目を瞑って捻ろうとした身体は、床まで倒れることなく途中で抱き止められた。 「!?どうしてここに……」 暗いの中でも、至近距離だったから驚いたように見開いた茶色い瞳がはっきりと見える。 床にしゃがんでいて、転びそうになったわたしを下から支えてくれたのはコンラッドだった。 「コ、コン……」 「こんな扱い許されないだろ!?」 コンラッドとのあまりに近い距離に跳ねた心臓は、有利の怒声で別の跳ね方をした。 「ゆ、有利?」 わたしが転びかけて傾いていた身体をまっすぐに直している間に、足を踏み鳴らすように床を蹴って立ち上がって、怒り心頭の様子で横を駆け抜けて行く。 「あっ、ちょっと……」 「坊ちゃん!待ってくださいっ」 ヨザックさんが慌てたように追いかけて、何にそんなに怒ったのだろうと有利が床にしゃがんでいた辺りを振り返る。 床板が上がっていて、ここから更に下、船底へと降りるところがあるようだった。 だけどそこで、ふっと視界が真っ白になる。 「上で待っていてくださいと言ったでしょう。どうして降りてきたんですか」 視界を立ちはだかったコンラッドに塞がれてしまった。 「あの、でも、有利が心配で……ど、どうしてあんなに怒ってるの?」 コンラッドの横から向こう側を覗こうとしても、コンラッドが身体をずらして邪魔をした。 おまけに肩を掴んで押し返してくる。 「見ても楽しいものはありません、戻って」 「楽しくないのは判るけど!」 有利があれだけ怒っているのだから、いいものがあるはずがない。それに、さっきの女の子がこの先にいるはずだ。 コンラッドは聞き分けが悪い子供に手を焼いているというように……ううん、たぶん本人の心情はそのものだと思うけれど、深い溜息と舌打ちをすると、わたしの肩を掴んで引き摺るようにして戻り出した。 「ちょ……ちょっと!」 「ここは潮の匂いがきつい。長くいると気分を悪くします。特にあなたは」 「それは……へ、平気」 コンラッドのコートを着てるから大丈夫、と言いかけて慌てて両手で口を塞ぐ。これはダメ、言っちゃダメ。思い切りまだコンラッドに依存していることが丸判りになっちゃう。 コンラッドは全然待ってくれなくて、結局甲板に上がる梯子まで引き摺り戻されてしまった。 「行きましょう、あの様子ではサラレギー陛下に詰め寄りそうです。戻らないと」 「一体なにがあったの?さっきの子は?」 爪先立ちでコンラッドの後ろを見ようとするけれど、もちろんもう何も見えない。それどころか早く梯子を上がれと背中を押されて急かされる。 梯子を上がりながら、やっぱり船倉を振り返るわたしに、下からまた溜息が聞こえた。 「……彼女は密航者ではありません。この下には、聖砂国へ送り返される神族の者たちが詰め込まれているんです。さあ、上がって」 「送り返される?」 「あなたの兄上は、その待遇の劣悪さに怒りを覚えたのでしょう。彼女のような神族がこの下に何十人と彼女と似たり寄ったりの姿で船底に詰め込まれている」 「そんな……」 彼女は薄い布一枚で寒そうに震えて、折れてしまいそうなほどに痩せ細って、伸ばされただけの手にも怯えていた。 「どうして」 梯子を昇りきると、海風が顔を撫でた。ここでも潮の匂いがする。だけど、空気が篭って湿った匂いはしない。曇天でも、光はある。それだけで気分はずっと楽になった。 コートの下で胸に手を当てて、ゆっくりと息を吐く。掌にはじっとりと汗が滲んでいた。 ほんの少し船倉に下りただけでこれだった。彼女は、そんなところにずっといる。いるしかない状況なんだ。 「大丈夫ですか?」 そっと背中に手を添えられて、背中に電流が走ったみたいに飛び上がるようにして立ち上がる。すぐ後ろから優しい声を掛けられてびっくりしてしまった。 船倉から上半身を出していたコンラッドは苦笑しながら、わたしの背中を撫でた手を引いて甲板に上がってきた。 「行きましょう。……それとも、少しここで風に当たって休みますか?」 「ううん、有利のところに行かなくちゃ」 有利のように直接彼女たちの様子を見たわけじゃないからなのか、有利と同じに激しい怒りを覚えたわけじゃない。 でも、あの船倉の暗さと寒さと湿った重い空気がただ怖くて、そこに押し込められている人がいるという話に、言いようのない悲しさが込み上げる。 有利が彼女たちの待遇の改善を訴えるなら、傍にいたい。何ができるというわけではなくても、せめて。 サラレギー王のいる船室へ向かいながら、借りたままだったコートに気付いてそれを肩から下ろす。 船倉に降りたとき、温かいコートが心強かった。 それだけにあの寒そうな姿の彼女を思い出したら、自分がどれほど人に頼って甘えているのかと、それが恥ずかしくなる。 「これ、ありがとうございました」 だけどコートを受け取ったコンラッドは、それをもう一度広げてわたしの肩に掛ける。 「着ていてください。上着を先ほどの彼女に渡したままでしょう。それでは薄着です」 確かに薄手のシャツ一枚だけど、今から船室に降りるからそこまで防寒に気を配ることはないともう一度返そうとすると、その手を押さえられた。 「あなたが寒い思いをしたからといって、そのぶん彼女たちに恩恵が与えられるわけではない。着ていなさい」 咎めるように言われた言葉に、恥ずかしくなって口を閉ざしてコートを握り締めた。 言われて初めて気付く。わたしは自分の恵まれた環境に居心地が悪くて、ただそれだけで意地になってコートを返そうとしていただけなんだ。 恥ずかしくて情けなくて、ぎゅっと口を引き結んで足を速めた。 今、彼女たちの待遇を改善できるのは、この船の持ち主のサラレギー王だけだ。 彼女たちをどうにかしたいと思うなら、彼にお願いするべきであって、わたしがひとりで勝手に耐えても何の意味もない。 真っ先に彼の元に走った有利の判断が、正しい。 走るような早足で廊下を進んで、最奥の有利とサラレギー王が同居している部屋の前に着いた。ドアをノックしようとしたときに、有利の怒鳴り声が中から聞こえる。 「何を考えてるんだ!あんな酷いことを!」 素早く二回ノックして、返事も待たずにドアを開けた。意味のないノックで部屋に踏み込むと、ドアのすぐ近くで怒り心頭の様子で拳を握り締める有利と、その後ろに控えるヨザックさんがいて、その視線の先にサラレギー王が優雅な様子で椅子に座っていた。 部屋にはシンナーの匂いが漂っていて、見るとテーブルにマニュキアのような小瓶が置かれていた。匂いからしても、サラレギー王が指同士がくっつくかないように広げている爪先の濡れた様子からも、マニュキアを塗っていたんだと思う。 目が合うとヨザックさんは困ったように軽く肩をすくめて、有利はこちらを振り返りもしない。 サラレギー王を見ると、彼もまた困ったように首を傾げてわたしを見た。 「ユーリが先ほどから、奴隷の扱いが悪いと怒っているんだ。もしかしてあなたもその話?」 「奴隷!?」 聞きなれない単語に、わたしと有利の悲鳴のような声が重なった。 「ち、違うよサラ、おれは船底の神族の人たちの話をしているんだ。彼らは難民なんだろ?」 「難民?そうなの、知らなかった」 「知らなかった!?そんなわけないだろう!サラに会いに行こうとしてたとき、おれも見たんだ!小さな船にぎっしり乗って、助けてを求めて手を振っていたじゃないか!あんな小船で、死ぬ思いで国から逃げてきたんだろう!?どうしてあんな酷い扱いで、逃げてきた国に送り返すんだ!」 「逃げてきた……?そんな風に、ユーリは彼らから話を聞けたんだね?」 「え……」 首を傾げて問い返された有利が言葉に詰まる。 「救命艇に乗った彼らを発見したわたしの部下も、一応事情は訊いたんだ。だけどいくら訊ねても何も話してくれなかったらしい。だからわたしはてっきり、大陸近くの海で遭難して、救助を求めていたのだろうと判断したんだ。それで一刻も早く祖国に還らせてあげようとこの船に乗せたのだけど……そうか、憶測で物事を判断するのはよくなかったね」 痛ましそうな様子で首を振るサラレギー王に、有利はとたんに力を無くして俯いた。 「いや……おれも……聞けたわけじゃ、ないけど」 神族の人たちとは言葉が通じない。そう有利は言っていた。詳しい事情を訊けるはずもない。 「けど、見たら判るじゃないか。あんな様子で」 「ユーリは凄いな」 サラレギー王は軽く手を振って、爪が乾いたことを確かめて椅子から立ち上がると有利に近付いて、その手を握った。 「あなたは本当に凄い。ほんの小さな欠片から、物事の深層を見抜く目を持っている」 「……そんなわけ……」 俯いて小さく沈む有利の声に、堪らず一歩前へ出る。 彼は有利を誉めている。本当に感心したような声色。 だけどわたしには、どうしても揶揄しているようにしか聞こえない。判らないまま憶測で騒ぎ立てたのは有利のほうだと言っているようにしか、聞こえない。それともこれも被害妄想なんだろうか。 「ですが陛下、彼らを送り返すのだとしても、あの環境はあまりにも劣悪です。あれでは国に帰るまでに身体を壊してしまいます」 はっきりとその様子を見ていないのに、憶測で言っているのはわたしも同じだ。だけどその中のひとりの様子は見た。 今にも風邪を引いてしまいそうな薄着に、枝のように痩せ細った四肢。食べ物を盗んだのは、きっと食料が足りていないからだ。そうでなければ、あれだけ怯えながらそれでも盗みには行かないだろう。 「船底は寒さも酷くて、とても痩せていて、あれではいつ病気になってもおかしくありません」 「まであんなところに行ったの?船尾の船底は不衛生だし、あなたやユーリが足を踏み入れるような場所ではないよ?」 有利の手を放して今度はわたしの前に歩み寄ってきたサラレギー王は、肩にかけられていたコンラッドのコートをさっと取ってしまう。 「だからこんな服を着ていたんだね。わたしが貸した服があっただろう?こんな外套では裾を踏んでしまうよ」 そう言って、コートを傍らに立ったコンラッドに押し付けるようにして返す。 「不衛生だと判っているなら!」 「だって彼らは奴隷だもの」 サラレギー王は何が悪いのか判らないというように、不思議そうに首を傾げた。 |
話がまるで噛み合いません。 |