有利とヨザックさんと一緒に三人で船倉から上がってみると、今は甲板でする作業がないのか人影はほとんど見えなかった。 寒い中でいきなり動いて筋を違えたりしないようにストレッチをしてから、ゆっくりと走り出す。 船尾まで辿り着くと、柱にタッチをして船首に向かって走る。 今までのランニングもこれの繰り返しをしていたらしい。 有利の後ろをヨザックさんと並んで走りながら、さっそく温まってきた身体に溜息が漏れる。 「やだなあ、基礎体力が落ちてるみたい。もう汗が滲んできた」 この一ヶ月と少し、日本にいるときも何をしても身が入らないからって、ダラダラ過ごしすぎた。精神を鍛えるために武道を始めたのに、簡単に萎れていてどうするんだろう。 「ああ、おれもそういう時期あったあった。野球辞めてしばらくぶりに走ったら、すぐに汗かいてさあ、疲れもドッとくんの。そういうときは地道に体力を作りなお……うわっ!」 甲板ランニング二周目で船尾近くの柱に手をついたとき、有利がロープに足を引っ掛けて大きくバランスを崩す。 「有利!」 「おっと」 ヨザックさんが大きく一歩踏み出して、雨ざらしの荷物に突っ込む前に危なげなく有利の腰を抱えた。 「サンキュー、ヨザッ……あれ?」 腰を抱えられた状態で顔を上げた有利は、木箱の陰に何を見つけたように小声で首を傾げた。 100.割れない鏡(3) 「誰……っ」 有利が小さく声を上げた途端、木箱の陰から向こう側へと人影が飛び出す。薄灰色の長い髪がなびいて潮の香りがした。 「ちょっと待って!何もしないって!」 「おっとと、陛下あまり暴れないで……っと、帰ってきた」 小脇に抱えた有利が暴れて、顔を殴られないように仰け反ったヨザックさんが言った通り、木箱から飛び出した人影はすぐに戻ってきてまた影へと入った。 今度はわたしにもはっきりとその人が見えた。 女の子だ。ひどく痩せていて判り難いけれど、たぶんわたしより少し年下くらいじゃないだろうか。薄灰色だと思った髪は汚れているためで、本来は金色のようだった。木箱の陰にしゃがんで怯えたように見上げてくる瞳も、金色だ。 「この子……」 印象はかなり違うけれど、金の瞳は以前にも見たことがある。大シマロンで出会った双子の神族、ジェイソンとフレディ。それから、彼女たちが守りたがっていた小さな神族の子供たちも、みんな瞳は金色だった。 「あのさ」 困ったように有利が手を伸ばすと、触れる前に彼女は怯えたように両手で頭を抱える。 同時に、船倉に続く階段から何人かの男の人の怒声が聞こえた。会話は段々近付いてきている。 木箱の影の少女は何を言っているのか判らないことを呟きながら、ますます怯えて身を縮めて震えるばかりだ。 そういえば、神族の国の聖砂国は、言葉も文字も違うらしいと有利が言ってたっけ。 「追われてる……のかな」 「だと思うけど」 振り返った有利に困惑しながら頷くと、有利は慌てて周囲を見回した。 「こんな陰じゃすぐ見つかるよな!?ど、どこか隠れるところ……」 「匿うの?」 「見捨てらんないだろ!?」 それはそうだけど。 ここが眞魔国籍の船なら有利から口添えだってできるけど、今はただの居候の身だし、近付いてくる怒鳴り声はやたらと乱暴な言葉を使っている。少女の怯え具合も痛々しい……。 「いっそこの中は……って、どこが蓋!?」 有利と一緒になって、彼女が陰に隠れている木箱を探ってみたけれど、どの面も釘で打ち付けられていて外れそうにない。 「ひょっとして蓋の面が下に?というか、全部打ち付けてる?」 「神族とは関わるなってのは、親の代からの家訓なんですけれどもね」 やれやれと溜息をついたヨザックさんは、木箱を探るわたしと有利を後ろに下がらせて、力任せに側面を引き剥がした。あっさりと。 「いよっと!はい、開きました。もっとも、親の顔なんざ覚えてもいないんですが。きっと美人だったと信じてるんですがね」 「助かったヨザック。あんたのお母さんならきっとゴージャスなドレスも似合う豪快な美人だったんじゃないかな」 「今のは親父の話です」 「ヨザックさんなら、お父さんの話でも美人で間違ってないような気がします、ね!」 「でしょー?」 わたしと有利でどうしたらいいのか戸惑っている彼女を木箱に押し込んで、ヨザックさんが側面を当て込んだ。 板が倒れてきそうになるので自然に押さえられるようにと、木箱の前に立って背中でもたれかかる。すでに立ち位置が自然じゃない気もするんだけど……。 でもすぐに船倉から二人の船員が駆け上がってきて、なるべく自然に匿える状態を作り出す暇なんてなかった。 明らかに誰かを探している風だった二人組は、こちらに気付いて駆け寄ってくる。 風も強く気温も低いというのに、どうしてそういうデザインにしたのかノースリーブの寒そうな制服姿で、髪型はやっぱりナイジェル・ワイズ・マキシーンと同じでサイドを刈り上げたポニーテール。 その馬のしっぽを揺らして駆け寄ってきた船員は、わたしたちの周囲を一度見回した。 「誠に失礼ですが、お客人方」 「な、なんであるかな?」 胸を反らして答えた有利に、わたしとヨザックさんは横目で軽く視線を交わした。どうしてそう、いきなり怪しい態度を取っちゃうんだろう。 けれど普段の有利がどんな態度なのかを知らない二人は、特に気にした様子もなく答えた有利に向き直る。 「若い女を見かけませんでしたか」 「見てない、見てない。密航者なんて見てないから!」 わたしは額を押さえて、ヨザックさんは軽く空を見上げた。当の有利は首を傾げた二人の船員に、失言でもあったかと考えているようだった。横顔が強張っている。 「この船に密航者などおりません」 「そ、そうなの?なら、いいんだけどさ……ほら、密航は一大ブームになってるとかそんな話を聞いたことがね……」 「若い女、と言いましたね?」 有利に任せておくとどんどん墓穴を掘り続けそうだったので、無理やりに割って入った。一体どんなブームなのよ。サラレギー王には、王様とその妹と二人して自国の船に密航したとか変な言い訳をしちゃったけどさ。 「サラレギー陛下からは、この船には女性がいないとお聞きしていますけれど?」 以前に入浴はどうしているのかとか、セクハラかしらと思った質問をされたときにそんな話をしていたはずだ。 だけど確かに後ろの木箱の中には女の子がいて、そしてこの人たちは密航者はいないと言っている。でも、若い女がいたはずだとも。 「もちろんです。我が小シマロンの国主であられるサラレギー陛下の御許や、お客人方の傍に侍ることのできるような女はおりません。して、我々の探している者は、この辺りに来ているはずなのですが」 女の人がいるのにいないの?話に齟齬が出ているような? ムッと考えるように頬の指先を当てて首を傾げると、ヨザックさんが指を鳴らしながら一歩前へ出た。 「聞こえなかったのか?うちの陛下も殿下も、女なんてこの船では見ていないと仰っている。役に立たない耳ならいらないよなあ?」 やたらとドスの利いた声に、二人とも揃って思わずといった様子で耳を押さえた。 「い、い、いや、し、しかし」 「そっちじゃない。操舵室の方へ向かう姿を見た」 マストより舳先側の船室から出てきた人影に、その声に、どきりとして肩が跳ねてしまう。 う、有利とヨザックさんが一緒にこっちを見た。失敗失敗……。 「見当違いの場所を捜しているようだな」 現れた大シマロンからの使者にまで違うと言われて、二人の船員は顔を見合わせると頷き合ってから一礼して、コンラッドに言われた方向へ走って行った。 「あまり感心しませんね」 後ろの女性を匿ったことを咎めたのかと思ったけれど、コンラッドは茶色の外套を脱いで有利に差し出した。 「そんな格好で海風に曝されていては、風邪を引きます。あなたも、サラレギー陛下からお借りした外套はどうしました?」 有利に外套を差し出したまま、わたしのほうも見てそんなことを言う。 「結構だ、余所の国の軍服を借りる気はない」 有利に突っぱねられて、コンラッドは首を傾げた。 「これは俺の私服です」 「だとしても。あんたがに言ったように、必要な物はすべてサラレギーから借りている」 「では、借りたものを活かすようにしてください」 「あんたに言われることじゃない」 硬く冷たい有利の声に、悲しくなって俯いてしまう。有利にそう言われて、コンラッドがどんな表情をしたのか知りたくなかったから。 コンラッドの寂しそうな顔なんて見たくないし、有利に突っぱねられても平然としている姿も、やっぱり見たくない。 俯いて側面の板がズレた木箱が目に映った。 「有利」 隣の有利の袖を引っ張って木箱を指し示すと、女の子を閉じ込めたままだったことを思い出したらしく、慌てて飛びのいて板を外した。 箱から転がり出てきた女の子は、新鮮な空気を吸ってから大きなくしゃみを繰り返す。 「ごめん、ひょっとして中身は胡椒だったかな」 だとしても匿う場所を吟味している時間なんてなかったんだけど。 咳じゃないから対応が違う気はするけれど、見ているだけでもつらそうなのでそっと背中を撫でてみたら、女の子はくしゃみをしながらも、怯えたように後ろに大きく下がってしまった。宙に浮いた手が空しい。 身体を覆っている服は、布に穴を空けて頭を通した貫頭衣のようなもので、腰を紐で括っているだけでひどく薄い。わたしや有利より、彼女のほうがよっぽど風邪を引きそうな格好だ。服から伸びる手足も、首も、折れそうなほどに細い。 じっと彼女を見下ろしていた有利が、片言で独り言のように呟いた。 「む、胸、胸が、デカいです、ね……ってうわっ!す、スミマセン」 で、言うに事欠いてそれ?それなの? こんなに痩せているのに、明らかに胸の周りだけ膨らんでいることを差して言ったのだろうけれど、ヨザックさんがあきれ返ったように首を振った。 「やだわ坊ちゃん、あんな偽胸によろめくなんて。明らかに詰め物でしょう」 「いやでも、この服のどこに上げ底を仕込め……ぎゃっ」 女性を代表して後ろから頭を叩いてやろうかと思ったけれど、わたしが叩く前に有利は足を抱えて悲鳴を上げた。 女の子の服の下から転がり出てきた缶詰が爪先に直撃したらしい。あれは痛い。 彼女が慌てて転がる缶詰を掴んで懐に入れると、今度はそこからパンが覗いた。追われていたのは、食べ物を盗んできたからだったのね。 「あ、確かに上げ底が……」 「ほうらね、グリ江の言った通りでしょう?」 「取らない、取らないから、寄せて上げるのはやめてくれ。偽と判っててもときめくんだよ!」 「坊ちゃん、そんなに寂しいならいつでもグリ江の胸を貸しますのにー」 「そこの二人!そんな話はどうでもいいから!」 馬鹿な会話に釘を差しながら、上着を脱いでその寒そうな女の子の肩に掛けた。 両手で胸に入れた食料を抱える彼女の代わりに、服の前を合わせようと引っ張ってできるだけ肌が隠れるようにする。 ふと顔を上げると、戸惑った様子の女の子と正面から目が合った。大丈夫だからと言うつもりで、できるだけ優しく微笑んで頷くと、女の子もおずおずと頷いた。 ちょっとだけでも意図が通じたようで、それにほっととする間もなく、すぐにコンラッドが回りこんできて女の子の背中を押す。 「早く戻ったほうがいい」 「戻るって何処へ?こんな格好で密航場所になんて戻ったら、本当に風邪引いちゃうよ」 有利が眉をひそめて振り返る。 「そうだ、の部屋に匿えないかな?」 「それは、わたしの部屋なら誰も入ってこないけど……いっそサラレギー陛下に、彼女にわたしの身の回りの世話を任せたいから許してもらいたい、とかお願いしたほうがよくない?」 聖砂国まであと何日かかるのか判らない。その間、船に乗せてくれたサラレギー王に負い目を覚えながら、こそこそ食料を盗んだりして隠すよりはまだいいと思うけど。 「言葉も通じない相手をですか?」 有利が考えるように唸ったところで、コンラッドが割って入ってきて思わず二人で揃って睨んでしまう。 「口実なんだから、その辺りはどうでもいいの」 「あなたがそう願えば、サラレギー陛下は叶えてくれるとは思いますが……」 コンラッドが口ごもった時、わたしたちの間から左右を見回していた女の子は、人影がないことを確認するといきなり船尾に向かって駆け出した。 「ちょっと!」 有利が慌てて追いかける。わたしたちも、その一瞬後に遅れて後を追う。 言葉が通じないから、引き渡す相談をしているとでも思われたのかしら? ある意味ではそうなんだけど、それは逃げ隠れしなくてもいい方法を探していたのであって、と大声で言うわけにもいかず、また言っても通じそうもないと考えている間にも、彼女は船尾の梯子を降りて行く。 「待ってってば!」 「あまり深くまで追わないでください!」 ヨザックさんの注意も聞こえてないのか無視しているのか、有利も梯子を降りて行ってしまう。 有利とヨザックさんの後を追って梯子を降りようとして覗き込んだ船倉は、わたしたちが過ごす船倉の廊下よりもぐっと薄暗くて、潮の匂いがきつかった。 海の中の匂い。 船倉は甲板より強く揺れを感じるとはいえ、覗き込んでだけなのに、ぐらりと視界が揺れる。 暗い……底……波に、揺られて、潮の匂い、が。 「!」 後ろから肩を掴んで引き戻されて、初めて自分が目を回して船倉に落ちかけていたことに気が付いた。 「あなたは行かないで、ここにいてください」 床に座り込んだ状態で両肩を掴んで揺らされて、二、三度と瞬きをして、ようやく視界にはっきりとコンラッドの顔が映る。 「でも、有利が」 「ヨザックが追ってます。それに俺が連れ戻してきますから。大人しくて待っていてください。いいですね、動かないで」 「でも!」 ふわりとコンラッドのコートを肩に掛けられて、その温かさに言葉が途切れてしまった。 さっきわたしが彼女にしたのと同じように、コンラッドが前を合わせるように引っ張って、わたしをコートで包み込む。 「すぐに戻ります」 それ以上は何も言わせてくれずに、梯子も使わず身軽に船倉へ飛び降りてしまった。 |
女性はいないという話でしたが、確かにいました。 でも密航者ではないという話で……? |