コンラッドのことを信用していないはずがない。絶対にない。
そんなことを自分に言い聞かせても、一旦疑ってしまうとものが自分の内側にある心なんて不確かなものだけに、自信が揺らいでしまう。
だったら、もっと信用できない相手に対する評価だけでも安定すれば、少しは自信が取り戻せるかも……。
……とか、ね、そんなことを考えた時点で、きっとわたしの脳はもう考えることを放棄していたんだと思う。
後になって落ち着いてくると、例えサラレギー王が信用できる人だという結論が出たとしても、それとコンラッドのことはまったく関係ない、おまけにやっぱり信用できない人だという結論に達したら、それこそわたしって他人が信用できないやつなんだという最初の問題に戻るだけだと気付いた。
自分のあまりの迷走ぶりに、ヴォルフラムに「へなちょこ!」とか、村田くんに「君って本当に馬鹿だよねー」とか言ってもらいたくなった。
怒って嗜めてくれる人がいたら、もう少し落ち着いて物を考えられるんじゃないかって。
ああ、ダメ!また人を頼ってる!
それに、ダメなやつ扱いされたいとか考えてる時点で、迷走はさらに激しくなっている気がする。
でも、嬉々として厨房服を広げているサラレギー王を前にして、困惑する有利と横目でお互いに「何とか言え」と脇腹を肘で突いていると、つい遠いところにいる人たちに思いを馳せてしまうのでした。



100.割れない鏡(2)



「ユーリにはその服がよく似合っていたから、厨房係に言いつけて持ってこさせたんだ」
サラレギー王はパリッと糊の利いた新品の厨房服を、嬉しそうに有利に差し出す。
「……わ、わー新品だーありがとう……」
有利、棒読みになってる。
引きつった笑いで受け取りながら、有利の言葉は平坦な機械みたいだった。でもその気持ちは判る。
確かに有利はサラレギー王の高そうな服は汚せないと、彼からは借りなかったけれど、別に厨房服じゃなくてもいいんじゃないかなと……借りる身で注文をつけるのは贅沢か。
しかもサラレギー王は一応好意で、『有利に似合う服』を選んだわけで……。
本当に好意なのかしら?
有利の王らしさの足りないところを揶揄しているのでは……ああ、だめだめ。また疑いの目で見てる。
「ありがとうサラ。でも、もっと汚い服でよかったのに。おれは走り回るからすぐに汚しちゃうし。こんなに真っ白だと動き回るのに気にしちゃいそうだな。あ、それともいっそ本当に料理人見習いとして、食堂でジャガイモの皮でも剥けばいいかも」
一生懸命に好意を素直に受け取ろうとして、どこか斜めに滑った答えを返す有利に、サラレギー王は驚いたように叫んで有利の手を握った。
「何を言ってるの、ユーリ!あなたはわたしの大切な客人なのだから、そんなことをする必要はないよ。海の上は日差しも潮風もひどい。もしあなたに風邪でもひかせることになったら、わたしが悲しい!」
「いや、おれは結構丈夫だし。炎天下の中で駆け回るのは当たり前で……いやいやいや、そうじゃなくて。でも、ほら、おれたち一文無しで交通費も手土産もないのに、この船に乗せてもらっちゃったからさ。タダ乗りみたいで心苦しいんだよね」
「ただ乗りだなんて、そんなことを思う者は誰もいない。あなたとご友人はわたしの命を救ってくれた。我々こそ、返すことができないほどの大きな恩がある」
有利の顔が一瞬、強張った。
そうだ、有利がサラレギー王から借りたマントを着ていたせいで、ヴォルフラムが弓で射られたという話を聞いた。もしも胸に毒女アニシナの分厚い文庫本を入れていなければ、ヴォルフラムはどれほどの重傷を負うことになったか判らない。
ぞくりと背筋に冷たいものが走って、視線を落として口を押さえる。
赤い炎と、赤い血、と。
コンラッドと眞魔国で最後に別れたあの教会での恐怖が少しだけ頭を掠めて、強く目を瞑った。
わたしはその場面を見ていないのに話を聞いただけでこれなら、有利はどれほどショックだっただろう。
わたしといえばその頃、海に落ちていたから赤どころか暗く黒い水底しか見えなくて……。
「それに、のこともある。ね、もしもがわたしの妻となれば、義兄上を外洋へお連れするなんて、当たり前のことだもの。そうでしょう、ユーリ?」
「い、いやー、それはまあ、また別の話ということで……」
「ああ……ごめんなさい。どうしても先走りすぎてしまって。わたしの悪い癖なんだ。どうか気を悪くしないで。も……、どうかしたの?」
正面からサラレギー王に声を掛けられて、いつの間にか息を止めて、胸を押さえるように服を握り締めてぼんやりと床を眺めていたことに気がついた。
「い、いえ、なんでもありません」
呼吸をしていなかったのはほんの短時間だったから、息を乱すこともなく首を振ったけど、サラレギー王は心配そうに眉を寄せて手を伸ばしてくる。
「もしかしてわたしがまたあの話を持ち出したことが不愉快だった?」
「いえ、本当に何でもないんです。ちょっとぼんやりしてしまっただけで、不愉快だなんて、そんなこと……」
今度はわたしがぎゅっと右手を握られて、そこで言葉が切れてしまう。
不愉快だなんて、そんなこと。
「それならいいのだけど……あなたには嫌われたくないんだ。仲良くなりたい」
サラレギー王は握ったわたしの手を引き寄せて、おまけに指先に軽く口付けをする。
不愉快だなんて、そんなこと。
ある。
頭の先から足の先まで、身体中に一気に悪寒が駆け抜けた。きっと今、鳥肌が立ってる。
引きつりそうになる顔をどうにか引き締め首を傾げながら、そのまま拳を固めて前進させたい右手を、指先を伸ばしたまま後ろに引く。
サラレギー王がそれに逆らって手を握らなくて本当によかった。でなければ我慢の限界を越えて、危うく美少年の顔面に拳をぶち込むところだった。
そんなことしたら国際問題になってしまう。
「光栄です、陛下」
よっぽどわたしの笑顔が引きつっていたのか、有利がそこまでだと言わんばかりに、サラレギー王との間に身体ごと入ってきて、わたしの肩を掴んで後ろに押した。
、顔色が悪いよ。調子が悪いんじゃないの?部屋に帰って寝てろよ」
「ユーリの言うとおりだね。船酔いかな?それとも旅の疲れが出ているのかもしれない。ゆっくり休んだほうがいいね」
「そう……ですか?」
特に疲れてはいないけど、ここは一回部屋に戻って気持ちを立て直したほうがいいことは自分でも判った。男嫌いがますます酷くなっている気がしてならない。
「じゃあおれ、ちょっとを部屋に送ってくるよ」
「そうだね、付き添いがいたほうがいいかもしれない。小シマロンの者はあなたたちに深い恩義があるから大丈夫だけど」
肩を抱いた有利の手が揺れた。わたしも眉をひそめてしまって、有利の影に表情を隠す。
この船で、小シマロンの者ではなく、わたしたちにとって当然安全な眞魔国の人でもないのは、大シマロンからの使者であるコンラッドしかいない。
「ウェラー卿は、サラの護衛を引き受けてるから、この船の上で騒動を起こしたりはしない。
そうだろう?」
「そうだね。あなたたちと彼は知り合いのようだし」
にっこりと微笑むサラレギー王に、有利は軽く肩をすくめた。
「ま、知らない仲じゃないって程度だけどね」
それは、事情を知らない人に対する必要な表現だ。
だけどわたしは、一言も答えることができなかった。


「本当に大丈夫か、?」
サラレギー王に挨拶をして部屋を出ると、有利は心配そうな表情で下から覗き込んでくる。
てっきり部屋から出る口実にしただけだと思っていたので、驚いて目を瞬いてしまった。
「え、平気だよ。思わず拳を固めかけたけど、堪えたし」
「堪えてくれて助かった……じゃなくて、今はちょっと回復したけど、さっき紙みたいに真っ白な顔色してたぞ」
「そう?」
首を傾げて頬に触れてみるけれど、もちろんそんなことしても自分の顔色は判らない。
「そんなに結婚の話が嫌……だよな、当たり前か」
「ううん、別にその話じゃなくて……え、そんな話なんてしてたっけ?」
「してたよ!お前聞いてなかったの?ぼうっとし過ぎだぞ」
「うーん……ごめん」
どこか納得いかない。確かあのときは船にタダ乗りは心苦しいという話をしていて、ヴォルフラムの話になって……それから。
「おーや、もう今日のお話は終わりですか?」
角を曲がったところにヨザックさんが立っていた。わたしと有利は同時に立ち止まって絶句する。
どうしてヨザックさんは、割烹着でお玉とフライパンを握っているんだろう。
「決まってるじゃないですか、坊ちゃんとお揃いにしたかったんですよ」
「おれとお揃いって!い、いやそれより、心の声を読むな!」
「だって坊ちゃんも姫も同じ顔してるんですもの。ところで姫はなんだか顔色が悪いですね」
ヨザックさんにも言われてしまった。
「またあの話を持ち出されたからだろ。は本当に男が嫌いだからなー」
「とかなんとか言っちゃって陛下、お顔がにやけてますよ。そのうち『一生おれの傍にいればいいよ』なんて言い出しそうですね。どこの父親なんだか」
「おれがー?まさか、勝利じゃあるまいし、そんなはずないよ」
人を肴に楽しそうに小突き合っている二人に溜息が漏れる。楽しそうな分にはいいけどね。
「じゃあ、ゆっくり寝てろよ」
「え、有利は?」
「おれはちょっとひとっ走りしてくる」
「またですか!?」
わたしが引き止める前に、ヨザックさんが悲鳴を上げた。その声は心の底から嘆いている。
サラレギー王との二人部屋は気詰まりで、有利は何かと言えば船の甲板に出て走っている。
そのたびにヨザックさんも一緒に走っているんだから無理もない。
「こんなに走らされたのは兵学校のシゴキ以来だ」
「いや、別に付き合わなくてもいいって。ヨザックはと一緒にいれば」
「いーえ、是非ともお供します。姫は部屋から出ないで下さいね」
二人掛かりで部屋に押し込められそうになって、慌ててドアに手をついて突っぱねる。
「今日くらい一緒に行く。この船に乗ってからずっと部屋に篭りっ放しなんだもん。身体が鈍ってしょうがないの!」
「でもお前、調子が悪いんじゃ……」
「別になんともないってば。それより、何もしなさすぎて調子がおかしくなりそう。ここのところずーっと、走り込みも素振りも弓引きもやってないんだもん」
小シマロン国内を横断したときは過酷すぎたけど、こうやって日がな一日部屋に篭っているというのも、身体中の筋が固まりそうでつらい。大体、わたしは有利と一緒で走り込みは欠かさないタイプなのに。
「すぐ着替えてくる。ちょっと待ってて」
返事も聞かずに部屋に入った。こう言っておけば、置いていって一人でうろちょろされるよりはいいと、二人とも待っていてくれるだろう。
サラレギー王から借りた服は運動には向かない。着替えるのは、小シマロン国内を旅していたときの、コンラッドに買ってもらった服だ。
あのときは何気なく、そしてありがたく受け取ったけど、こうして改めて着てみるとサイズがほぼぴったりだ。きっとあれだ、コンラッドは見た目で大体のサイズが測れる人なんだ。
わー、コンラッドって、服とか贈り慣れてそうー。
ここでムカッとくるところが図々しい。以前ならともかく、今のわたしがコンラッドの交際にどうこう言う筋合いはないんだから。
でも、腹が立つものは腹が立つ!
別に本人に八つ当たりしなければ、ムカムカすることまで押さえる必要はないだろう。そこまで押さえるのは精神衛生上よくない、とか自分に言い訳をしながら部屋から出ると、暇つぶしなのか右手を握り合って指相撲をしていた有利とヨザックさんが同時に目を瞬いた。
「おや、すっかり元気になられたご様子で」
「え?」
「いや、元気っていうか……なんで、怒ってんの?」
「怒ってる?」
「眉が吊りあがってるぞ」
……いくら本人の前でなくても、心の中はともかく顔に出してちゃいけない。







少しは元気になった……のでしょうか?(^^;)


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