甲板に上がって、冷たい風に当たると頭に上っていた血が一気に下がったような気がした。
「うー……だめだ、おれはなんてダメな兄貴なんだろう……」
カリカリしてを怒鳴りつけるなんて、いくら最近いろいろあったからって酷いことをした。
急に結婚なんて話を持ち出されて、一番動揺していたのはなのに、おれが怒ってどうするんだ。
「あらら、陛下ったらそんなに落ち込まなくてもよろしいじゃありませんことぉ?」
後ろからついてきていたヨザックが笑いながら、うな垂れたおれの背中をバシンと叩く。
「いってぇ!強い、力が強すぎるよグリ江ちゃん!」
顔面から甲板に倒れるところだった。よろめきながらどうにか体勢を立て直して振り返ると、おれの背中を叩いた手を降ろしたヨザックの顔には苦笑が浮かんでいる。
「魔王様がそんなしょぼくれた顔しちゃいやですよ。胸張って世界はおれのものだって顔してくれなくちゃ」
「世界は言いすぎだろ、世界は。あー……でも、そうだよな、下を向いてちゃ落ち込んでいくだけだよな」
「それでこそ陛下です」
護衛としてはもちろんのこと、潜入捜査もこなして、おまけに落ち込んだら励ましてまでくれるなんて、本当になんてマルチなお庭番だろう。
「よし!じゃあひとっ走りして、頭を冷やしたらともう一回話しに行こう!」
「ええ!それって逆じゃないですか!?走ったら頭だって温まちゃうんじゃ……あーっ、陛下待ってぇー」
そうやって、ヨザックに付き合わせたランニングでホカホカになってから船室に戻っての部屋のドアをノックしたけど返事がない。
「あっれー、部屋にいない?」
「でも姫はもう一人で出歩かないって約束してくれたんですけ―――」
おれとヨザックが顔を見合わせて首を傾げたところで、コンラッドの部屋のドアが乱暴に開く。
驚いて振り返ると、が泣きながら抱きついてきた。



100.割れない鏡(1)



「あ、陛下!」
部屋から出ると、すぐ脇の壁にもたれてコンラッドの部屋を睨んでいたヨザックが壁から起き上がった。
ヨザックがちらっと部屋の中を気にするように視線を動かしたのを見て、おれもすぐにドアを閉める。
「大丈夫、はもう落ち着いたから」
部屋に引っ張り込まれて泣きつかれたおれも驚いたけど、廊下に取り残されたヨザックも気になって仕方がなかったんだろう。コンラッドの部屋を睨んでたし。
「あー……別に、コンラッドに何かされたわけじゃないって。だから殴り込むなよ」
一番気にしていただろうことを否定しておくと、ヨザックはほっと息を吐いて肩から力を抜いた。
実は、おれもそれをちょっと疑ったんだけど、は何かされたわけでも、酷いことを言われたわけでもないと、はっきり否定した。
「ああ、よかった。一人で出歩くくらいなら、コンラッドを連れ回してくれとお願いしたのはオレでしたからね。もしもあいつが姫に何かしたなんてなれば、ちょっとした決闘を挑むところでした」
「決闘なのにちょっとしたって何だろう?いや、待てヨザック。騒ぎを起こしちゃ駄目だから。でもって、コンラッドを連れ回せってどういうこと?」
泣き止んだが少し一人になりたいと言ったから部屋から出てきただけなので、ここで話していると部屋の中にもボソボソと聞こえるだろうと、ヨザックと一緒にサラレギーと同居しているおれの部屋のドアも見える曲がり角まで移動する。
「だって姫ってば、ふら〜っと一人で船の中を歩き回るんですよ。野郎ばっかの中であまりにも不注意でしょ?オレが一番ですが、最低でもウェラー卿辺りが傍にいれば安心……と思ったんですけどねえ」
ヨザックは腕を組んで、首を振りながら深い溜息をつく。
「いくら他国の船だからって、乗せてくれた相手にそこまで警戒しなくても……でもは女の子だから気をつけたほうがいいか」
そんなに疑うなよーと言いたかったが、ヨザックにはヨザックの立場があるだろうと納得しておくことにする。一人で二人分の護衛をするわけだし、できるだけ端々まで目を届かせたいんだろう。
「国に帰ったら、グウェンダルに特別賞与を考えてもらうから」
苦労をかけるね、と服の上からでもみっちりとした筋肉が判る肩を叩くと、ヨザックは苦い笑いをひらめかせた。
「そりゃありがたい。うちの大将はそれはもう厳しいお方ですからね。重要な潜入アイテムなのに、ときどき経費で落ちなかったりするんですよぅ?」
「それって女装道具とか……?」
それは趣味だと判断されているからじゃないだろうか。
「女性下着って高いんですよね」
「下着まで!?ヨザックって完璧主義?」
それとも趣味だからか!?
「ですからねー、下着まで買ったかどうかは知りませんが、小シマロンで姫を保護したウェラー卿は、服だの装備だの一式揃えた上で軍港まで連れてきてくれたでしょう?何を考えてあんな服着てるのかは知りませんが、姫や陛下の安全に関してだけは、信じていいんだと思ったんですけどね……」
「いや、だからコンラッドに何かされたわけじゃないって……」
「じゃあなんであいつの部屋から泣いて飛び出してきたんですか」
どうやら廊下で待っている間、正面の部屋に殴り込みを掛けたいのを相当、我慢していたらしい。指の骨を鳴らしそうな雰囲気にヨザックの腕に慌てて取り付く。
に言わせると、コンラッドにサラレギーを警戒しろって言われたのが、言われるまでもなく図星だったせいで悲しくなったらしい」
おれが溜息をついて首を振ると、ヨザックはようやく壁にもたれるようにして前のめりだった身体を後ろに戻した。
「どういうことです?」
「おれが廊下なんかで……あー、ほら、サラレギーの提案を叫んだだろ?それをコンラッドに聞かれたらしいんだ。で、その話を人に広めないで欲しいとがお願いしたら、ありえない話だからわざわざ言いふらすはずがないって軽く笑われたって……」
「あー……まあ、その辺りは、オレも同感ですね」
「え、そうなの!?じゃあサラレギーの冗談?いやでもそんな雰囲気じゃなかったけど」
ドッキリでしたーと看板を持って黄色いヘルメットを被って手を振るサラレギーを想像しようとしてみるけど、ガラじゃないよな。
「いえ、まあその辺りは横に置いてください。じゃあそこから警戒しろって話に?」
「うん、そうらしい。でさ、そう指摘されると、言われるまでもなくサラレギーを疑ってるって判っちゃって、そんなに人を疑ってばっかしているのが嫌になったんだって」
「でも、姫が知らない男を警戒するのはいつものことじゃないですか」
「だろ?だからさ、おれには言い難いからそこまでしか説明しなかったのかなって思って」
「言い難い」
「だって、黙って大シマロンに行っちゃったコンラッドに、他人を疑えなんて言われたら普通、腹が立たないか?」
それは最大に皮肉だろう。たとえコンラッドが好意で言ったとしても。
ヨザックは緩やかに口を釣り上げて、目が笑ってない笑顔になる。
「オレなら殴り倒したくなるかも」
「おれもだよ」
たぶん、おれも似たような表情をしているだろう。
はコンラッドが悪いわけじゃないとは言ったけど、どっちにしろコンラッドに泣かされたんならコンラッドのせいだよな」
「ですね」
意見の一致をみて、おれとヨザックは同時に首を巡らせてコンラッドの部屋を見る。
いい加減にしやがれとドアを蹴ってやりたい衝動に駆られるくらい、当然のことだろう。


そんなことがあったので、おれとヨザックは協力してとコンラッドを近づけないようにしようと改めて確認し合ったのだが、あんまりその必要はなかった。
何しろ、自身が頻繁におれのところに来るか、部屋に篭っているかくらいの行動しかとらなくなったからだ。
今までサラレギーを避けていたのに、疑うのは理解が足りないからだと言い出してよく部屋に来るようになってしまって、お兄ちゃんとしてはヤケになっていないかとても心配になってしまう。
相変わらず生活習慣の差で会話が斜め上に上滑りしているというのに、サラレギーはそれでもと話が出来る機会が増えたと嬉しそうだった。
……これまた、とても複雑だ。
ヨザックもコンラッドも、揃ってサラレギーの求婚には絶対に裏があると言い張っていたけど、裏は裏でも政治的な裏じゃなくて、政策みたく言っておいて実は恋でした、なんて裏じゃないかと、そっちの意味でも気が気じゃない。
あまりにも気になったので、の部屋でが暇に任せて紙で作ったという手作りトランプを使って、三人で七並べをしながらそう言ってみたら、にもヨザックにも驚かれた。
「それは考えてもみなかった」
そんな風に二人にまったく同じタイミングで注目して感心されると、逆に馬鹿にされている気になるのは何故だろう。
やさぐれかけているおれを尻目に、とヨザックは手持ちのカードを眺めながらそれぞれまったく逆の反応をする。
「でも、いくらなんでもそれはないでしょう?」
「いやあ、意外と真理を突いてるかもしれませんよ。だってうちの殿下はかぁわいいですからねー」
ヨザックがぎゅっと自分の身体を抱き締めるようにして身悶えると、は勝手に言ってれば?と言わんばかりの呆れた目で溜息をついている。
実は、これは言わなかったけどおれは逆のことも危惧もしていた。
がヤケを起こしているのは、サラレギーを信用しようと躍起になっているんじゃなくて、古い恋を忘れるために新しい恋をしよう……とかなんとか、考えているんじゃないだろうかと。
コンラッドがまだ好きで、想い続けるというの宣言を聞いたのは大シマロンでのことだ。
あれから時間の経過もあれば、コンラッドとの接触もあったわけで、また泣かされたことなんかを考えると、今度こそ思い切ろうとしているんじゃないかって……でもそれは考えすぎだったらしい。
ヨザックに向けた呆れ顔を見る限り、サラレギーを好き、あるいは好きになろうという気はまったくないようだ。好きな相手になら、好かれたいはずだし。
「またまた、そんな顔しちゃって。姫はご自分の容姿に無頓着すぎるんですよ。女の子なのに、そんなことじゃダメですよ。姫の魅力なら本当だったら、相手がどんな企みを持ってても、『アタシの色気で骨抜きにしてやるわ』くらい考えてもおかしくないのにー」
「おかしいですよ」
「おかしいだろ、それは」
「いーえ、おかしくありません。ツェリ様の伝説を知らないんですか?あの方が何度、ご自分の命を狙ってきた相手を悩殺したことか」
「無理!無茶です!ツェリ様と一緒にしないでください!」
超絶セクシークィーンの悩殺ポーズを想像して、とおれはまったく違う意味で赤面する。
想像だけで青少年の脳を直撃するツェリ様の色気、恐るべし。
「いやーん、グリ江の危惧がまたひとつ増えちゃったー。陛下、くれぐれも姫とサラレギー王を二人きりにしないでくださいね」
「話を聞いて!ありえないですから!」
が真っ赤になって机を叩いて、並べていた紙製のトランプが宙を舞う。
数日前に泣いたところを見たばかりだったから、今だけでもが元気な様子を見ているとほっとする。
飛んできたスペードのエースを拾いながらおれが笑うと、ヨザックは首を傾げて、は自分が笑われたと思って頬を膨らませる。
「ほら!ヨザックさんが変なこと言うから、有利に笑われた!」
「えー?違いますよね陛下。だって姫の悩殺ポーズって絶対破壊力ありますって」
二人の元気な言い争いが余計に嬉しくておれが笑顔になるから、ますますが怒ってヨザックがさらに乗せて、おれはそれが楽しくて仕方がない。
久々に、本当に楽しいだけの時間を過ごすことができた。
だけど翌日、事態は大きく変化することになる。







サラレギーとの距離を詰めようと努力をしているようですが、果たして上手くいくのでしょうか。


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