船の旅は、ひたすら暇だった。 寄せてもらっている身で、暇だと言うこと自体が贅沢なのは判ってるんだけど、何もすることがないというのもつらい。 有利はことあるごとにヨザックさんを連れて甲板に上がって走っているけど、それに同行することもできない。 借り物の服が、あまり運動に向かないデザインと材質だったから。 有利がわたしの部屋に行こうとすると、大体サラレギー王も一緒に行くと言い出すらしく、わたしが彼を苦手としていると知っている有利は様子を見に来ることも遠慮している状況で、必然的にひとり部屋でぼんやり過ごすはめになっているのが現状だった。 098.餓えた蝶に溺れた魚(3) 「あーあ……ヴォルフラムか村田くんが一緒だったら、まだよかったのに」 暇だということもあるけれど、そのどちらかが一緒にいてくれたら、時折強く感じるサラレギー王への不信感がわたしの考えすぎなのか、他の人から見ても感じるものなのか、そんな話だってできるのに。 溜息をつきながら、壁に掛けていたコンラッドの上着を触ってみる。 「よし、乾いてる」 これは海に落ちたわたしにコンラッドが掛けてくれたもので、釦に絡まった髪を解いた後、有利がどこかに持って行こうとしたから、乾いてから返すとわたしが預かっていたのだ。 だって、有利はサラレギー王と同室だから、ぐっしょり濡れた防寒具を室内干しにするわけにはいかないし!……という理由の元で。それに有利が納得したのかどうかはよく判らないけれど、何も言わずに預けていったので、納得してくれたと思いたい。 壁から降ろすとしわにならないように丁寧に畳みながら、何と言って返しに行くかを考える。 ありがとうございました、で持って行ってもそこで会話は終了しちゃう。きっと上着を受け取ったら、コンラッドはすぐに部屋に引っ込んでしまうに違いない。 どうにかコンラッドを引き止めるように持っていく会話はないかと、畳んだ上着を前にベッドの上で正座して頭を捻ったけれど、ろくな話題が思いつかない。 小シマロンの船の中、しかもサラレギー王の部屋のすぐ近くで、小シマロンの考えはどう思うと聞いてもまともな答えは返ってこないだろう。 そうでなくても、大シマロンの使者という立場のコンラッドがどれだけ本心を語ってくれるかというと、限りなく不透明な問答にしかならない気もする。 聖砂国までの旅の日程なんてコンラッドに聞いても知っているはずがないし、いっそコンラッドの船旅の経験はどれくらいある?とか世間話をしてみようかと考えたけど、どう想像しても会話は長続きしそうになかった。 そもそも今の関係で、長話をしようという考え自体が甘いんだ。 諦めの溜息をつきながら、綺麗に畳んだコンラッドの上着を抱えてそっと廊下へ出た。 そんなことしなくても、有利のランニングに付き合っているからヨザックさんも廊下にいない。 短い時間でも顔を見ることができたら。 少しでいいから、また二人きりで会話ができたら。 緊張でドキドキする胸を抑えて、向かいの部屋の扉を叩いた。 しばらく待ってみる……けど、返事がない。 「……コンラッド?」 もう一度ノックをする。だけど廊下は静かなままだった。 「留守かー……」 そういう可能性を考えなかったほうがどうかしている。 いくら狭い船の中だからって、コンラッドだって四六時中部屋に篭ってはないよね。 そんなに落ち込まなくても、有利ならきっとまた走りに出る。そうしたら、必ずヨザックさんもついていく。 そのときに、もう一度訪ねたらいい。けれど。 「なぁんだ……いないんだ……」 緊張していた分だけひどくがっかりして、小脇に抱えていた上着を持ち直して抱き締めた。 「コンラッド……いないんだ……」 せっかく、少しだけでも二人きりで話せるかと思ったのに。 小シマロンの国内を旅した間はあんなに二人きりが苦しかったのに、やっぱりわたしって懲りてない。 でも……あのときだって、コンラッドの傍にいることができて、嬉しかったのも本当だ。 「?そこで何しているの?」 掛けられた声に驚いて振り返ると、廊下の角でサラレギー王が不思議そうに首を傾げている。 「い、いえ、何でも……」 抱き締めていた上着を慌てて背中に隠しながら何でもないと言おうとして、サラレギー王の後ろから現れたコンラッドに、また落胆した。 せっかく上着を返すことを理由に、二人きりで顔を合わせられると思ったのに。 「コ……ウェラー卿にお借りしていた上着をお返ししようと思って」 一度後ろ手に隠した上着を持ち直して差し出すと、サラレギー王の後ろから軽く手を伸ばしたコンラッドは、上着を持ったわたしの手を押し返してきた。 「もう忘れていましたよ。よろしければどうぞそのままお持ちください。海の上では寒さも日差しもきついので、何か羽織るものがあったほうがいいでしょう。私はこの通り、替えの上着を持っているのでどうぞ」 コンラッドの上着だと思うと借りていたい気もする。これを手元に置いておけば、また次に返しに行く口実ができる。 だけどその品が大シマロンの軍服だということが、素直に借りることを躊躇させた。 コンラッドが大シマロンの人なのだと、わたしはいらないのだと言われたことを、思い知らされるものだから。 「えっと……」 「けれどウェラー卿の上着では大きすぎるね。がよければわたしのマントを貸そう。ね、そのほうがいいよ。今着ているわたしの服でも少し大きいくらいだもの」 「え……」 「待ってて。すぐに持ってくるから」 「え、あの、陛下!そんな、何から何までお借りするなんて心苦しいです!」 「だってあなたとユーリは急に乗船することになったのだから、仕方ないじゃないか。気にしなくていいからね」 さっそく部屋に戻ろうとするサラレギー王に驚いて呼び止めたけど、軽く笑って返されてしまった。 部屋に駆け戻ってしまったサラレギー王に、困惑してコンラッドを見上げる。意見を聞きたかったのか、ただの反射行動のようなものだったのか、自分でもよく判らない。 「えっと……」 「海上の日差しと風がきついのは事実ですから、借りておいていいと思いますよ。勝手に貸すと押し付けてくるものですし、恩に感じる必要もないでしょう」 「そ、そういうわけには……」 この素っ気ない言い方は、わたしを突き放しているのかサラレギー王と距離を開けているのか、その両方なのか。 「あの……コンラッド」 呼びかけるとちゃんとわたしを見てくれる。 その視線に、以前のような優しいものは込められていない。それが寂しいけれど……それでも、今は傍にいる。 「……ありがとうございました」 「上着ですか?そうですね、サラレギー陛下から借りるなら、もうそれはいらな……」 「上着もだけど、そうじゃなくて、あの、有利に会えた町まで連れて行ってくれたことを!今までちゃんとそのお礼も言ってなかったし……」 持っていた上着をぎゅっと抱き締めて、ようやくお礼を言えてほっと息をつく。 あの町では、それが別れの合図になると思ってどうしても言えなかったから。 目を瞬いたコンラッドは、呆れたような息を吐いて髪を掻きあげた。 「ですから、俺は俺の都合を通しただけなので、礼の必要はないと言ったでしょう」 「でも、そのおかげでわたしが助かったのは事実だし、感謝するのは当然だもの。……それにあの夜、逃げ出したことも……」 「それはもう謝っていただきました」 「うん、だけどまだお礼は言ってない。探しに来てくれてありがとう……わたし、コンラッドが探してくれて」 「お待たせ、」 とても嬉しかったの、という言葉は戻ってきたサラレギー王の声で掻き消されてしまった。 「はい、どうぞ。フードもあるから、寒い時はこれを被ってしまえばだいぶ暖かいよ」 笑顔で戻ってきたサラレギー王はコートを差し出そうとして、わたしが抱き締めている上着に目を瞬いた。 「あれ、まだ返していなかったの。これはもう無用だろう?」 「あっ」 サラレギー王にコンラッドの上着を取り上げられて、思わずその白い布を掴んでしまう。 「?」 「ご、ごめんなさい、つい反射で」 慌てて手を放すと、サラレギー王は上着をコンラッドに押し付けるようにして手渡して、わたしには自分のコートを差し出した。 「どうぞ」 「……ありがとうございます」 サラレギー王の好意に感謝した笑顔は、引きつっていなかっただろうか。 せっかく綺麗に畳んだのに、わたしが思わず抱き締めてしまったり、サラレギー王がコンラッドに押し付けたりした上着には見事にしわが寄っていて、目に映ったそれに気を取られて、そのときちゃんと笑えていたのか、後で思い返すと自信がなかった。 夜になると大時化と出くわしたとかで、船の揺れはかなり大きなものになった。 貨物船といっても元から長旅をする予定だった船は頑丈で、びくともしない。 壁とか床とか天井とかから板が軋む音はするけれど、それは一日目の夜から一緒だし。 夜中になると聞こえる家鳴りと一緒で、夜は静かだからそういう音が耳につく。それだけのことだ。 そう判っているのにベッドに入って目を閉じると、船が波に揺れていると強く感じて眠れない。 大きな波に、揺らされていて。 灯りを消してしばらく、闇に慣れてきた目で天井にぶら下がったランプが大きく左右に揺れる様子を見ていると、段々と不安が湧きあがってくる。 そのうちたまらなくなると、毛布を頭から被って膝を抱えるように小さく丸まって、息苦しくなるとまた仰向けに寝返りを打つということを繰り返していた。 おかしい。 ヴァン・ダー・ヴィーア島に向ったときも、ヒルドヤードに有利の湯治に行ったときも、カロリアと大シマロンを往復したときも、そしてカロリアから眞魔国に戻った時も。 もう何度も船旅をしたのに、今頃になってどうしてこんなに怖いんだろう。 この船が眞魔国のものではないからとか、有利と離れているのにヴォルフラムもいないなんて状態だからとか、それらしいことは思いついたけど、どれもこれだという決め手に欠ける。 何度も寝返りを打っているうちに、ふと窓の外にちらっと見えた光に心臓が跳ね上がる。 あれはきっと近くを行く護衛船の灯りだ。……船の灯り、なのに。 ちらりとだけ見えた光は、すぐにまた見えなくなった。 闇に沈んでいく……光が遠のいて、波の中に。 水の底へと。 「やっ……!」 天井から垂れ下がったランプに飛びつくように、ベッドから飛び起きる。 震える手でランプに火を着けて、部屋にオレンジ色の光が満ちるとほっと力が抜けた。 「よかった……」 落ちるようにしてベッドに腰を落として、震えた声を出した喉を触る。 よかった、ちゃんと声も出る。 ここは水の中じゃない。 「あ、れ……?」 安心して息をついて、ふと考えたことに自分で首を傾げた。 水の中じゃないってそんなの当然のことなのに。 でも、ランプの灯りが着いたことに、何より声が出せたことに安心した。 「あなたは海を恐れている」 この船に乗った日の夕方、コンラッドはそう言った。 あれは波に目が回っただけかもしれないと思っていたけれど……もしかして本当に海恐怖症になってる……のかな? 「えー……で、でも聖砂国まで、まだまだあるよねー……」 それは困る。そんなことでは困る。 「う、海は怖くない怖くない怖くない」 両手を握り締めて、暗示をかけるように繰り返してみるけれど、果たして効いているのかいないのか、そもそも本当に海が怖いのか、その確証すらない。 ないんだけど……ランプの灯りを消す気にもなれない。 「えーとえーと……け、景気付けにちょっと歌ってみようかな……」 我ながら、段々わけが判らない方向へ流れてきた。やっぱり怖いのかもしれない。 「わ……わーれはうーみの子、しーらなみのー!」 ……だからって、どうしてこの歌なんだろう。 とにかく歌ってみようと拳を作ったところで、ドアの低い位置に小さなノックがあった。 「姫ー?ひょっとして起きてますー?」 あ、らら……ヨザックさん、まだ部屋に帰ってなかったの? 下手な歌を聞かせてしまったかと恐る恐るドアを開けてみると、部屋のドアの横で毛布にくるまったヨザックさんが座っていた。 「え!?ひょ、ひょっとして、ヨザックさん、ここに寝泊りしてるの?もう三日も!?」 「今のところは。陛下にも言いましたけど、ちゃんとへばらないよう自分で加減はしますからご心配なく。それより何やら話し声が聞こえたんですが、まさか誰か部屋に連れ込んでます?」 「連れ込むってなんですか、連れ込むって!」 しかも誰を連れ込むというのか。有利はサラレギー王に独占されている状態だというのに。 おまけに正面から取り合えない分、ヴォルフラムに連れて行かれるより性質が悪い。 「ちょ、ちょっと独り言を……というか、一人カラオケを」 しかも夜中にアカペラで。 「カラオケってなんです?とにかくしっかり眠らないと姫はグリ江より貧弱だから、すぐにへばっちゃいますよー」 「貧弱って……」 せめてか弱いとか繊細とか、言い方ってものがあると思う。 「眠れないなら、子守歌でも唄いましょうか?それともカードで遊ぶとか」 どっちも遠慮します。 そう言おうとして、少し考える。 「うん、どうぞ入って入って」 「え、子守歌希望ですか?それとも徹夜で遊んじゃう?」 「まさか。あのね、こんな廊下で寝てるといくらヨザックさんでも風邪引いちゃうでしょ?せめて部屋の中にいたほうが少しでも暖かいし」 ヨザックさんなら、きっと部屋の中でも廊下の人の気配は感じられるだろうと思っての提案なんけど、少し考えているようだった。 ヨザックさんは顎に手を当てて考える人のポーズで、わたしから視線を外して正面の部屋のドアを見た。 「んー……そうですね、じゃあお邪魔しちゃっていいですか?」 「はいどうぞ。なんならベッドも譲りましょうか?」 「そんなまさかー。添い寝なら大歓迎ですけどー?」 「あははー。そんなことするはずないでしょう」 部屋に入ると、ヨザックさんはすぐに毛布にくるまりながら、入り口に背中を預けるようにして座ってしまった。 「え、添い寝を断ったのはそんな意味じゃ。もうちょっと中の方がいいんじゃないですか。そこだと隙間風が入りません?」 「平気ですよ。筋肉って温かいんですよー。よかったら姫も筋肉布団にご招待しましょうか?」 「遠慮します」 そんな軽口を交わした会話がよかったのか、改めてベッドに入ったあとは、もう波や闇に飛び起きることもなかった。 |
コンラッドとは会話もろくにままならず、海の波間が怖かったり、散々な旅……。 |